第3話
誰にも嫌われず、好かれていたい。そのためには『普通』であるべきだ。この考え方が根付いたのは、私の家族が関係していた。
私の家族は、いたって平凡だった。仕事に生きる父、家庭を守る少し厳しい母、引っ込み思案な姉、自己顕示欲の強い兄、そして、兄たちの反面教師で過ごす私。私の家は、普通だけれど、私にとっては異質だった。家族全員が、父を嫌っていたのだ。全員、と言うのは少し語弊があるかもしれない。嫌いは好きと同義だと思っている私は、父に対して、尊敬の念もあったため、本当に嫌いだと思ったことは一切なかった。嫌い、と言うのが「お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで」と言う思春期の子供程度なら、どこの家庭でもあったかもしれないが、うちの家族はどこか陰湿だった。父がいないとき、席を外した瞬間などを見計らって、すぐに悪口を言うし、しかし父の前ではケロッと、仲のいい家族を演じる。気持ち悪いと思った。まるで舞台上にいるみたいだと。でも父だけが対象であるなら、ここまで他人に好かれ続けることに固執しなかったと思う。ある日の夕飯の後、実家のリビングに私と母と兄がいて、私が何気なくテレビを見ている時だった。姉は丁度、お風呂に入っていたと思う。
「姉ちゃんさ、ちゃんと将来のこと考えてんのかな」
「今のままじゃあねえ…。いったいいつになったら自立してくれるのかしら」
兄の言葉をきっかけに、二人は突然姉に対する悪口や不満を言い始めた。私は姉と一番仲が良かったから、慌ててかばうようなことを言ったのを覚えている。
「おねえのこと、そんな風に言わないであげてよ」
「あのなあ、お前は子供だからわからねぇと思うけど、大人にはいろいろあんだよ」
「そうね。あんちゃんにはわからないことが、たっくさんあるのよ。お金とか、職とか…。早く新しい仕事見つけてくれないと困るというか…」
「そりゃ、私にはわからないかもしれないけど、言いすぎじゃ」
「昔からおかしいと思ってたんだよなあ俺。姉ちゃんマイペースだし、何も考えてないし、何でもかんでも母さんたちに頼ってさあ」
「家にいても何してくれるわけでもないし。それだったらバイトでも何でもしてくれたいいんだけど、まああの子、仕事が遅いからねえ」
「俺が上司だったら絶対クビにするだろうな」
まるで世間話でもするように、にこにこと笑いあいながら話している二人の顔に、白塗りでにっこりとした表情の仮面が見えた。さっき、姉がお風呂に行くまでは仲良く話していたくせに、少し席を外しただけで、こんなにも好き勝手言う母と兄が、信じられないと同時に怖くなった。私もいつか言われるのでないか。いやむしろ言われているのでは? この人たちは、家族なのに、血がつながっているのに、まるで他人みたいだ。血なんて関係ない。家族なんて関係ない。自分にとって気に入らない人を容赦なく切り捨てる二人の姿に、まだ小学生だった私は恐怖を覚えた。私は、誰かに嫌われるのが極端に怖くなった。他人も、家族でさえも信用できないと、まだ小学生の私は思ったのだ。
それ以来、誰にでも愛想を振りまくようになったし、喜怒哀楽を滅多に出さない、他人に合わせる人間として成長した。家族の前でさえ、気を抜くことはない。本当に我慢ができないとき以外、お手洗いに立つことさえもしない。この話を誰かにしたことはないし、しようとも思わなかった。他人に出すべきものではないと思っていた。
信用できないくせに、自分のことは嫌わないでほしい。自分をその人の一番にしてほしい、なんて馬鹿馬鹿しい話だと自分でも思う。だからこそ私は、こんな自分を隠すために、誰かのための『お人形』にもなれるし、『普通』にだってなる。
母との出来事と、この陰湿な家族が、今の私を作り上げているのだ。
◇
今日も、嫌な夢を見た。小学校の頃の、トラウマ。家族さえも信用できなくなった日の話。最近見なくなっていたのに、ここ最近、頻繁にあの日のことを夢に見る。久しぶりに見たのは、確か、佐藤君ときちんと話をした日だった。
鈴は彼のことを暗い暗い、と言っていたが、そんなことはなかった。鈴とは違ってポンポンと話題を出してくるような人ではないが、ゆっくりと、じっくりと一つのことに関してお話ができる人だし、自分の意見をしっかり持ってる。多分、鈴が言っていた合評のしやすさとか、そういったところも彼のそう言った部分のおかげだろう。
