第4話


 鈴が住んでいるマンションは、最寄り駅から徒歩十分ほどのところにある。できてそんなに経っていないらしく、綺麗でセキュリティーも万全らしい。そんなマンションのオートロックの前で、心の準備をすることすでに十分以上は経過した。

「いつになったら呼び鈴鳴らすん」

 動物園の帰り、気持ちが固いうちに話に行こうということで来たはいいものの、一向に決心が固まらない。一人じゃ勇気の出ない私についてきてくれた佐藤君は、唸りながら悩んでいる私にいい加減飽き飽きとしていた。

「もう少し…」

「いやもうええわ。押すで」

 え、と佐藤君を見上げると、鈴の家の番号を押されていた。その時の私の顔は、まるでムンクの叫びのようだったに違いない。

「お、鬼か⁉」

「はよ押さんからや」

 高い位置にある彼の両肩を掴んで揺さぶっていると、ぶつっと呼び鈴の音が切れて、小さく「はい」という声が聞こえた。急なことにどうしたらいいかわからず固まった私の背中を、佐藤君が強引に押し出す。

「あ…、えっと…」

「……あんちゃん?」

「う、うん。ごめん、急に。その、今大丈夫?」

「…開けるね」

 その言葉と同時に、目の前の自動ドアが開く。後ろで佐藤君が「おお…」と声を漏らしたのが聞こえた。

「ありがとう。すぐ行くから」

「…うん」

 いつもの元気がない、小さな声に胸が痛む。なんとかしなければ、ずっとこのままだ。自動ドアをくぐる前に、両手で頬を挟むように叩き気合を入れる。

「よし」

 鈴に会ったら、とにかく謝って、話そう。私の思っていること全部。そして鈴の思っていることも聞くんだ。それからのことは、そのあと考えればいい。後ろを振り向くと、佐藤君がじっと私を見ていた。

「ここからは、私だけで行ってくるね。…着いて来てくれてありがとう」

「ええよ。頑張りいや」

「うん」

 短い彼の言葉は、私を励ますには十分だった。自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り込んで、4階を押す。階数が上がっていくたびに、カウントダウンをされているようだった。

 部屋の前でまたインターホンを鳴らす。少しの間があって、中から物音が聞こえた。ガチャ、という鍵が開く音がしたと同時に、ドアが開けられる。

「いらっしゃい」

 目を真っ赤にはらした鈴の姿に、昔言ったことのある動物園にあるふれあいコーナーのウサギを思い出した。

 おじゃまします、と家に上がる。久しぶりに来た鈴の家は、やっぱりとても女の子らしかった。入ってすぐにトイレのドアがあって、その横にお風呂場。向かいに洗濯機と洗面台。部屋に入る手前にキッチンがあって、そこを過ぎたら、鈴のピンクを基調とした部屋にたどり着く。ぬいぐるみがたくさん置いてあるのが、鈴らしかった。

 部屋の真ん中にあるテーブルを挟んで向かい合い、私たちは沈黙した。膝を抱えて座った鈴がを眺めながら、どうやって話を切り出そうか、と考えていると、鈴の方から、「ねえ」と声がかかる。

「ん?」

「何で、来てくれたの。私、あんなこと言っちゃったのに」

 叱られるのを怖がる子供みたいに、キュッと身を縮こまらせて、白くて丸い膝に顔を埋めていた。

「何でって、謝りたかったから」

「あんちゃんが謝ることなんて何もない」

「そんなことない。私、知らないうちに鈴のこといっぱい傷つけてた」

 なにも置かれていない、白いテーブルを見つめながら、ぽつりぽつりと、自分のことを話す。

「私、昔から人を信用できないの。これは別に、他人だからとかじゃなくて、家族に対してもそうなの。うまく自分の意見を言えなくて、流されるままで。きっかけは、ちゃんとある。今はうまく、話せないけど。人の信じれないくせに、好かれていたくて、私を一番に信用してほしくて、誰かの一番になりたくて。こんなの、普通じゃないってわかってるのに、どうしてもこの考え方だけは治らなかった」

