第2話


「佐藤が気になるぅ?」

「ばっ、声が大きい!」

 身を乗り出して鈴の口をふさぐ。図書館がある建物の地下、そこに新しくできたカフェは、木を基調とした内装で、ところどころに観葉植物や、くつろげるようなソファとテーブルなどが並べられている。新しいこともあって人もそれなりに多いが、無事二人席に座れた。毎週火曜日と木曜日のお昼は、別学科である私と鈴の時間割が比較的似ていたので、一緒にとるようにしている。木曜日の日替わりパスタを食べながら、この間鈴が来てくれた展示会の日から思っていたことを打ち明けてみたら、予想以上に驚いている様子だった。

「な、なんでそんなことになってるのぉ? まさかあんちゃん、あんな暗いやつが好きなの…?」

「何で好きとかそういうことになるの…。そうじゃなくて、どんな人なのかなって」

「どんなって、うーん…」

 鈴がお上品な色味のピンクに彩られた口の中に、オムライスを放り込みながら首を傾げている。

「あんまり喋るのとかは得意じゃないかなあ。感性とかはすごく鋭いというか、うーん、こっちの意図とかをすぐに汲んでくれるから合評はすごくやりやすい。何でも知りたい欲があって、興味関心があるものとか自分の意見言うときは、かーなーり―饒舌。でもすぐ煽ってくるし、いい性格してるというか…、うーん…。あ、彼女はいないって言ってたよぉ」

「彼女はどうでもいいの。でも、そっか、感性…」

 その持ち前の感性の鋭さとやらで、私の写真にあの題名を付けたのか、それともただ単に博識だっただけなのか。やっぱり彼への疑問や興味はなくならず、少し気持ちが落ち着かない。

「もっかい会いたい?」

 パスタの味を消すようにアイスティーを飲んでいると、鈴からそんな問いが飛んできた。伏せていた視線をパッと彼女に移す。その顔は、とてもよく作られた笑顔に見えた。

「……ううん、いいかな」

 別に会いたいわけではない。会いたいわけではないが、知りたいのだ。私の写真を見た時の気持ちと、あの題名の意味を。くるくるとフォークに巻き付けられたパスタが、あの日の彼に思考を持ってかれている私の頭の中みたいに見えた。



 次の週、あの日以来久しぶりに一緒に食べるお昼に、その人はいた。この間と違い、お昼時には毎回人がごった返す食堂の四人席に、にこにこと私に手を振る鈴と、ぼうっと自分の前にあるペットボトルに目を向けている彼。一瞬固まってしまったが、すぐに我に返り向かいの席に座る。自分の向かいに現れた私に気付いたのか、視線を上げた彼と目が合う。最初にあった時と同じように小さな会釈をされ、私も同じように会釈を返す。

「ふふ、びっくりしたあ? あんちゃん、佐藤とお話してみたいんじゃないかなって思って~」

「…ありがとう」

 いいことをした、というような顔をしている鈴を見ていると、何も言えなくなってしまう。苦笑を浮かべお礼を言うと、嬉しそうにはにかんだ。

「私まだご飯買ってきてないから買ってくる~。あ、二人は先に食べてていいよ~」

 鈴は勉強道具が入るのかどうかもわからない小さめのカバンから、これまた小さな折り畳みの財布をもって席を立つ。鈴がいなくなった途端に、食道から一切人が消えたのではないかと思うほど、その場が静まり返ったように感じた。気まずい気持ちになりながら、先ほど買ってきたサンドイッチを袋から出す。

「…な、なんかすみません、鈴が…」

 サンドイッチの封を切りながら、出来る限り笑顔を浮かべ話しかける。鈴は彼のことを口下手だと言っていたが、私も負けず劣らずなのも忘れないでほしい。彼は、ただただ私の顔を見るだけで、正直ものすごく気まずい。彼の目から視線をそらし、サンドイッチを口に運ぶ。

「……佐藤悠馬です」

「へ?」

 二つあるうちの一つを食べ終わったところでの突然の自己紹介に、思わず目が丸くなる。彼は先ほどと一切変わらない無表情で、もう一度名前を口にしてくれる。

「佐藤、くん。えーっと、私は、」

「牛野杏、さん。憶えとる。写真、印象的やったし、岩永もよくあんたの話するから」

「そ、そっか。写真、見に来てくれてありがとう」

「いや、別に…」

 会話が続かなすぎて、多分生きてきた中で一番困っているかもしれない。いったい何を話したら、会話が続くんだろうか。趣味の話とか? お見合いかよ。

 一人で脳内会議を繰り広げていたら、また佐藤君の方から「写真…」と話しかけられた。

「なに?」

「写真、ウシノシタクサ、好きなん?」

「…好きなわけじゃ」

「じゃあ俺が書いた意味であっとる?」

「……」

 言葉に詰まる。さっきまで何を考えているかわからなかった目に、何かを訴えかけているかのように強い光が宿っていた。蛇にでも睨まれているのだろうか。どことなく酸素が薄い気がしてきた。

