第1話 Gペンでなぞる世界

まだ水の張っていないプールがある。散った桜が風に煽られ流れ着いたのか、プールの底に掃き溜めになっている。廊下の窓から僕はそれをぼうっと眺めていた。

林野りんのくん、なんで昨日も部活こなかったんだよっ」

佐川が息を切らして部活カバンを揺らして駆け込んできた。

「おはよう。今日小テストあっぞ」

「マジかよさんきゅ、ってそうじゃない!」

都市開発の途中で、細い道が入り込んでいる町だ。ここは屋内プールがあるような強豪校ではないが、れっきとした水泳部がある。彼はそこの部員だ。


「どうした、もう来週こそは行くって言ってたのに」

「……乗り気じゃなくなった。僕はな、何事も距離感を大切にしてるんだ。プールもそう。近すぎると嫌なんだ」

「何訳わからないことを。まぁ陸トレばっかだからつまらない気持ちも分かるけどよ。悩み事とかあるなら聞くぞ」

「別にそんなものないよ。ただ、高校ダルいなって思っただけだよ。」

「まだ入学して二週間だけど!?」


春だ。毎朝、登校時チラシを配る人達の花道を抜けてここまでやってくる。新入部員獲得に色めき立っている高校生達だ。誰もが口角をあげて微笑んでいる。

『陸上部です、いい体格してるね。きっと向いてるよ』『君、思慮深そうだね。天文部はどうかな』なんて、いかにも私達エンジョイしてます、なんてアピールするように先輩が手を差し伸べてくれる。そんなの今だけの一瞬の幻で、どうせ泡沫のように消えてしまうのに。仮初の才能なんて勘違いするほうも馬鹿だ。どうせその顔も一分後には忘れる。

二十五メートルを完泳して、ヒーローになれるのは小学生までだ。泳ぎ疲れた身体をプールサイドに押し上げて、ふと顔をあげたとき、僕を見てくれてる人なんてほとんどいない。そこにあるのは義務感だけだ。そんなのはすべてを見下ろす空だけだ。学校生活なんてそんなもんだと思う。


「はい、林野くん。部活動紹介の冊子まわってきたよ?」

「……悪いな」

別に眠くもないけど、穏やかな春の気温に誘われるように机に突っ伏していた。

「水臭いなー。仮入部のときのバスで隣に座った仲じゃん。しかも同じクラスで隣の席!」


僕の頭の上に冊子を置くと、佐川は僕の後ろの席の生徒に腕を伸ばして残りを配ってくれた。

入学から二週間経った教室は、話す友達なんかが誰しも固まりつつあり、賑やかだ。

少なくとも、僕みたいに突っ伏して寝ている生徒はいなかった。

「林野くんは中学のときからこんな感じだったの?」

「年々めんどくさくなっていっただけだよ」

「そうなんだ……それ、何?」

「ああ墨汁だよ」

「選択授業、書道にするの?」

僕は小瓶の蓋をぽんっと開ける。漆黒の墨汁がたぷん、と音を立てた。Gペンをそこに浸して、ペン先に付着し黒く染まるのを確認すると、異様な表情で見つめる佐川に言い放った。

「違うよ、僕の筆記用具」

「こ、古風だね……」


担任が教室に入ってきたので、会話はそこで途絶えた。

入部届を手に始まるホームルーム。担任による追加の説明で、教室は色めき始めた。

春のこの浮足立った感じが苦手だ。耳の奥がザワザワする。

僕は、鞄から取り出した墨汁を小瓶にとぽぽ、と注いだ。特に腐ってもない。特有の香りが漂った。心地いい音だ。

Gペンを墨汁の小瓶に突っ込んで退屈にくるくる回した。

中学から高校にあがって、何かが変わる、なんてことはなかった。授業が退屈なのは変わらずだ。


僕には大切にしているものがある。人との距離感。あとは瞳未ひとみの私物だ。



Gペンと呼ばれるその筆記具は、メタリックの部分が尖った万年筆に似たものだ。違うのは、補充用のインクを詰め替えて使うのでなく、その都度墨汁に浸す必要があることだ。その分、繊細な書き味が楽しめる。


僕はそれを利き手に構えて、横一直線に引いた。

シャー……。

線が引けた。

ついでに板書をそのまま写してみる。

ジジジ……。

引っかかった音がする。機械的な金属が紙をひっかく音だ。

なんだか使いづらいが、重厚な感覚がある。

海外映画に出てくる少年が日記をつけているようでちょっと雰囲気がいい。これは、高校生になって覚えた、背徳的な僕のごっこ遊びだ。授業の終了を知らせるチャイムが鳴り、ノートを閉じる。墨汁に蓋をする。

 

学校は水みたいだな、と思う。

 均衡を保って、静寂を保つ。授業とその合間には、賑やかになり、各々がまた元の場所へと戻っていく。

 生物なのだから、コロニーを形成する。

 そういう無機質なことの繰り返しだ。

 つまり、僕は泳いでいる。ゴールの見えないコースを、ただ一人で。


「んじゃ、今日も帰るのか。今日は市民プールが使える日なのに」

「うん。いってらっしゃい」

プールバックを揺らして佐川は校舎裏の駐車場へと向かった。屋内プールがないこの高校の水泳部は、夏になるまで、市民プールを週に数回借りて練習している。市民プールへと発車する水泳部を乗せたバスを僕は遠くから見送った。


桜の並木道を抜けて校門まで整備された歩道を歩く。

大げさに手を振って別れる女子の甲高い声が遠く離れた僕にまで聞こえる。

通り過ぎた花壇の脇では、頭を掻いて告白する男子の姿が視界に入った。やがて一緒にいた女子と手を繋いで、よりによって僕の背後について歩き出した。ちょっと勘弁してほしい。春はどいつもこいつも浮かれて馬鹿みたいだ。

警備員の男性に会釈をして、校門を出ようとしたとき、桜の枝に止まっていたヒヨドリが鳴き声をあげて飛び去った。


「ねぇ!君、漫画研究部に入らない?」


 振り返るとチラシを渡す女子に声をかけられた。襟の硬そうな真新しい制服に身を包んだ彼女は、何の穢れも知らない表情をしていた。断られるって分かって配るってどんな気分なんだろう。僕はもらう側という立場を利用して、ひとつ愚痴を零した。

「一つ聞いていいですか、漫画とか描いてて楽しいんですか」

「えっ」

「別に、独り言です。特に少女漫画とか。恋愛とか告白とかくだらねぇなって、それだけです」

女子は何か言いかけたようだが、特に振り返らず、僕はそのまま信号が青に変わったのを確認して横断歩道を渡った。渡り終える頃には、そもそも太陽の陽が眩しくてよく顔ももう忘れた。ショートカットの髪に絆創膏が、見え隠れしていたのだけ妙だなと思ったけれど、すぐにどうでもいいや、と石ころを蹴った。



漫画ねぇ。

何がそんなに瞳未を動かしてたんだろう。

そういえば、僕は瞳未にそれを一度も問うたことがなかった。

ま、今更そう思ったってもう聞けないけど。

コンビニまで続く坂道を下って、あぜ道、堤防、古い橋、河川敷。嫌になってしまうほど見た、何もない田舎道を歩いて、家がある住宅街へと帰る。車が行き交うこの町は、どうも歩行者は肩身が狭い。


 