「うん」

「でも、鈴と過ごす時間が楽しくなかったわけじゃない。全部楽しかった。一個一個、事細かに覚えてるくらい、私にとって鈴との時間は特別で。だからこそ、怖かった。何か一つでも間違えたら、嫌われて、もう二度と話せなくなるんじゃないかって」

「私も同じようなこと思ってたよ。もしかしたらあんちゃんは、私と一緒にいたくないんじゃないかって。仲良くなりたくなかったんじゃないかって」

「そんなことあるはずない! だって…っ、こんなに大好きなんだよ…」

 首を横に振って、もう一度絶対にありえないと言ってみせる。また、ほんの少しの沈黙が流れた。鈴の反応が怖くて俯いた私を見て、今度は彼女が話し始める。

「あのねあんちゃん、確かにあんちゃんの態度に怒ったのもあるけどね、私、悔しかっただけなの」

「くやしい…」

「そう。だって、私よりも先に素のあんちゃんを、佐藤は見てるわけでしょ?」

 想像もしていなかった言葉にびっくりして顔を上げる。目の前の鈴は頬を膨らませて、怒ってますアピールをしていた。目は真っ赤に腫れているし、場所は鈴の家だけど、学校でよく見るいつも通りの風景だった。

「ずるいよそんなの。私の方がずっとずーっとあんちゃんが好きなのに」

「別に素ってほど自分を見せたわけじゃないよ。ちゃんと話したのだって二回くらいなのに」

「わかってる! でも、私性格悪いから、そんな風にばっかり考えちゃって。あんな言い方してごめんね。私ね、あんちゃんと、本当の意味で気の許せる友達になりたい。あんちゃんが安心して、自分の思ったことを言えて、好きなように行動できる場所を作ってあげたいの」

 真剣な目を、嘘偽りのない言葉を、私に向けてくれる。臆病者で、普通じゃない考え方しかできない私に、こんなに素敵な友達がいていいのだろうか。口がわなわなと震えて、涙と嗚咽が話すことを邪魔しそうになる。それをぐっとこらえて、深呼吸をする。

「…できることなら、教えてほしいくらいなの。どうしたら信じられるのか。私だって鈴のこと…、ううん、鈴だけじゃない。家族のこともこれから出会う人たちのことも、変に勘ぐったりせずに信じたい。でも、私が思ったことを言ったり、感情を出したら嫌われちゃうんじゃないかって、怖いの。今の私は、鈴に嫌われるだけで、きっと生きていけない」

「あんちゃん…」

「私、誰かに嫌われるのが怖いの。悪口を言われたり、変な目で見られたり。ひそひそ周りが話してると、私のこと言ってるんじゃないかって、気持ち悪くなるの」

 感情が高ぶって、涙があふれ出る。部屋に私の嗚咽が響く。きっと言葉を探しているのだろう、鈴は黙ったままだった。その沈黙すらも怖かった。次は何を言われるのだろう。こんな私に呆れて、帰ってって言われたらどうしよう。そんなネガティブな考えしか浮かばなかった。そんな時、ふわっと頭に何かがのった感触がした。鈴の手だ。

「あんちゃんがなんでそこまでおびえてるかわからないし、聞く気はない。いつか話したくなった時に話してくれたらそれでいいよ。でもね、これだけは覚えておいて。私があんちゃんのこと大好きだって。どんなわがまま言ったって、怒ったって泣いたって、嫌ったりしない。間違ったことは喧嘩してでも教えてあげるし、嬉しかったことは一緒に喜んであげる」

 ゆっくり、まるで小さな子に言い聞かせるように優しく言葉を紡いでくれる。言葉に合わせて、私の頭を撫でる手も、まるですぐに壊れてしまうものを手入れするかのように優しかった。

「で、でも、嫌でしょ。だって、すぐに怒ったり、泣いたり、笑ったり。面倒くさくない?」

「んー、それは人によると思うけどなあ。でも何の感情も見えない方が逆に気持ち悪くない?」

 思ったことはすぐに口に出るタイプだからこそ、彼女の嘘偽りのない言葉だということはわかった。上目で鈴を見ると、いつもの女の子らしい、綿菓子のように甘い笑顔ではなく、意地が悪そうに口角を上げていた。可愛いお目目が、腫れて半分くらいしか開けていないのが、痛々しくて、でも可愛いと不謹慎にも思ってしまう。