「…博識なんだね。花言葉、好きなの?」

「本が好き。本やったらなんでも読んだ。国語辞典とか百科事典とか…。やから花言葉辞典も読んだことある」

 彼の話し方は、箇条書きのようだった。トントンと、大事な部分だけを話す感じ。生まれも関西なのだろうか、イントネーションと方言が目立つ。見た目から勝手に標準語の感じがしていたから、少し意外だった。

「どこにでも咲いとる花やないし、あんまりいい意味で使われることないやろ。やからこそ、印象的やった」

「…私も、印象的だったよ、君のアンケート」

「不快やったか」

「ううん、そうじゃない」

 不快とか、腹が立つとか、そういう気持ちを抱いたことはない。

 展示会用に撮ったのは、アンチューサという花の写真だった。私はその和名であるウシノシタクサ、という名前の方が好きだが。実家にいる、ガーデニングが趣味という祖母が育てていた、自慢の花の一つだ。色んな花を育てていた中で、私が唯一心惹かれた花だった。祖母には、これを好きになるなんて変わっているねえと、苦笑しながら言われたのを今でも覚えている。

 祖母がなんでそんなに微妙な反応をするのかがわからなくて、図書館にまで行って花図鑑を漁ったのも懐かしい。彼が言ったように、ただ好きだというだけなら。綺麗とか、そういう理由で心惹かれただけならどんなによかったか。でもきっとそうじゃない。だって、ウシノシタクサの花言葉は。

「あなたが信じられない」

 今度は、佐藤君の方がパチリ、と目を瞬かせた。

「君の言う通り、私はこの花言葉を意識してたよ。好きとかそういうのじゃない。私があの花に惹かれたのは、きっと私自身を表しているかのように感じたからだと思う」

 自分の膝の上で祈るように手を組み、彼をまっすぐに見つめる。

「でも、そっか、君は私のそういう臆病な部分を見透かしたわけじゃなくて、自分の知識から読み解いただけなんだ。…よかった」

「よかった?」

「だって、普段の私は、誰かに見透かされることなく『普通』になれているみたいだから」

 彼の長い前髪の間から、眉をひそめたのが見える。そのことに、心の中に住むもう一人の自分が怯えた。あ、嫌われたかも、と考えた瞬間に、背筋が冷たくなる。

「その、あんたの言う『普通』がなんなんか知らんけど、自分を偽るような人間を、あいつは好きになるんやろうか」

 あいつ、というのは鈴のことだろうか。よく見えない彼の目がすっと細まったのを感じる。

「そもそも『普通』ってなんやねん。誰かと同じがそんなに偉いんか」

 グサッと、音がした。自分の心臓によく研がれた包丁を突き刺された感じ。自分の信じてきたものをすべて壊そうとするようなこの男を、初めて怖いと思った。それと同時に、この物怖じしない、自分の思ったことをすっと言えるところがあの子と似ていて、すごいな、と言う感情が浮かんだ。私にはできないからこそ、すごい。そして憎らしい。

「…私、君のこと、そんなに好きじゃないかも」

「……それは残念や」

 彼はテーブルに置かれていたミルクティーの入ったペットボトルをもって、立ち上がる。何を言うわけでもなく、食堂の出口に向かっていく背中をじっと眺める。好きじゃない、好きじゃないけれど、とてもいいと思った。周りを気にしない、自分の好きなように生きれる、鈴と同じくらい理想の人。

 彼と入れ替わるように、売店の方から鈴が帰ってくる。いなくなっている彼の存在に、目をぱちぱちとさせながら戸惑っているのが見えた。

「え、何、帰っちゃったのぉ?」

「うん。ありがとね、私のために」

「いいよいいよぉ。ちゃんとお話できた?」

 やっぱり何かを勘違いしているのか、にやにやとした笑みを浮かべた鈴に、軽くため息を吐く。それから、小さな子供のいたずらを見つけたみたいに、笑ってみせた。

「とてもためになった。鈴が友達になるだけあるね」

「と、友達ぃ⁉ いやだよあんな根暗な友達なんて~!」

 お弁当の蓋をあけながら、ぶつくさと文句を言う彼女から視線をそらし、お茶を口に含む。

 私も、この子となんでも言い合えるようになれたら、彼のように周りの目なんて気にしなくなるんだろうか。いや、そもそもそんな風になれるなら、とっくの昔になっている。何年後も、何十年後も、私はきっとこのままだ。

 ふっと、人知れず自嘲した。



佐藤君と会って三日経った。丁度講義がない日だったため、ふらふらと家の周りを散歩していた。大学が田舎の方にあるため、その近くに一人暮らしをしている。周りは田んぼや畑に囲まれていて、自然が多い。近くには川も流れているし、野良猫が歩いているのもよく見る。自然を撮るのが好きだから、晴れていて用事が何もない日は、こうやってあたりを探索してまわることが多い。