高校から徒歩四十分くらいで家に着く。この四ⅬⅮKの家が立ち並ぶ住宅街。二階建ての一軒家に僕は生まれてからずっと住んでいる。


「ただいま」

「ああおかえり。部活は良かったの?」

「ああ、いいよそんなの興味ないし」

「じゃあ、あづさちゃんに今日のおかず持ってってくれる?あと、瞳未ちゃんにも」

 母はタッパを僕に手渡す。

玄関を出る。手入れされた庭は、母の几帳面さが出ている。花が咲いている。


ここは空いたところにポコポコ家が建つ住宅街で、ちょうど隣接する家も、十年前に建ったものだ。

ちょっと前までは綺麗だったんだけどな。

庭が踏み荒らされ、枯れ果ていて、植木が倒れている。階段状の棚が倒壊して、庭へと続く道を塞いでいる。そして、すべての窓のシャッターが下りている。夕方四時半だ。早いんじゃない。一日中、下ろしっぱなしなのだ。

まるで人が住んでいる気配のない家だ。

インターホンを鳴らす。しばらくすると、解除音がしたので、ドアノブを引くと玄関が開いた。家の中は真っ暗だった。リビングでテレビが光っている。コントローラーと電子BGMが鳴っている。

毛布を被った少女が、食い入るように画面を見入り、コントローラーを握りしめている。

僕はパッと電気をつけた。

「お前な、また部屋真っ暗にしてゲームして、目悪くすっぞ」

「なんだよーいいところなのに」

毛布を剥ぐと少女が顔を出す。少女の名はあづさ。瞳未の妹だ。あづさはコントローラーを器用に動かし、画面をセーブした。

「いいところって……」

「だってこっちのほうが雰囲気出るじゃん」

「これ今日のおかず」

「どーも」

箸をつつき、むしゃむしゃと食べ始めた。

「おじさんおばさん何時に帰ってくんの?」

「さぁ?九時くらいじゃないの?」

「学校の友達と遊んでろ」

「こっちのセリフだよ、それ高校の制服?それともコスプレ?」

 あづさはコントローラーを奪って、ゲームを再開した。僕はタッパを持って立ち上がった。

「ちょっと和室に供えてくるわ」

和室には、箪笥の上に、写真立てと骨壺だけがぽん、と置いてある。仏壇なんかはない。そこに雑に供えた。

「ほら瞳未、食えよ」

写真の中で微笑んでいるのは幼馴染の瞳未だ。

瞳未は中学三年生の冬、交通事故で亡くなった。

 即死だった。病院でなくて警察に安置されて、

あれよあれよという間に、家族だけの簡易な葬式の手配がされた。

変わり果てた姿だったそうで、服や持ち物や血液判定なんか証拠を出されても、信じがたいくらいだったらしい。

通夜なんてものはなく、あっという間に火葬されてしまった。

 墓も仏壇もない。

 時間が止まったままの家。おじさんはおばさんは仕事に打ち込むようになり、小学生のあづさは廃人同然で暮らしていた。

「悪いねぇ、いつも」

「別に持って来てるだけだし」

「姉ちゃんの原稿と道具も預かってくれてるじゃん。いつか迎えに行くから、もうちょっと匿っといて」

 ふすまの隙間から覗くあづさと話していると、そのとき、おじさんの車のロック音が聞こえた。

「すみません、お邪魔しましてます」

「洗濯物取りに込み終わったら俺はまた夜勤行くから」おじさんは、おばさんを降ろすと、そう言ってすっとすれ違った。

おばさんは心を病み、病院通いを始めたらしい。あづさとは一言も会話せず、一瞬でまた行ってしまったようだ。

 

居間には昔の俺たち三人の写真が飾られていた。

「部屋、どうなってんの」

「もぬけの殻だよ」

荒らされた部屋。かつてはここに広げてあった漫画道具。あの机に向き合って、椅子に座っていた。


瞳未は漫画家志望だった。亡くなった日、描きかけの漫画原稿用紙と使いさしの漫画道具が机の上に残されたままで、あづさはなんとなく僕に預けてきた。間もなく、気が狂ったおばさんが、部屋中を荒らしまくったという。なんとなく預かってしまった、紙袋には中身の入った茶封筒が複数。工具入れみたいなデカいクリアケースには漫画道具が入っている。Gペンはその中から僕が拾い上げたものだ。

漫画のことはよく分からない。

でも僕は、瞳未が使っていたGペンで、今日もこうやって線を引く。何か変わらないかなんて期待することなんてない。奇跡なんてもう起こらない。どれだけ悔いたって、死んでしまった人はもう戻ってこない。机は主を失い、漫画は描きかけのまま、道具はもう二度と使われることなく錆びていく──。


僕がドアをノックすると瞳未はいつもこう言った。『いいとこに来たね、息抜きしよっか』そう言って作業を中断して、描きかけの漫画を見せてくれたのだ。

ふと、やけくそになって、その描きかけの漫画原稿用紙をなぞってみた。

泣いて笑っている少女の顔面を、漫画道具でなぞってみる。線がぶれぶれで台無しになってしまった。それを目の当たりにして、僕はうなだれた。「なんで死んじまったんだ……」



「おい林野―、悪いけど、クラス全員分のノート回収頼まれてくれ。昼休み職員室な」

 授業が終わると、担任はよく僕をパシった。

「マジか、手伝うよ林野くん」

 佐川がガタッと席を立ったので、僕は制した。

「いいよ、部活のミーティングがあるんだろ」

「でも、クラス全員分なんてさすがに……」

「いいから、佐川はちゃんと部活続けるんだろ?」

 なにか言いたげな表情をして、「悪りぃ」と上級生の階へと去っていった。


「はい、全員分ですよ。これでいいですか」

ノートを数冊見て、全員分だろうな、と確かめるような目で見てきた。

「いや、一人で運ぶ量じゃないだろ。まぁ降ろせ。お前に頼んだのはな、ちょっと話したいことがあったんだ」

 担任はノートタワーを上から順に探り、僕のノートを見つけると慎重に抜いて、バッとページを開いた。

見せつけてきたページには、Gペンで描いた無数の落書きがある。

「なんで授業ノートに絵を描いているんだ」

「あー……消すの忘れてました」

「いや、消すつもりないだろう。がっつりペンで描いちゃって。しかもなんだ、個性的なペン使ってるらしいじゃないか」

教壇からも結構目立つんだよ、コレと担任はため息をついてぼやいていた。ただどうやら、授業中絵を描いてること以上に、マイナーな筆記具を使ってることに困っているらしかった。

「なんでこんな道具知ってるんだよ?」

担任が腕を組んでふんずり返った。

「それ、Gペンで書いた板書? 私、先生になりたての頃、ペン字教室で硬筆の練習に使ってたことあるわよ」

斜め後ろの教員が口を挟んできて、「権田先生、字汚いから見にくいだろ」とけらけら笑うので、担任は「おいおい!」とその教員を小突いた。

学校というのは他人と少し違うことをしただけでどうしてこんなに目くじらを立てて注意されないといけないんだろうと今まで思っていたが、多分先生側がスルーするわけにもいかず、対応が面倒臭いからなんだろうな、と僕は考えていた。

「そりゃまぁ、ひと昔前までは一般的な筆記具だったかもしれんが、」

 コホンと咳をして、担任は仕切り直した。

「今日、入部届配っただろう?……こことか、どうだ。漫画研究部……よく分らんが、野球部は教室じゃなくてちゃあんとグランドでバットを振るだろう? 武器は使う場所を間違えるなってことだ。人に危害を与えかねないからな」

