ウシノシタクサ
寧々子
第1話
私は、普通じゃない。
「楽しみだねえ、パンケーキ! こーんなに分厚いの!」
目の前で、茶色い肩までの長さの髪の毛を、ふわふわと揺らす友人を見る。そうしてにこりと、私もまるで楽しみにしているかのように笑う。
「うん、楽しみ。鈴はすぐお腹いっぱいとか言うんだから、ちゃんと食べきってよね?」
「あー! あんちゃん、私のこと馬鹿にしてる~! 甘いものは別腹だもんね~」
ピンクで彩られた可愛い頬を膨らまして、私を上目で睨む友人を可愛らしいな、と思う。私とは違って、お人形みたいな見た目なのにちゃんと人で、可愛い。身体と表情をいっぱい使って、自分の感情を表現する。この子は、私が知る限り一番生きてるって感じがする。
じゃあ私はどうなんだろう。大学に入って三年、ずっと仲良くしてきたこの子を、本当の意味で信用したことなんてない。でも、嫌われたくなくて、私を一番に信用してほしいなんてお門違いなことを考えて、自分の感情を殺す。信用をしていないけれど、好きだから、この子のためならいくらでも私は自分を殺すし、嘘だって吐く。私はいつだって、自分の目の前にいる人間の『お人形』でいた。
馬鹿馬鹿しい、そんな生き方しかできない私を、私は世界で一番、殺したいほど嫌いだ。
「二名でお待ちの岩永様~」
「お、呼ばれたねえ! 早く行こう!」
「そんな焦ると転ぶよ」
「そんなドジじゃないですう」
白い壁に水色の屋根、茶色い扉には鈍く光る金色のドアノブ。その先に、鈴が吸い込まれるように入っていく。一時間も待つような人気店、甘い甘いパンケーキ。そんなもの本当は、本当の私は…
「好きじゃ、ないんだけどね」
ぽつりとつぶやいた本音は、誰かに聞いてほしかったんだろうか。
異世界へと通じる扉に向かう足は、お世辞にも早いとは言えなかった。
◇
小さな頃から、親の期待に応えないと、というプレッシャーの中で生きてきた。習い事、勉強、部活、そのどれも、いやいやしていたわけではないが、親が喜んでくれるから、という気持ちで頑張ってきた。
テストは好きじゃなかった。受けること自体は何も思わなかったけれど、テスト用紙が帰ってきて親に見せるのが、心底嫌いだった。例えば私が、苦手科目の数学で九十八点をとって帰ったとする。母は、褒めるよりまず「どこを間違えたの?」と言う人だった。そのあとにすごいね、と言ってくれるが、その裏にある「100点取れたでしょ?」というメッセージが、私には痛かった。
とにかく、人に褒められなければならないという強迫観念が、私にはずっとあった。褒められなければ、うまくやらなければ失望される、陰で何かを言われるかもしれない、一人ぼっちになってしまうかも。よくもまあこんな被害妄想ができると、自分で自分に呆れる。それでも、その感情が私を構成している一部だった。
「杏には、安定した職についてほしいの。お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいに、失敗しないでほしい。教師なんてどう?」
母の言葉だ。私にとって母は、尊敬すべき人だ。辛いことがあっても決して私たち子どもに見せないよう、元気に振る舞い家を守る人。精神の強い人でなければ、きっとできないことだ。私は母のような人間になりたかった。だからこそ、母の言葉は絶対だと思っていた。たとえ私の大好きな姉や兄を、失敗作のように言っていても。私に失敗を許されないのだと、自分の感情を押し殺して、夢をびりびりに破って、母の望む通りの「お人形」であるべきだと、本気でそう思っていた。
教師。なりたいかと言われたら、もちろんなりたくない。でも、なるべきなのかもしれないとも思った。それでも、素直にうなずくことができなかったのは、私にとって大事な夢があったからかもしれない。
中学校の時に祖母がプレゼントしてくれたカメラと、私はずっと生きていた。元は祖父の物だったらしいそのカメラは、古いながらも、とてもきれいに使われていた。現像された祖父の撮った写真は、ほとんど祖母の写真だったけれど、そのうちの一枚を見た時に、私もこんな写真を撮りたい、と思った。向日葵を両手に抱えた少し若い祖母が幸せそうに笑っている写真。祖母の笑顔が向日葵と同じくらいのまぶしさを持っていて、祖父の祖母に対する愛情をいっぱいに感じるもの。幼いながらに心を動かされた作品だった。
写真の勉強がしたい、あるなら専門学校に行きたい、と初めて母に意見を言った。私が人生で初めて勇気を出した場面だったんじゃないだろうか。母に望んだ回答は、もちろんもらえなかった。
「大学には行きなさい。専門学校に行きたいなら、本当に杏がその道に進みたいなら、大学を出た後でもできるでしょ」
諦めろ、という言葉を使わずに、遠まわしに夢を粉々に打ち砕かれた。私にとって母は絶対だ。なりたいと、撮りたいと叫ぶ心を、見ない振りをした。
馬鹿だと、笑われるかもしれないが、これが私だ。もうどうしようもできなかった。今更反抗する勇気などでない。でも、それでもどうしても、私は、私に芽生えたこの感情を捨てたくはなかった。