 歩いてだいたい三十分のところに大きな川があって、そこの河川敷まで下りる。この場所は、春は桜が満開になるのだが、それがすごく綺麗で、大学生になってから三年間ずっと、春はここの桜の写真を撮り続けてきた。別に春だけがいいわけではない。桜が散ると、青々とした葉っぱが頭上を覆って、とても涼しく感じる。風が優しく吹く日なんて、ざわざわと鳴く葉っぱたちの声にすごく癒される。ところどころに設置されているベンチで、持ってきたおにぎりを食べながら、周りを見る。小さい子供を連れたお母さんや、ジョギングをするおじさん、ものすごいスピードでペダルをこぐロードバイクのお兄さんなど、いろんなもので溢れかえっている。世界は綺麗だ。ふとした時、いつもそう思う。

 おにぎりを食べ終え、持ってきていたウェットティッシュで手を拭いてから、首に下げたカメラを手に取る。キラキラと太陽の光を反射する川の水面を、ファインダー越しに見る。指を動かす。たったそれだけで、カシャッと言う音を響かせながら、ほんの一秒の風景は永遠になる。

 液晶モニターに映る、いましがた撮った写真を見て、自然と笑みが浮かぶ。我ながらよく撮れたな、なんて心の中で自画自賛をしていると、ふ、と自分の上から影が落ちる。ばっと顔を上げると、存外近い距離に、その顔はあった。

「やっぱり上手いな。自然撮るのが好きなん?」

「な、ん…」

 ついこの間あったばかりの彼が、目の前にいて、私の写真を見ている。座っている私の手元を見るため、腰を折り曲げ、それでも私の顔の位置より少し高いところから見下ろされているため、表情がよく見えた。切れ長の目は柔らかく緩んでいて、口元にもひそかに笑みが浮かんでいる。会った二回のうち、ぼうっとしているところや無表情、眉をしかめているところしか見たことがなかったので、その表情はとても新鮮だった。

「かお、ちかいです」

「ん? ああ、ごめんな」

 かろうじて出たその言葉に、彼はすんなりとしたがった。それから、何を思ったのか、ストン、と私の横に腰を下ろす。意識せずとも背筋が伸びるのを感じて、息もつまる。昨日あんなに失礼なことを言ってしまったのに、いったいどんな顔をしていればいいのだろうか。

「…どうして、ここにいるの?」

「帰るんにバス乗っとったら、あんたの姿が橋の上から見えてん。やから、ここまで歩いてきた」

「いや、私が聞きたいのは」

「この前の、謝ろう思って」

「へ?」

 わざわざ、バス乗り場から少し離れたここに歩いてきた理由に、首を傾げる。私が謝ることはあっても、彼が謝るところが思いつかない。

「嫌いって、言われたから。なんか失礼なことしてしまったんやないかなって。あと何も言わんと帰っちゃったし」

 本当に思っているのかわからないくらい淡々というので、まじまじと彼の横顔を見つめてしまう。そして、ぷっと吹き出し、声を出して笑った。

「あはは! そんなこと気にしてたの? 佐藤君って、案外可愛いんだね」

「はあ? どこがやねん。誰でも思うやろ」

「そうかな。でも、そうやって思ったことを行動できるのはすごいね。いいと思う」

 嫌いかも、なんて言ったけれど、尊敬できるところはたくさん見つかる。私の嫌いは、好きと同義だと思っている。私は、本当に嫌いと言うものはわからない。そもそもどうでもいい人間のことなんて、好きなところも嫌いなところもわからない。関心があるからこそ、その人のいい部分や嫌な部分が見えてくるんだ。それに対して、自分が好意を持つのか嫌悪を抱くかの違いがあるだけ。好きの反対は無関心、という言葉は的を得ていると、常々思うばかりだ。

「私こそ、嫌いかもなんて、失礼なこと言ってごめんなさい」

「いや、ええねんけど。…いや、やっぱようないわ。理由聞いてもええ?」

「しょうもないことだよ?」

「ええよ。僕、心理描写苦手やねん。人がどういう気持ちで好きになったり嫌いになったりするんか知りたい」

 私の話さえも自分の創作の材料にする、とでもいうかのような発言に苦笑してしまう。手の中にあるカメラを撫で、目を伏せる。

「嫉妬だよ」

「嫉妬?」

「鈴と、あんなふうに言い合いできるのも、自分の思ったことを素直に言えるのも、周りと同じことの何がいいのかって言えるのも、全部が羨ましかったから。私には一生なれないな、って思ったら、嫌いだなあって」

「…それだけ?」

 よくわからない、と言う顔で首を傾げる。彼は存外子供っぽいところがあるんだなあ、なんて、こんな状況でも新しい一面が見つかる。カメラを構え、ファインダーを通して彼を見る。

「そんなもんだよ、人なんて」

 祖父もこんな気持ちで、あの時の祖母を撮ったのかな。そんなことを思いながら、驚いた顔の彼を永遠に収めた。

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