黙り込む僕の肩に手を置いて、声を潜めて心配そうに告げる。

「別に怒ってるとかじゃないから。入部提出期限終わるよ? 俺にパシられて高校生活棒に振っちゃうぜ」

とりあえず未だ食べていない弁当を食べに教室に戻ろう。

そう考えながら職員室を出ると、昼休みの廊下は別の世界と化していた。

とんでもなく、活気づいていた。僕の校章が一年生の色だと判ると、新入部員勧誘のチラシを配る人にあっという間にわあっと囲まれた。

人の波が、苦しい。

歓声が耳に詰まる。

ここはプールだ。僕は人に溺れそうだ



「あ」授業中、小瓶に手があたり、墨汁を前方にこぼしてしまった。

小瓶は落ちなかったものの、中身が前の席の女子の椅子と靴下に飛び散った。

女子は泣いて必要以上にキンキン騒ぎ、僕のことを気持ち悪いだの騒ぎ出した。

「注意された傍から……畜生」


廊下の水道で、汚れた自分の制服の上着を洗う。すれ違う生徒がチラチラ見てくる視線が痛い。洗剤でこすっても、水が灰色に濁るだけで、制服がただずぶ濡れになっていくのを見送るしかなかった。バシンと濡れたもので頭をぶたれた。それは濡れた汚れた靴下だった。前の席の女子が、汚物を見る目で去っていった。

後ろの教室からはこんな声が聞こえた。

「佐川、お前知らないのか。林野、アイツ幼馴染を亡くしてるんだよ」

「え?」

「あれ、彼女じゃなかったっけ?」

「付き合ってはなかったらしいぜ。まぁ似たようなもんかもしれんけど」

「千葉瞳未って言って、うちらの中学の生徒会副会長だったんだ。そこそこ有名人だっただけになまじキツイね、だって林野、アイツ事故のとき──」

「脅迫性なんちゃらとかいう心のビョーキじゃないの」


同じ中学出身のクラスメイトたちの声だ。佐川に好き放題説明しているようだが、構わなかった。


手を水に濡らしながら考えていた。

瞳未はどうやって漫画を描いていたのだろう。未完成の漫画。下書きで止まった原稿。これじゃ、本当の君はまだそこにいるみたいじゃないか。

このときの僕は知らなかった。

このGペンと墨汁が、──僕の運命を変える鍵だと。


 

 3

ここでいいんだよな。僕は美術室の前に来ていた。

担任に職員室に呼ばれたときに、僕のノートともう一冊のノートをつまんで手渡してこう言われたのだ。

──「もう一冊。コイツも授業中ノートに絵ばっか描いて困ってるんだよ。明日再提出しろって渡してこい」

めんどうくさいな。さっさと教室行って、絵でも描いてよう。厄介ごとはごめんだ。

美術室の扉を開けて、名前を知らないクラスメイトを探す。

「誰もいないじゃないか」

音のない静かな空間があった。そういや瞳未から聞いたことがある。手の陰で絵が見えなくなるようにするため、美術室は他の教室と違う方向を向いている、と。

 ──絵は、右からこうやって、なぞって──

 自分の部屋の机をその向きにわざわざ動かして瞳未が絵を描いてるのを見たとき、天才だと思った。

 美術室は、油絵のキャンバス、天井から吊るされたフィルム写真、スケッチ画、そして漫画の原稿、といろいろなものが点在していた。空間自体が別世界だった。心地いいインクの香り。絵が綺麗だ。


「あ、君、林野生りんのいくくんだよね?漫画研究部入ってくれるんだってね?」

振り向くと少女がいた。

やあ! と手を翳して、僕の腕は掴まれていた。

同じインクの匂いを漂わせているけれど、瞳未とは顔が似ても似つかない、短い髪の少女だ。

少女は肩で切りそろえられた髪をひょこっと揺らして、ドアを半分ガラッと開けた。スラッとした体躯にセーラー服が馴染んでいる。美術室の向こう側の窓が眩しく、顔が逆光となっている。

「権田先生に聞いたよ。絵、たくさん描いてるんだって? 昨日は災難だったね。墨汁は洗ってもなかなか落ちないからね」

「ああ……って、え?」

「ん?」

「”漫画研究部に入る”?」

「あれ、もしかして何も聞いてない? あの先生、漫研の顧問だよ。部活見学に行ってこいって意味だと思うよ。とりあえず私のノートちょうだい」

 

 

あれ、この顔どっかで。あ、入部歓迎してた人だ。チラシと、絆創膏が覗くショートカットでわかった。鞄をごそごそ、と探る。


「あ、チラシ持っててくれたんだ、嬉しいな」

「それは違う。僕はノート返却に来ただけで……」

鞄を傾けた隙に、彼女はタックルしてきた。

「!?」

彼女はびくともせず、散らばったノートから僕の落書きノートを拾い上げる。

「……ほうほう。なかなかだね。君、もしかして少女漫画好き?メルヘン男子? 絵がめっちゃ女子タッチ」

 物思いに耽る表情をした女の子がドアップで描かれたページを見せつけてきた。

「……違うよ。参考にしてる絵があって、真似て描いてるだけだよ」

「へぇ」

 質問に冷静に答えた。だけど、彼女は聞いてるのか聞いていないのか明後日の方向を向いて、「しかもこれGペンで描いてるんだー」とノートを天井に掲げてぱらぱらページをめくっている。

妙に馴れ馴れしい。

やがて、挟まった異物がはらりと落ちた。

「トレーシングペーパーじゃん」

トレーシングペーパーを被せてそのままなぞって、その絵をノートに挟んでお手本として常に持ち歩いている。お手本を見ながら慎重に。墨汁を使って震える手で見よう見まねで描く。やってることは習字と全く一緒のことだ。

「それ、模写の練習に使ってるんだ。僕は他人の絵をなぞってるんだ。……漫画なんかちっとも知らないし、絵を描くことも好きじゃないよ」

ともかく無理やり入部させられるのはお断りだった。あの担任の思うつぼだ。それに、なぞる作業は、自分が、絵が巧くなったつもりで描ける。それだけのことだ。なのに随分と眺めてページをめくって彼女は言った。

「いい絵だね。この作者の絵を描きたい、なりたいって気持ちが伝わってくるよ」

なのに急に土足で上がってこられて、おまけに身ぐるみ剝がされて丸裸にされた心地だ。

 作者になりたい? 瞳未に?

 何を言ってるんだろう。


彼女は僕の目をじいっと覗き込んだ。「なに」と体を翻すと、今まで逆光だった、窓から入り込む陽の明かりが、彼女の表情を照らした。

どきりととして、思わず僕は二度見した。

彼女の目は人形みたいに大きく、どこまでも純だった。吸い込まれそうな茶の光彩と、ぶれることのないまっ黒の瞳は、僕のすべてを見抜いているようで一瞬我を忘れていた。まっすぐの鼻筋に、喋ると口元がきゅ、と上がる。小ぶりな顔だちだ。なぜか頬にバンソーコーを貼っている。逆光では気付かなかったが、彼女は綺麗な顔立ちの女子だった。


「あれ、図星?」

慌てて目をそらした?