彼のことを嫌いだと思ったのは、どうやら間違いだったらしい。彼はとても、私にとっては好ましい人だった。ただ、妬ましい部分がなくなったかと言われたら、それは違う。やっぱり彼と私じゃ、根本的に違う。彼がどんな環境で育ってきたのかは知らないし、そもそも環境のせいにすること自体間違いなのかもしれないが、それでも、考え方が全くの反対をいっているから、わかりあえない部分も多い。
彼はしきりに、一度鈴と本当の意味で向き合うべきだと言っていた。けれど、私はそれだけは出来ない、と首を横に振るばかりだ。それに怒りはしないものの、至極不思議そうに、私の気持ちがわからないと言っていた。私はそれにわかるわけがない、と笑みを浮かべるしかできなかった。
「あんちゃん」
彼と会った次の週の水曜日、鈴と一緒に受けている一般教養の授業がある日。先に来ていた私の隣に鈴が座った。今日はふわふわの髪を一つに結んで、服はノースリーブの白いトップスに黒いスキニーというシンプルな格好だった。
「おはよう」
「おはよぉ。今日もあっついねえ」
「もう夏来たって感じだよね。日焼け嫌なんだけどなあ」
「本当にそれだよねえ。もう日焼け止めが手放せないよぉ」
パタパタと手で仰ぎながら、ふうっと息を吐く彼女が、格好も相まって大人っぽく感じる。
「あ、そういえば」
鈴が思い出したように声を上げた。授業五分前くらいで、徐々に教室内に人が増えてくる。
「佐藤に聞いたよぉ。この間、私の知らないところで密会してたらしいじゃん~」
「密会って…。そんなんじゃないよ。佐藤君がわざわざ私に謝りに、あー、いや、なんでもない」
「謝り? なにそれ、何か佐藤から嫌がらせされたの?」
珍しく間延びのしない喋り方になり、じっとその大きな目で私を見つめた。笑顔の浮かんでいない能面のような子に、びくッと肩が跳ねる。
「いや、全然嫌がらせとかじゃなくて、ちょっとアンケートの件で話した時に、その」
「…そんな口ごもるとか、なんかやましいことでもあるの?」
「ない、ないから。本当に気にしなくて大丈夫」
佐藤君と話した内容は、ほとんど鈴に聞かせられないようなものばかりだし、と思うとうまく言葉が出なくなる。どう言ったものか、と考えを巡らせていると、いつの間にか顔を俯けていた鈴が、蚊の鳴くような声で何かを言った。
「え、なに? どうしたの?」
「うそつき」
一体誰の言葉なのか、すぐに判断できなかった。鈴はすっと顔を上げ、私を見た。睨むでもなく、かと言って微笑んでくれるわけでもなく、ただただ無表情で、私を見つめている。
「うそつきだね、あんちゃんは。今だけじゃない。ずっとずーっとうそつき。すぐに私に合わせようとして、嫌なものを嫌って言ったり、好きなものを好きって言ったりしないよね。わかる、とか、そうだね、とか当たり障りない返事ばっかりでさ。本当に私のこと友達って思ってるの?」
「な、何言って…。大事な友達だって思ってるよ。当たり前でしょ」
私がずっと避けていた出来事が、今起ころうとしているようだった。こんな鈴は初めて見たので、苦しくなる。感情が波打ちだして、気持ち悪い。泣きそうになる。授業が始まる前の教室で、どうしてこんなことになるんだろう。
「私、ちゃんとあんちゃんのこと好きだよ。友達だって、大切だって思ってるよ。でもあんちゃんは? 私、時々不安になるの。本当は無理させてるんじゃないかなって、他学科の私なんかといたくないんじゃないかなって。あんちゃんといないとき、あんちゃんが来る前の食堂や教室で、いつも考える。どうしたらあんちゃんは私を信用してくれるの? なんで佐藤に話せて私に話せないの? 私たちの中に、急にポッと入ってきたのあいつなんかに負けなきゃいけないの? 私の存在って、そんなに小さいものなの?」
「…そんなことない。鈴の方が私にとって大事だよ」
「じゃあなんで? 思ったこと言ってくれないの?」
「それはっ! …嫌われちゃうんじゃないかって。私がいなくなった途端、めんどくさかったなって思われたらどうしようって」
「はあ? なにそれ? 思うわけないじゃん!」
鈴がバンッと机に手を叩きつけて立ち上がる。教室内にいる人の視線が、私たちに向くのが分かる。逃げ出してしまいたかった。周りの目が怖い。ひそひそと、笑っている白い仮面をつけた人たちが私たちのことを噂している。何かがせりあがってくる感じがした。それをどうにか耐え、ぎゅっと手を握る。