「友達ってぇ、嫌いな部分を含めて認め合えるのが友達なのよぉ。あんちゃん、知ってたあ?」

 久しぶりに聞いた、甘ったるい、語尾が伸びる喋り方。可愛くて、でも嫌いだった。でもそれが鈴だと思っていたし、間延びをしない話し方の鈴は、なんだか嫌だな、と思った。

「そっか…」

 やっぱり、好きと嫌いは同義だ。だって私は、鈴の嫌いなところでさえ愛しく思う。それでこそこの子だと、嫌なところをひっくるめて好きでいられる。

彼女は知っていたのだ。私の、ダメなところも、見抜いていた。例えばパンケーキがそんなに好きじゃないところとか、最近流行のインスタ映えが嫌いなところとか、そういったものもばれているのかもしれない。そのうえで、私が打ち明けるまで待ってくれた。付き合ってくれていた。友達でいてくれた。

「私、すごく嫌な奴だね」

 ぽつりと、真っ白で何色にも染まっていないテーブルを見つめ、呟いた。鈴はきょとんとした後、吹き出し、声を上げて笑った。嬉しそうな色をにじませた声で、心底愛おしいというように、「そうだねえ」と頷いた。

「でも、大好き」

 涙袋からまた新しい水がぷくっと出て、私の瞳に膜を張った。意地でも流してやるもんかと、口角を上げる。私も大好きだと、告げるために。



『ほな仲直りできたんや』

「うん。本当は直接報告出来たらよかったんだけど」

『ええよ。そんなん気にせん』

 鈴の家から帰ったあと、すぐに佐藤君に連絡をした。お礼を言っても、彼は別に自分は何もしてない、と言って取り入ってくれなかった。それでも、仲直りをした報告をした瞬間ほっと息を吐いたのは聞こえて、笑みが浮かぶ。

「佐藤君さ」

『なん?』

 初めて会った時は、こんな風に話す未来なんて全く見えなかった。むしろ仲良くなるなんて、とさえも思っていた。でもどうだ、話してみたら随分と話しやすい。彼は人の意見をはねのけたりせず、一回しっかり聞いた後に自分の意見を言ってくれるから相談もしやすいし、なにより沈黙が苦にならなくて楽だった。こんな人間に、鈴以外で出会うことができるなんて、私は幸せ者なのかもしれない。たった二人の理解が、二十年間生きずらかった私の呼吸を楽にした。

「今度また、写真撮るのに付き合ってくれる?」

『邪魔やないんやったら』

「邪魔だと思ってたら誘ってないよ」

『それもそうやな』

 怖い印象しかなかった関西弁も、彼のゆったりした話し方のおかげでそんな抵抗もなくなった。会ってそんなに経ってもいない人に簡単に心を動かされるなんて、鈴がまた嫉妬で怒るかもなあ、と漏らすと『はあ?』と耳元から理解不能だというような声が聞こえた。

『なんでそんなので怒るねん』

 理解できひん、とあんなにもかっこよく私を叱咤激励した男の言葉とは思えないそれに、あはは、と声を出して笑う。

「そんなもんだよ、人なんて」

 ベッドの上に寝転び、片手は携帯、もう片手には、つい先日返された、展示会で飾っていた写真を天井にかざす。佐藤君は知っているんだろうか、この花の、他の花言葉を。

『一生忘れられへん思い出になったんちゃう?』

 目を見開く。携帯の画面に映る、佐藤君と言う文字を凝視した。彼はいつも、私の考えていることを見通しているようだ。緩んだ口元をそのままに、写真を持った方の腕で目元を覆う。

「本当に、忘れられない。私が君と鈴のおかげで変われた大事な思い出ね」

 ウシノシタクサは、贈り物に相応しくない花だと言われる。それは、この花を代表する花言葉がマイナスを意味するものばかりだからだ。けれど私は、何年後、彼らに花を贈るとしたらこの花を贈るだろう。

 私たちにとっての『大事な思い出』だから。




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ウシノシタクサ 寧々子 @kyabeko

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