美術室には夥しい油絵や水彩画が並んでいた。カンバスの下に小さくベロの紙がついていて、氏名と何回生かが記入されている。歴代の先輩が描いてきたものだろう。

僕なんて所詮ごっこ遊びで、この人たちには到底及ばない。そんなことは知っている。 

彼女のノートを鞄から取り出して、入り口付近の机に置いた。帰ろうと思った。

「全然違うよ。ではこれで」

「ねぇ林野くん。漫画研究部、本当は入りたいんでしょ? じゃあ、なんで前、勧誘したとき話しかけてくれたの?」

「『漫画なんて描いてて何が楽しい?』って言ったんだよ。気になってたんだ。だったそんなこと言う人って、何か強い思い入れがないと、授業中にGペンを手放さない人ぐらいじゃないと、訊かないと思うんだ」

「……うるさいな」

 

「でも、林野くんは、目が死んじゃってるよ。……なんでそんな顔で絵を描くの?」

知ってるよ、そんなこと。

一つだけ言えるのは、彼女みたいに距離感の近い人は嫌いだということだ。




他の誰ももう介入させない。


時刻は夜。僕は勉強机にかじりついていた。

Gペンを墨汁に浸した。それを瞳未の原稿に直に乗せた。

『生っ』


僕の名前を呼ぶ、その声。

リビングにあがりこんで子ども向けのテレビアニメを観るのが大好きだった。あづさも交えて三人でよく観ていた。ある日、瞳未は言った。『ヒロインになりたいな』

怪我している下級生に率先して寄り添って一緒に遅刻することもあった

ヒロインごっこに巻き込まれることもあった。

『ヒロインになれるものを見つけた、それは漫画だよ、私はヒロインをつくる。涙はこらえて、戦うのが私のポリシーなんだ』

そう笑ってGペンを構え、姿勢正しく机に向き合うようになった。その背格好はぽっちゃりしていたけれど、背が伸びると、いつの間にかスラッと変貌した。

黒くてやわっこくて長い髪を、揺らして走るその姿は女子の象徴になっていた。

はんなりとした物腰の柔らかい雰囲気、人をえり好みしない性格、背筋のよい綺麗な立ち姿、大きな目、プクッとした唇、柔らかい笑顔。中学では生徒会に入り、名実ともに瞳未は学校のヒロインになった。


登下校や同じスイミングスクールへの通い、たくさんの時間を共に過ごした。

そしてある日、スイミングスクールに通っていたとき言った。

『私は今日でスイミング辞めるね、漫画描く時間に専念したいから。お互い別のフィールドで戦おう!』


その姿はヒロインを通り越してもはやヒーローだった。


『お前たち付き合ってるんだろ』

『付き合ってねーよ!!』


学年が上がり、同級生にからかわれて否定する度、僕は隣に並んでいるのが惨めになっていった。



瞳未の描く、少女漫画の主人公は、自分に自信がない。

シャーペンで描かれた下書きは部分的に薄いところがあり、読みづらいが、おそらく中学生主人公の恋愛の話といったところだった。

この描きかけの漫画もそうだ。捻挫をして、部活のヒーローから一転、一時的にクラスや友達から俯瞰して一人ぼっちになる主人公。繰り広げる切ない片思い。どこか、重なるところがあって、不思議に思った。わかる。瞳未は優しい。きっと学校のどこかにいるこういう人にも目が行き届いていたのだろう。


──「この絵を描きたい、作者になりたいって気持ちが伝わってくるよ」

なれるはずないのにな。


少女漫画なんて嫌いだ。自分の惨めな部分が浮き彫りになってしまう。瞳未の完璧さを思い知らされるだけだ。告白とか、恋愛とか、くだらない。

それより、どうすればいいのだろう。

保存するにしても、生き物ならホルマリン漬けとか、昆虫なら標本にするとか方法はあるけれど、漫画ってどうなんだ。

それに、これは遺作になるのだろうか。

他の茶封筒に収められた過去作はすべてこれでなぞられて綺麗に完成されているが、問題の遺作らしき最新作はシャーペンで書いたままで終わっているのだ。

 原稿を指で撫でると、シャーペンの線がもやがかかったみたいに、ぼやけた。

これ、うっかり消えちゃわないか、と心配になってきた。

 きっちり最後のページまで書き込まれているがすべてシャーペンで書き込んだまでだ。消しゴムひとつですべてチャラに出来てしまう。遺作と呼ぶにはちょっと頼りない。

預かっているだけじゃ、なんか。この漫画原稿が報われない気がしたのだ。

 

ケースは、他にはブーメランみたいなおもちゃとか、何の脈略もない鳥の羽根とか訳のわからないものがたくさん入っていた。おまけにケースの底には馬鹿デカいシールが何十枚も埋まっている。


手元の僕がなぞった漫画に目を落とす。

これもそうだ。どうして、ネットで道具の使い方を調べてその通りにやってるのに、瞳未の過去作みたいに綺麗に描けないのだろう。

心が汚れてるからなんだろうな、と僕はうなだれた。

練習をすると、変われるんだろうか。



晩御飯を父と母と食べる。

「水泳部はもういいの?」

「いいんだよ。そんなん……入ってる場合じゃないだろ」

僕は吐き捨てるように言った。傷を庇うような、変わらない日常だ。

胃に無理やり流し込んだものと同じメニューの詰まったタッパを抱えて、隣の家のリビングへと足を踏み入れる。

「食べなきゃ元気になれないぞ」

僕は何様なんだろうか。

「元気になんか、なりたくないよ」

 あづさはゲームのコントローラーを片手にふて寝をしていた。

本当にどうしようもない。散らかっているランドセルを動かすと、ノートが崩れて落ちてきた。中身には、バカだのブスだの幼稚な悪口が書かれたページが覗いて見えた。

「なんだこれ」

「姉ちゃんが死んでかわいそーかわいそーってクラスの子が言うから、かわいそーじゃないって言ったら……可愛くないってさ」

なんだその単純な虐め。小学校で虐められてる痕跡が他にも垣間見えた。苦しいんだろうな。

胸が痛くなった。あづさは、瞳未が生きていたときと同じ環境でも耐えているのに、ごめんな。俺だけなんか環境変わってしまって。


──『林野くん、君が絵を描くのにつまづいている理由は、このGペンがもうダメだからだよ。だから、はい没収~』

 僕のGペンは、少女に没収された。

『なにすんだよ』

『取り返せるもんなら、取ってみなっ!私の名前は秋谷あきや。出席番号一番の秋谷優生あきやゆうきっていうの。答えが知りたきゃ、明日もっかい美術室においで』


どういう意味なのか、あの秋谷とかいう女子に問いたい。



 4

「ああ、アイツか……」

朝、教室でポケットから取り出した名簿になっている座席表を眺めた。

秋谷の席は僕より後ろで、僕にとっては死角にあたるところだった。はっきり言って認識すらしてない。


「おはよー秋谷ちゃん。昨日書いてもらった絵、早速トップ画面にしちゃった。お姉に超羨ましがられたよ」

「えぇっスゴっ、プロじゃん。ズルイ!私も書いて」

「いやあ、みんな順番ね」

「てかまた怪我したの?女の子なんだからお転婆だめだよー」

秋谷は三人の女子に朝から囲まれて談笑していた。心配された傍から、秋谷は段差に鞄につまづいて顔面ごと黒板にダイブした。チョークまみれにになった頬を制服の袖ではたいて、汚していた。なんて観察をしていたら、僕に気が付いてパァッと声をかけられた。

「あっ林野くんおっはよー!」


 慌てて僕は目を逸らした。ついでに佐川にびっくりされた。だいたい毎朝、自分の席に腰をかけて僕に他愛もない会話を振ってくるのだ。

「仲よかったっけ?」

「……秋谷ってどんな女子かわかる?」

「ああ、秋谷さん、キンキン変なこと騒いでて変わった子だよな。顔は普通に可愛いのに勿体ないよな。漫画研究部のただ一人の部員。絵がすごい上手いらしい。部活紹介の表紙、彼女の絵だ。ただ、同中出身の人が一人もいないから情報が少ないな」

ネジ外れてる、か。昨日のタックルで納得した。

「一人って……それ部活って言えるのか?」

「去年までは美術部だったんだけど、先輩が全員卒業しちゃったらしいんだよ。入部ついでに改名しちゃった」

にこぱーという効果音がつきそうな表情で僕たちの傍に黒板消しを構えて秋谷が隣に現れた。

「油絵もイイけど、私が漫画を描くのがスキってだけよ。ダメ?」

ダメ?と僕たちに言われてもな。

「林野くん、放課後いける?てかそれなに」

「担任にノート配りによくパシられるから、持ってたほうが便利だろうなって」

僕が手にしていた座席表を秋谷が覗き込んだ。教室に馴染めてなさそうな僕を気遣ってのおせっかいなんだろうとは思う。しょっちゅう職員室に呼び出される件を話すと呆れるように言った。