「でもわからないでしょ。そんなの口だけなら何とでも言える…」
「何で信じてくれないの⁉ 好きじゃないこと一緒にいられるほど私器用じゃない!」
「そんなの分かってるよ! でも仕方ないでしょ、人を信用したことなんてないの‼」
今までで一番大きな声を上げてそういうと、鈴はびっくりしたように後ろにのけぞった。はっとして鈴を見上げると、驚いた顔からだんだんと泣きそうな顔になっていく。大きくて丸い目に涙が溜まっていき、顔をくしゃくしゃ歪めて、鈴は叫んだ。
「それじゃあ! 私たちはいつまでたっても本当の友達になれないよ!」
鈴は、自分荷物をひっつかんで、走り去っていく。小さな背中がどんどん遠くなっていくのに手を伸ばすだけで、臆病者の私はあの子を追いかけることすらもできなかった。
◇
次の日の昼、鈴は食堂に現れなかった。その次の週の火曜日も、昨日の授業も、あの子は来なかった。それほどまでに傷つけて、怒らせてしまったのだ。もしかしたら、もう話すこともできなくなってしまうのかもしれない。部屋のベッドの上で、どれくらいの間布団に潜り込んでいただろう。今日の昼もきっと来ないだろう鈴のことを考えると、どうしても動けなかった。
テロレロリンッ テロレロリンッ
枕元に置いていた携帯が、着信を告げる。手さぐりで手に取り、画面を見ないまま通話ボタンを押す。
「…もしもし」
『あ、でた』
「えっ」
ばっと布団をどけて飛び起きる。着信相手は、まさかの佐藤君だった。実は河川敷で話をした日の帰り道に、何となく連絡先を交換したのだ。けれど一回も彼から何かが送られてきたことはなかったし、私も送ったことがなかった。何故今更? と頭をひねりながら用件を尋ねる。
「どうしたの?」
『あー、うん。僕今日全休やねんけど、牛野さん暇やったりせん?』
どうやら何かのお誘いらしい。鈴じゃないんだ、と思ったと同時に、頭が一瞬でさえる。ああ、そうか、きっと鈴が学校に来てないのが気になっているのか。無関心に見えて気遣いの良くできる人だな、とまたしてもいい一面を見つける。
「…暇だよ。どこか行く?」
『うん。動物園行きたいねん。動物、好き?』
「うん、大好き」
『ほな十一時に駅前に集合で』
「了解」
特に仲がいいわけでもないのに、とんとん拍子で話が進んだ。十一時、と時計を見るとあと一時間くらいある。とりあえず一緒に出掛ける彼に失礼のないように、最低限は支度をしておかないと。普段はあまりしない化粧も、今日は倍以上綺麗に仕上げた。服は動きやすいようにロングTシャツにスキニージーンズ、スニーカー。髪は、普段絶対にしない二つ結びだ。こんな時、鈴だったらもっと可愛らしい格好をするんだろうか、と玄関前に置いた全身鏡を見ながら思う。ああ、少し気が緩むと鈴のことばかりを考えている。ぶんぶん、と頭を振って思考を切り替える。首にカメラをひっかけ、本来は教科書を入れているはずの軽いリュックを背負う。
十一時十分前、彼はもう私を待ってくれていた。私もそれなりに早く来たつもりだったのに、彼はいったいいつから待っていたのだろう。
「佐藤君!」
「ああ、ごめんな、急に」
「ううん。こっちこそ待たせたみたいでごめんなさい。行こっか」
「おん」
最寄り駅から、動物園のある駅までの間、私たちの間に会話はなった。だけど別に気まずくはなくて、逆に心地がいい。下手に鈴とのことを探ろうとしてこないところが、今の私にはとてもありがたかった。
動物園に来て最初に何を見るか、ここに来て初めて会話らしい会話をしたのだが、見事に意見が割れた。私はライオン、彼は二ホンオオカミを見たいらしい
「普通に考えて、ライオンはクライマックスやろ」
「何でそんな微妙なラインを攻めようとするの? それならもっと可愛いの言われた方がよかった」
お互いがお互いに文句を言ったが、今回は彼が折れてくれて、最初にライオンを見に行くことになった。今はのんびりタイムなのか、どこの動物たちも檻の中でくつろいでいる姿が見受けられた。大きく猛獣と言う言葉が似合う姿をしているのに、伏せてくつろいでいる姿は家猫のようだった。
ライオンに標準を当て、指を動かす。気分はスナイパーだ。あの大きな猛獣に築かれないように、私は弾丸を打つかのようにシャッターをきる。液晶モニターで確認する作業をしていると、横から佐藤君がのぞき込んでくる。