「いや、真面目か! で、今度は部活見学も兼ねてノート返却もさせられたのか、先生めげないね~」

秋谷はけらけらと笑った。

パーソナルスペースが広そうな人だ。なんというか苦手なタイプだ。

「じゃ、放課後ね」と二度目の釘を差して秋谷は、黒板消しを両手にはめたまま、去っていって、黒板についてしまった自分の顔の型を豪快に消していった。


「放課後ってなんだよ」「野暮用が……」佐川がぽつりと何か話しかけてきたけれど、担任が教室に入ってきて、ホームルームの開始の号令を告げる




放課後、僕は吸い寄せられるように美術室の扉の前にいた。

意を決して「すみません」と開けた。

秋谷は、窓側の水道で何かを洗っていた。

すぐ気配に気づき振り返った。


「あ、本当に来たんだ。来ないかと思ったよ。そんなにコレが大切?」

「いいから早く、その胸ポケットのものをよこせ」

「取れるもんなら取ってみろーだ」

よりによって見せびらかすように胸ポケットにGペンを入れていたのだ。

 水道の蛇口を止め、布でそれを拭きながら、席へとやってきた。

「とにかく座って。で、私のノートを開いて」

促されてその席に腰を下ろした。置かれたノートを開くと、シャーペンでサラッと描いてある真正面を向く女子の絵がある。

うまい。かなりうまい。初めて見る秋谷の人物絵に僕はたじろいた。

秋谷は戸棚やら引き出しから壺に入った墨汁と真新しいGペンを吟味して取り出した。丁寧にティッシュで拭いてどうするのかと観察していると、椅子に座る僕の後ろに突然回り込んだ。

「んしょ、」

背中から腕を伸ばして、僕に抱き着くような格好になるや否や、ノートに肘をついた。

なんというパーソナルスペースの広さだ。居心地が悪い。

彼女の頭が、僕の顔のすぐ上にある。

切り揃えられた髪が、僕の耳をふわりと撫でた。

小さな息遣いが聞こえる。

「手、出して。このGペン握って」

居心地が悪いはずなのに、僕は何かに引かれるかのように彼女に従った。

何をしようとするのかサッパリ理解できず、「ハイ」と言われるがまま、そのGペンに墨汁をつけ、その線をなぞろうとした。

すると秋谷が僕の手の甲にいきなり掌を重ねてきた。

「で、こう。そうそう楽にして。肩の力を抜いて」

僕の手は完全に意思を失った。

どうやらレクチャーしてくれるらしい。

どうにでもなれ、とすべてを委ねると秋谷がわずかに力を込めた。僕たちは一緒になって手元を上下左右させた。

ふと、墨汁を足すためGペンを離すと、その平面の紙には命があった。

絵の少女は、繊細に、さながら生きている。

カリカリカリ……

さらに秋谷の手はなぞった。すると少女に立体感が加わった。

今にも飛び出してきそうな、こちらを見つめる少女の半身像が、誕生した。

少女は何を見ているのだろう。憂いのある表情が、その余白に想像の余地を与えた。

──そこに『物語』があった。 

 秋谷が手を離し、自由になった途端、僕の手は震えだした。

それは、プールで初めて泳げた日を思い出した。

それになんか似ていた。

瞳未も笑っていて、水飛沫が心地よかったあの夏。

僕が補助をしていたお腹から手をそっと離して、そのままプールに浮いて水かきを続けて数メートル泳げ、「生っ……泳げた!私、ビート板も浮き具も補助もなしで、いけたよ!」

ぱあっと水をはじいて笑う瞳未の笑顔。まだ、9歳のときのことだ──。

ふと、閉じた瞼を開くと、それは瞳未の横顔に重なった。

「ひと……み?」

「大丈夫?」

上から僕の顔を覗き込む秋谷の髪が耳に触れ、ハッとする。


「ごめん。ぼうっとしてた。僕の線と全然違う……なんで」

「まだ使いこなせてないのよ。習字でもそうでしょ? ただしい筆の抜き方、入り方を知らずに描くと、ただの線になっちゃって道具の本来の良さを引き出せなくなっちゃう」

 なんで?

 瞳未に報いようとする気持ちが、秋谷なんかにあっさり敗北してしまった気がした。

僕は無性に悔しくなった。

「Gペンは消耗品なの。きちんと洗えてないから墨汁が詰まって先が開いちゃって、繊細な線が全くかけなくなってたわ。これ先っぽ取れるの知ってる?」

 そう言って、秋谷はGペンを引っ張って本体から抜いた。壊したのかと思って焦ったがそういうもんだと今理解した。

「とにかくこれは、ハイ、ポイね」

 その辺の椅子に座ったまま、コントロールよく数メートル離れたゴミ箱に投げ入れた。

 状況を察した頃には、カツンと乾いた音がゴミ箱の中で鳴り響いていた。


「えっちょっ……え!?」

 ──いやいや、遺品だぞ!?

 ゴミ箱に膝まづいてガタガタ振ってみたが、中には訳の分からないガラクタや油絵の具がべっとり破棄されていた。あんな、ちっちゃいもの、見つかるはずがなかった。


「なんで林野くんは、そんなにGペンで絵を描くことに拘るの?」

 おそらく何の悪げもない秋谷が、少し呆れた顔で尋ねた。

「だって消耗品なのに」

 ふと、気づいた。確かに瞳未の道具箱に替えが入っているはずだ。別にあれだけが遺品ってわけじゃない。そこまであの一個に執着する必要なないのかもしれなかった。僕は少し冷静になった。

「……漫画家志望の友達がいて、その子の漫画を手伝いたいんだよ。描き上げたいんだよ」

僕は初めて、話してしまった。かなり掻い摘んで、だけど。

「Gペンは、その子から預かった、大切なものだったんだ」

秋谷の反応は意外だった。

「そうだったんだ。何も知らずにごめん。あるかな。Gペン先」

 制服の袖をまくり、ゴミ箱に手を突っ込んだ。ぎょっとした。しばらく探っていると、油絵具でべたべとの腕で「あった」、とにひっと笑った。

なんだこの人。

「ねぇ、その人の絵、今度見せてよ」

洗って、しっかりふき取ってGペンのペン先を返してくれた。


「いやぁ、でも心配。だって林野くんあまりにも絵へたくそだもん!」

なんて身も蓋もない言い方だ。「下手だよ。でも……」

僕は震えていた。

「それでも、僕には……僕には、使命があるんだよ……!」

 僕は条件反射で、ほとんど何も考えずそう言っていた。

なんだ、この、敵の討伐に向かうヒーローみたいな台詞は。そんなことを当然のように言った自分に、僕自身がビックリした。

「し、使命ね。真面目な顔してすごい言葉使うね」

 


でも。間違っちゃいない。僕には使命がある。

僕が瞳未の生きた証を、蘇らせなけりゃならないんだ。だって僕は──。


「だから、俺は瞳未と二人で完成させたいんだ。教えてくれてありがとう」

力強い一歩を踏み出した。

そのとき、


ばきっ

乾いた音がした。

足の裏に、正確には足の下に何か踏んづけた感触がある。

木製の人形だった。

手の先に収まるくらいな小さな物体だ。

手足の関節が壊れて、胸部は圧迫されて木っ端みじんだ。

足の裏に違和感があったが、勢いで体重を乗せてしまった

 足を上げると、そこには人型の人形らしきものの、見るも無残な残骸があった。


そうだ、僕は取り返しのつかないことをして、交通事故で瞳未を死なせてしまった……。


「あーっ!私のデッサン用モデル人形が……困ったなぁ……」

 秋谷がそう言い出した。

「あ、あ……」 その残骸から恐れおののいて半歩後ろに下がろうとしたとき、


「林野、こんなところにいたのかパシろうと思ってたのに」

美術室の扉が開き、担任がにゅるっと現れた。そしてずかずか立ち入ってきた。

デッサン用モデル人形をめぐる状況を理解し、しばらく考え込むとこう言った。

「そうか、それは大変だ」

とポケットから財布を取り出した。

「じゃあさ、二人で買ってこいよ?」


人と関わるとロクなことがない

壊れてしまったとき、後悔がつきないからだ。

のはずなのに、どうしてこうなったのだろう。



「出かけるのか。土曜日だけど」

リビングで新聞を読んでいた父が気付いて、パジャマのままやってきた。

「夕方には戻るよ」

靴を履いて、そう告げると、家の扉を閉めた。


休日。僕は私服で駅前で秋谷を待っていた。

「おまたせ!」

 秋谷は、十五分遅れで現れた。

「バスで行く?」

「や、行けるなら電車で」

「いいよ」

 僕の要望をすんなり呑んでくれ、駅に入り電車に乗った。

電車内は少し混んでいた。

僕たちは吊革に摑まり、横並びになった。秋谷の髪型はいつも同じだが、綺麗なヘアピンをして耳がいつもより覗いでいた。

「ん?」と首をかしげると、なびいて揺れた。

なんでこんなことに。

──すべては先生に手渡されたこの一万円札のせいだ。



**


先生が財布から取り出したものは一万円札だった。

「部費出すからまとめて買ってこい。ほいこれなんかあったときのための俺のケータイ番号」

 担任はメモに番号をサラサラと書いて、僕の掌にねじ込んだ。

「えっ……本当にぃ!?」

 秋谷は大きい目をうるうるさせて担任に擦り寄った。

なんだそのその変わり身の早さ。

後ずさりしていた脚の震えが治まった。僕は唖然とした。

そしてこの二人が、僕を入部させるためのグルだったことを思い出した。

「なんかって、子どもの使いじゃあるまいし……」

呟くと、即座に担任は言った。

「お前じゃねぇよ、秋谷だよ」

「そうだそうだ、こんな狭い教室にいても物語は始まらないぞ?」

 Gペンを突き出し、秋谷はポーズを決めた。確かに、方向音痴っぽさそうだもんな、頬にはまだ絆創膏貼ってるし……うん。


 



**


なんて自分で自分を納得させて”付き添い”として同行しているわけだけど。

電車に乗り込む人が増える度に、隣に並ぶ私服の秋谷の存在を居心地悪く思った。

生地の薄い白地のカットソーは、腕の部分にオレンジの切り返しが入ってるけど、肩が透けている。デニムのショートパンツからは脚がまる見えでゾッとした。なんと無防備な恰好なんだろう。

電車が揺れるたび秋谷はぴんと背すじを伸ばし、隣の吊革を掴んだその頭が、僕の鼻先辺りまで伸びた。

「秋谷、今更かもしれないけど」

「ん?」

「……あんまり関わらないでくれるかな。僕には漫画の原稿さえあればいいんだ」

「なにそれ、目的一緒なのに?」

 目的の駅にはすぐに着いた。ホームで降り、人ごみに吞まれそうになりながら、階段を下った。

その街は、駅前に商業施設が広がっていてアーケイドになっている。

時刻は一十一時前だ。

シャッターが徐々に上がっていく、その光景を見ていた。

「ステーキが……食べたい!」

秋谷は本能をピコーンと受信したように、僕に目で、グリルキッチン風の立て看板の店を訴えてきた。

「いやいや、権田先生の金だぞ、よりによってそんな高いものを、」

「腹が減っては狩りはできぬ!」

勝手に入ってしまったので、諦めてそのまま店へと入った。なんだ、このやりたい放題女子は。

「いやぁ。なかなかステーキなんてありつけないからねぇ。林野くん、本当にビーフスープとサラダだけでよかったの?」

「最近あんまり食欲ないんだ。中学生で部活してたときはガツガツいけたけどね」

「そうなんだ?」

    

僕はグラスの水をぐびっと飲むと、座って落ち着いている今、用件を手短に済ませる他ない、と思った。鞄に入れていた茶封筒を取り出す。

「それ原稿!?」

「単刀直入にいう。関わりたくないながらもここに来たのは、理由があるんだ。漫画家志望の子の原稿を僕が預かってるんだ。だから描くのに必要なもの、教えてくれ。それだけ聞きたかったんだ」

 驚くでもなくただ、嬉しそうに秋谷は答えた。

「だから素直に来てくれたんだ。変なの。その子、手伝ってるだけの君に原稿ごとくれたんだ。でも、それまだ下書きなんだ」

「うん」

「それが描き上げたい漫画かぁ。へぇ。ちゃんと投稿用の原稿用紙だし、枚数も規定の三十二枚あるね」

テーブルから身を乗り出してまじまじ見ていたが、

「ソースで汚しちゃ悪いから、またあとで見るね」

と、食べる方に専念した。

会計後、繁華街にある商業ビルに足を運んだ。そこの三階に入った大きい画材屋は、辺り一面に漫画道具が所狭しと並んでいた。

「Gペンと丸ペンと……私スクリーントーンも買うからカゴ持ってて」

 一時間近く居座って、トーンを二人分合わせて三十枚近く、そして壊してしまったデッサン用モデル人形などを買い上げた。他にも細々としたものを買ったので、結局昼食代と合わせてもらった一万円のほとんどを使ってしまった。

「いや~結局持ってもらっちゃってごめんね」

「別に両手が塞がることは平気だけど、……それより信号と交通量多いな」

 秋谷は妙に浮かれてスキップで歩いていた。

ともかく用件が終わった。あとは帰るだけだ。だけど、罪悪感のようなものが僕の心を占領していた。休日に何をしているんだろう、という自分の情けなさと、荷物の重さに比例する申し訳なさ。


──これじゃ、あの日と同じだ。何もかも。

何もかも?

違う、まだチャンスはある。ちゃんと。

謝らなきゃいけない。あの木製人形を割ってしまったことを。


土曜日の繁華街は交通量が多く、身動きがとりづらい。

「林野くんって変なところ気にするね? 次の信号待ちの間、あの店でたこ焼きでも食べる?」

なんて秋谷が催促すると、行き交う車が赤信号できちんと停止線で静止した。歩行者信号が青に変わり、人が一斉に歩き出した。その群れに押されて僕たちも踏み出した。

 そのときだった。

遠くに見えた気がした。

同級生だ。

中学のとき、瞳未によく貼りついてた、男三人組。

嫌な予感がした。

「道、変えない?」

「どうして、信号青だよ?」

「だけど……」

秋谷にぶしつけに提案したが、もう説明する余裕はなかった。

皮肉にも黒い奴らに限って勘がいい。歩行者信号前で不自然な動きをする僕らに気づいてしまい、こっちへ向かってやってきた。

目の前には三車線の車道がある。僕たちがいる高架下の、信号待ちの狭い歩道に彼らも収まった。黄色信号が赤に変わった。


「あれー林野じゃない? おひさー生きてたのか」

「お前今どうしてんの?高校通ってんのか」

一見どこにでもいる黒髪の男達だが、よくよく見ると口から煙を吐いていた。手には紙巻煙草を持っていた。その変化にぎょっとした。妙に馴れ馴れしい喋り方はちっとも中学のときと変わってなく、紛れもなく、アイツらだった。