「あくびしとる」
「ね。猫みたい」
そんな感想を言いあって、次々と場所を移していく。次は約束していた二ホンオオカミのゾーン。そしてレッサーパンダ、動物園なのにいるペンギン、コアラ、色んな種類のツル。普段見ることのない動物たちを見ては、写真を撮ることに没頭した。佐藤君は私の作業を遮ることはなく、でも一緒に撮った写真を見て感想を言い合ってくれた。
ある程度回ったあと、丁度時間がお昼時になったので、近くのカフェに入った。さすが動物園内のカフェ、壁の至る所の動物の写真が貼り付けられ、ジャングルをイメージしているかのように観葉植物などがおいてあった。お昼時ではあるが平日のため、二人席にすんなりと案内された。
各々好きなものを頼んだ後は、私がさっき撮った写真を二人で見返した。彼はやっぱり、二ホンオオカミの時が一番食いつきがよくて、失礼とは思ったけれど笑ってしまった。
「お待たせしました~」
店員さんが料理を持ってきたことで、観賞会はお開きし、ご飯を食べ始める。ここで初めて佐藤君は、今まで避けてくれていた鈴の話題を出した。
「岩永が、学校休んどうの、知っとる?」
「まあ、ね」
「牛野さんは関係あるん?」
「…ある。むしろ私のせい」
私は先週に起こったことを、出来るだけ細かく話す。私と鈴の問題なのに、他人に相談するのはなんだか気が引けたけれど、彼に話すことで何かヒントが得られるかもしれないと思ったのだ。
彼は、ことのあらましをすべてを聞いた後、いつか見たように首を傾げた。
「ほんで?」
「え?」
彼は長い前髪の隙間から、私の目をしっかりと見る。
「それで牛野さんは、岩永を待っとるだけなん?」
それは、考えてばかりで行動に移すことができない私への、叱咤だった。決して怒鳴るような、強い口調ではなかったけれど、でも確かに彼自身にしかこめられない力が入っていた。
「僕は、正直関係ないしどうでもいいけど、牛野さんは岩永のために変わりたいと思っとるんやろ? 今がそのチャンスやないん?」
「チャンス…」
「待つだけなんて、誰でもできるわ。勇気を出して動いた先にこそ、道は開ける」
じいちゃんの受け売りやけどな、と言って彼はカレーライスを一口。私は彼から目が離せなかった。勇気を出した先に、本当に私が望むものがあるだろうか。こんな、人の意見に流されることでしかいきれなかった私に、それは掴めるのか。
「掴むチャンスはみんな平等にある。それに気づくか気づかへんか、足掻くか足掻かへんかが大事なんや。どっちの後悔が泣きを見るのか、どっちの後悔が自分を幸せにしてくれるのか、それがわかるのは牛野さん自身や。嫌われるのが怖い言うとったけど、受け入れられるかどうかは別として、ありのままの自分も見せられん、見せたとしても離れていくやつの『嫌い』の何が怖いねん。そんなのは、きっとこの先長いこと生きていく中でほんの些細なことや」
――『興味関心があるものとか自分の意見言うときは、かーなーり―饒舌』
ああ、鈴の言っていた通りだ。自分の意見を言うときは、普段の影もない。人に口を挟む余裕を与えないほどに饒舌。けれどそんな彼の言葉だからこそ、響くのかもしれない。誰かの心を揺り動かすだけの力を、持っているのかもしれない。
「僕らは口下手や。自分の声に乗せて伝えられない何かがあるからこそ、僕はペンを、あんたはカメラを手にした。『普通』の人には理解出来ん思考回路を持った。『普通』やないんは『特別』や。周りの目を、自分の方法で敵じゃなくて味方にする。何億人の同意より、たった数人からの理解が力になる。もっと自信持ちい」
普段は何を考えているのかわからないような彼の、光の宿った瞳が眩しい。彼は、この考えにたどり着くのに、いったいどれだけの批判を受け、傷つき、悩み、理解者を、道を、得たのだろうか。彼はなってくれるだろうか、私の理解者に。
「少なくとも二人はおるんやから、牛野さんを認め撮る人間は」
「…二人?」
まるで思考を読まれていたのかと思うようなセリフと、身に覚えのない人数に首を傾げる。彼はふんっと鼻で笑って、自分を指さす。そこで初めて、私は彼の感情を表した表情をしっかり目にした。
「決まっとる。僕と、岩永鈴や」
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