奴らの注目はもちろん、自分らより頭一つ分小さい、見慣れない女子の秋谷だ。

全身を嘗め回すように眺めてこう言った。

「やば、こいつ。瞳未が死んだ途端他の女連れてるよ! お前即高校デビューしてんじゃねぇよ」「スクープすぎるだろ。頭イカれてるわ」「撮っとけ、撮っとけ、林野と再会しました。女連れでしたってSNSに書いちゃお」

僕の頭と手首をわし掴みにし、スマホの画面を向けられた。

「ヒトゴロシなのに、なぁ!」

 その言葉は交差点にいる人の注目を十二分に引きつけた。


 ヒトゴロシ。

 それは、僕のかつてのあだ名だった。

 瞳未の事故以降、

 中学の卒業まで、

 僕は校内の廊下ですれ違う数々の人に

そう呼ばれきた。


「うわっ言っちゃったよ、林野フラれたー」「あー高校まじ退屈だわ。勉強、勉強ばっかりで。どこかの誰かさんが学年で一番可愛い子殺しちゃったから。代わりにお前が死んでくれてたら、うちの高校進学してたのにな。そうだ。そこの信号飛び出して今から跳ねられてこいよ」


ザァッ、と大型車がほんの数メートル前を行き交う。

 ちょうど瞳未を圧死した事故車も、こんな大型トラックだった。

 ガードレールと車に挟まれる、その瞳未の最期の一部始終を、僕は見た。

 目の前で、ただ、一人。


足の裏で踏んづけた感触の、木製のデッサン用モデル人形。

手足の関節が壊れて、胸部は圧迫されて木っ端みじんだ。

瞳未もそうだった。

人型の人形らしき物体になった瞳未は、見るも無残な残骸と飛び散り、素脚がだらんと投げ出されているのだけ見えた。

僕は助けようと腕を伸ばすことなく、フリーズしたままそこに突っ立っていた。瞳未が遺体になるのを見ていた。


「お前まじ辛辣~」「林野、ピースしろピース。その女の子も!記念記念」

男の一人が、秋谷の肩を抱いて、細い腕を掴んだ。


だめだ。

助けないといけないのに、腕が動かない。

どれだけもがいても、水面を目指して水をかいてもだめだ。これは溺れている悪夢だ。プールの底から湧き上がる水流に足をとられて息が続かない。

「ごめ……」言葉を発しようとすると、

赤黒い血が濁流のように僕をめがけてやってくる。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。目を開けることも叶わず、脚の自由を失くした僕は、呑まれて吸い込まれて流されていく……。

そんな感覚で、脚が震えて、背筋がぞくぞくした。



そのときだった。

「はぁ!?」

秋谷はその手を振り払って、ずんと立ちはだかった。

その状況に疑問を抱くより先に、三人の顎に拳骨を噛ました。

「林野くんの正体なんか知らん! あなたたち何者か分からないけど、林野くん嫌がってるでしょ!?」

 横断歩道前でその黄色い声は、こだまになって響いた。家族連れやカップル、お年寄りなんかもが一斉に振り返った。

 遅れてやってきた、ヒーロー、みたいだ。

 突然の伏兵の登場に、感情がごちゃ混ぜになって僕の心は灰色になった。

生地の薄い白地のカットソーから小さな肩が透けている。殺伐とした高架下の交差点で、秋谷はたった一人だけ清かった。

なんで? この彼女は、僕なんかほとんど話したことない人のために、立ち向かって庇ってくれたんだ?

 状況を整理し終えた男の一人が、キッと拳を構えるのが見えた。

「んだ、この女」

表情を消し、拳骨を振りかざそうとしたそのとき、

秋谷はとんでもないことを、やってのけた。 

ほらよっと、という声が聞こえてきそうな軽い動作で、

男のボスの股間をいとも簡単に蹴り上げたのだ。

「んだー!!!」

 ボスは点字ブロックの上に下半身を押さえて、崩れ落ちた。手下はおろおろと、その情けない姿に寄りそってあたふたしていた。

「あっ青信号だ! 林野くん、逃げよっ?」

 腕を取って、秋谷は颯爽と向こう岸へと僕を連れて行った。

撮影かしら? どうせドッキリじゃない、なんて声がザワザワ聞こえた。サラリーマン風の青年が、男三人に駆け寄るところまで見送って、人ごみに呑まれて、彼らは遠くなっていった。

離れたビルの隙間に、僕たちは逃げ込んだ。

ゼイゼイ、と荒れる呼吸を整えると、秋谷は言った。

「えへへ、お望み通りやってやったわ。一回こういうのやってみたかったんだ。」

「い、命知らずな……。女子が絶対こんなことやっちゃだめだよ!」 

 急に叫んだからか、うっと何かがせりあがってきそうになり、僕は蹲った。

醜い記憶が、僕の胃をえぐった。

「ごめん、ちょっと」

僕は周囲を見渡し、向かいにあったアパレルショップのトイレに駆け込んだ。

ショーウインドのガラスには、中学のときの情けない僕が映ってる気がした。


僕たちは何も言わず駅まで向かい、数分後に来た電車に乗った。

窓側で手すりを持って外を眺めていた。待ち合わせした駅を通り過ぎてもお互い反応せず、数駅通り過ぎ、車両がすいてきたときに秋谷が声を発した。

「ごめん。なんかカッとなっちゃって。いじめ嫌いなの。絶対屈しないって決めてるの。でも、よく考えたら逆に迷惑だったかもしれない。ごめん……」

 頭を冷やして冷静になったそうだ、下を向いてしゅんとしていた。


「違うんだ、上手くいえないけどきっと嬉しかったんだ」


きっと胃液の匂いが漂う僕は、秋谷のほうを見ずにただペットボトルの水を飲んで弁解した。

「ねぇ、聞いてもいい?……瞳未さんって誰?」

 電車の窓の外には川が見えた。

陽に照らされて川面が揺れている。

青空が広がってよく晴れた、いい天気だった。

きっと話すなら今だ、と思った。

僕は呼吸を整えた。

「僕には幼なじみがいたんだ」

「それが瞳未、さん」


秋谷の最寄りだという駅についたので電車を降りた。堤防の橋にもたれて、歩いて僕は話し続けた。秋谷はどこまでも着いてきた。


「うん。瞳未は、まさに少女漫画の主人公みたいな子だった。絵に描いたような人気者だったんだ。だけど、去年の十二月、瞳未は死んだ。そのとき僕は一緒に歩いて下校していた。でも、つまらない喧嘩していて、半歩先を歩いてしまっていたんだ。……雪でスリップした大型トラックが、瞳未めがけて突っ込んだんだ。ガードレールに挟まれて、即死だった」

「……即死、」

車は大型トラックだった。僕の立ち位置からは、車に挟まれて、だらんと弛緩しきった脚しか見えなかった。

通りかかった人が救急車を呼んでくれたけど、もうだめだった。布にくるまれて慎重に搬送されたけど、蘇ることはなかった。一緒に運ばれた運転手も、全身を打って昏睡状態で、次の日に亡くなった。

 冬の夜だった。普通の下校時刻だったが、既に辺りは真っ暗で、おまけにそこは照明もなく、歩道と車道の区切りは白線しかなかった。

川の西岸に古くからある堤防道路で、接触事故が何度かあり危険な道だと昔から言われていたが、きちんとした歩道の整備は、実現が難しいらしく要検討に終わっていたらしい。──これは新聞記事で知った後出しの事実だけど。確かに乗用車同士がすれ違うのに苦労するくらいの幅の道だったが、歩行者と車でうまく譲り合ってやってきた、慣れたはずの通学路だ。

でも、その日は大雪だった。僕たちに気付くのが遅れたのか、スピードを出していたトラックはブレーキを踏むも間に合わず、タイヤが上ずべりして滑ってしまったらしい。

その数日後、全校集会があって、彼女の死が大々的に報じられた。彼女は生徒会役員でもあり、名が知られていた。だから、そうせざるを得なかったんだろう。友達を大切に、とか今ある時間に感謝し、とかそんな締め括りで教訓の一つとして片づけられた。その全校集会から教室までの帰り道、口を開く生徒はいなかった。死なんて、まだ自分たちの年に迫ってくる災難じゃない、なんて中学生の僕たちはどこか楽観視していた。地元でこの話題は当分消えることはなかった。この学校に居た人だという事実は、誰もが思い知らされていた。靴箱には変わらず上履きが残っているのに、出席では、瞳未の名前がやがて自然に飛ばされるようになり、残りの人数で生徒会選挙会を行い、役割を引き渡し、それでも教室の、かつての瞳未の机には花瓶が乗せられ、枯れた花が活けられていた。そして、僕たち三年生は目前に迫る受験勉強にストレスを抱えていた。それに追い打ちをかけるような、この説明のできない違和感。ついに我慢できなくて爆発した生徒がいた。人気の女子が若くして死ななくてはならなくなった犯人、それを暇な奴らが特定した。

『なァ林野、お前、瞳未が死んだ日、一緒に帰っていたらしいな?』

瞳未の死後からしばらくしてすぐ、僕は彼らのストレスの吐き口の犠牲になった。

 

僕はたどたどしくも、嚙み砕いてくように秋谷にそう説明をした。

「アイツらが荒れるだけの原因を作ったのは僕だ。全部、僕が悪いんだ……」


事件後、僕は人が怖くなった。瞳未に近しい人ほど僕への態度が豹変していった。今まで僕に見せていた表情は幻だったんじゃないか、ってぐらい。僕は幼い頃から信じていた幻想が崩れていくのを間近に見た。

僕は、悲惨な事故を防げたかもしれない唯一の生き残りだったからだ。瞳未の家族──おばさんおじさん、あづさ、どんどん怖くなっていった。

でも、それ以上に本当は自分の小ささを一番恨んだ。

本当につまらない喧嘩だった。彼女の言うことにきちんと耳を傾けなかったこと。意地で半歩先を歩いてしまったこと。──仲直りは、生きていないと出来ないんだ、と僕は遅すぎる学びを得た。

そこで思った。僕は、瞳未をちゃんと知らなかったんじゃないか? と。

彼女が、それこそ命より大切にしていた自分の漫画。それが、妹のあづさにより、僕の元に巡ってきた。何度も眺めて、考えて。僕は、彼女が守ったこの漫画だけは、生かしてあげないといけないんじゃないか、と思ったんだ。


「ねぇ、さっきの瞳未さんの下書き原稿、ちょっと見ていい?」


 茶封筒を渡すと、秋谷は近くの川が見える簡素なベンチに座った。僕も隣に座る。

 横顔の秋谷は、一枚一枚を食い入るように品定めに入った。三十二枚すべてを読み切ると、

 そして、十分後、すくっと立ち上がった。


「『手伝いたい』ってのは、お願いされたんじゃなくて林野くんの意思なんだ」

「え?」

「どうなの?」


──逃げるな、とその目が訴えている気がした。


「……うん。でも、本当は預かってるだけなんだ。……でも、漫画まで死んじまった気がして、すっきりしない。……ただの自己満だけど」

「ん」

秋谷は手をぶっきらぼうに差し出した。


「少女漫画ってのはね、手を繋いで目を見つめる。この人いいな、嫌だな。そういう感情を大切にしたものなんだよ、たとえば今どういう気持ち?」

「……気持ち?」

そんなこと言われても、と焦ると言葉を続けた。

「林野くんは、感情がなさすぎるよ。さっきの男の子たちにももっと怒っていいはずだよ」

自転車が秋谷の背後をスッと通った。「わ」と慌てて庇った。防災行政無線のゆうやけこやけのメロディが流れる。僕の手は秋谷の手のひらを無意識に掴んでいた。それをニンマリと確認すると、僕が振りほどく時間を与えず、秋谷はそのまま手を引いた。


「な、にするんだよ」

「見て。この先に心地いい公園があるの、遅咲きの桜が綺麗なの」

  行こう、と秋谷が走り出したので、僕の足も続いた。

石橋の向こうに続く並木道は、濃い桃色の花びらが未だ健在で咲き乱れていた。急激な色彩の変化に、眩しくて目を細めた。

「舞い落ちてくる花びらをキャッチすると、幸せになれるんだよ!早く早く!」

 ステップを踏むように上を見上げて彼女は言った。

「漫画、やりたいんでしょ? 漫画を描くことで、高校に通ってるじゃん。変わりたいって思ったからでしょ?」

「でも、僕なんかが、自信もないよ」

「瞳未さんは、林野くんに漫画のこと全部話してるんでしょ? だからめぐって林野くんの手元にまわってきたんだよ。きっと、林野くんに委ねられたんだよ。その漫画の運命が」

ほら、君も! 秋谷が掴んだ桜の花びらを、僕にぶっかけた。

大量の桜が視界に舞う。思いがけない残像に、僕は溺れる。思わず閉じたまぶたを開けると、満面の笑みの秋谷の口元。ふわりと跳ねるショートカットの髪。すべてを知ってもなお透き通った瞳。 

世界が一回転した。華やかだ、息を忘れて跳ねる彼女を見た。

 心の中で反芻した。

──めぐって君にまわってきたんだよ。それって運命じゃない?

秋谷の手で描いた、命を吹き込ませた少女の絵。

瞳未の横顔。僕は彼女を蘇らせることができる──?

もし、もしも。暗くもがいていたプールの底に、赤黒い濁流が流れ込んだあと、桜の花びらがぷかぷかと浮いていたら。それを掴もうと手を伸ばしてもいいのだろうか。

正義という使命を、僕なんかが振りかざしていいのだろうか。

彼女を助けたい、とまた思ってもいいのだろうか。まだ間に合うのだろうか──


「あ」

掬うように差し出した手のひらに、一枚の桜が降りてきた。

幸せの一枚、か。

「恋愛もきっとおんなじだよ。君が馬鹿にした少女漫画も。それって素敵なことじゃない?」

 掴んでひらくとそれは風に煽られ、飛んで行った。

 そこに秋谷が居た。くしゃり、と笑った。

「やったじゃん。最高だね!」




身体がどっと疲れていた。


帰宅し、部屋の壁に紙袋を立てかけると、重さに耐えかねてあっという間に崩れた。大量の購入した漫画道具が溢れ出てきた。そのなかに大ぶりなファイルケースが紛れていた。チャックを開けると、それは漫画の原稿だった。

しかしそれは瞳未のものではなかった。

絵はどこかで見たことがあるものなのでよく考えた。やがて、Gペンの所作を教えてもらったときに見たものと一致した。秋谷の原稿だ。ベッドに寝ころびながらパラパラ見た。

同じ少女漫画でも、瞳未のとそれは全然違った。構図の動きが激しく、主人公は紙から飛び出してきそうなくらいお転婆で、人間として色々破綻していた。きちんと丁寧にペンでなぞられてプロかと思うくらい上手かった。仕上がった漫画ってのは鮮やかさが全然違うな、と唖然とした。

「……変な話」


なんだあのイカれた女。そんなに感情むき出しだとくたばるぞ。もっと、理性的でないと。

高校一年生春、僕は変な女子に出会い、ぐちゃぐちゃになった。


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