「大阪にさ、四年制の大学で行きたいところを見つけたの。司書の資格と、学芸員の資格が取れるの。写真の勉強をするところではあるけど、資格取ることに専念するから。……どう、かな」
私が行きたいと言った大学は、芸術の勉強をするところだった。学芸員や図書館司書の資格、確かに取れるにしてもそれに重きを置くために来る人間はほとんどいやしない。けれど、それに重きを置く人間のようにふるまった。芸術は二の次、少し学べたらいいと思ってるとだけ伝えた。納得してくれたのかはわからない。ただ母は、「杏が決めたなら、いいと思うよ」とだけ言った。
「ただ、本当に約束してね」
母は、私の目をしっかり見て、硬い声に言葉をのせた。
「学芸員も図書館司書も、ちゃんと資格を取ってね」
母はきっと気づいていたのかもしれない。私が、本当は、とりたいだなんて思ってもなかったことを。うん、と母の口元を見つめ、頷いた。
そんな生き方が染みついた私は、家を離れてもそれが変わることはなかった。もともと人付き合いもいい方ではなかったから、学科でも一人でいることが多かった。だからこそ、学科の違う鈴と仲良くなれたのは、本当に奇跡に近い出来事だと思っている。彼女と知り合ったきっかけは、一般教養の授業で隣の席に座ったことからだった。
ただ映画を見るだけの、つまらない授業。これで一体何が学べるんだろう、と半目で眺めていたら、隣から大きなあくびが聞こえた。隣を見ると、茶色の髪をふわふわと遊ばせた女の子がつまらなさそうに頬杖をついていた。私が視線を向けているのに気付いたのだろう、こちらを見て不思議そうにした後、フフッと照れ臭そうに笑った。
「この授業つまんなくない~? 眠たくなっちゃったあ」
男が好きそうな甘ったるくて間延びした喋り方。綺麗にメイクをされた顔。淡いピンクの花柄ワンピースは、可愛い彼女によく似合っていた。普段の私なら多分、苦笑いで流したはずだが、なぜかそんなことをする気持ちにならなかった。
「…たしかに。これで単位もらえるなんて楽勝だよね」
「わかる~! ふふ、だからこんなに受講者多いのかもねえ」
見た目もしゃべり方も、自分が嫌いな人種だということは明らかなのに、なぜか好ましいと思った。きっと、思ったことや感じたことを素直に表現できるところが、尊敬できたからだろう。
「あんちゃーん」
「鈴、来てくれたんだね」
噂をすれば、と言うのは本当かもしれない。今しがた考えていた人物が、会場の入り口から猫が甘えてくるときのような声で私を呼んだ。ガラス張りの横長い建物、神秘的でいるのにどこか気味の悪さを感じるほど真っ白に包まれた室内に、写真学科の展示が行われている。私の作品も、嬉しいことに飾ってもらえていて、それを見に来てくれたらしい。
「そりゃあ、大好きなあんちゃんの写真だからねえ。ちゃあんと学科のやつも、連れてきたからね!」
学科のやつ、と呼ばれた鈴の後ろに立つ人は、じっと私を見た後「……どうも」と言って会釈をした。案外低い声のあいさつに、少し委縮する。背が高くひょろっとしていて、だぼっとしたパーカーと黒いスキニー。黒く少しだけ長い髪はくせ毛なのか緩いパーマを当てたようになっていて、顔に影を落としていた。暗い雰囲気のその男性は、鈴とは正反対だった。
「どうも……。鈴の彼氏?」
「ええっ、いやだあこんなやつ~。私の好みは舘ひろしだよぉ」
「あ、渋いね」
もう出会って三年も経つのに、初めて知った男性の好みだった。とりあえず、二人に今回の展示会で撮っているアンケートとボールペンを渡す。
「これ、良かったら協力してほしいの。ちょっと変な項目もあるんだけど」
「いいよいいよ~、任せといて~。私アンケート書くの得意なんだあ」
「アンケートに得意も何もないだろ」
「何、文句でも?」
「……」
「無視ぃ⁉」
目の前で繰り広げられる夫婦漫才のようなやり取りに、思わず苦笑いが漏れる。鈴を無視して展示物の方に歩いていく彼に、地団太を踏みながら怒る鈴が、正反対なのにとても相性が良く見えた。
「ごめんねえあんちゃん、不愛想な奴で」
「ううん、全然。鈴に仲のいい人がいて安心した」
「どこがよぉ…。まあ、あいつの作品は認めてあげてるけどぉ」
ふんっと鼻を鳴らして口を尖らす彼女。かと思ったらパッと明るい表情に変わり、にこにこと私を見つめる。
「私、今日来るの楽しみにしてたんだあ。あんちゃんの写真見てくるねぇ」
パタパタと先ほどの彼の方へと走り寄る鈴に、軽く手を振る。ああいう素直なところがあるから、彼女は憎めないのだと思う。鈴が男の友人を連れてくるというのはすごく意外だったけれど。
「ああ見えて、男の人嫌いだからなあ」
ぽつりと、楽しそうに写真を見て回る二人を眺めながらつぶやいた。
受付に座りながらしばらく、ガラス張りの壁から外の様子を眺めていると、写真を見終わったであろう二人がこちらに向かってくるのが分かった。立ち上がって迎えると、鈴が二枚のアンケートを渡してくれた。
「私とこいつのアンケートでーす。ボールペンも、ありがとぉ」
「いいえ、こちらこそご協力ありがとうございます」
フフッと顔を見合わせて笑っていると、鈴の背後からものすごい視線を感じる。チラッとそちらに目を向ければ、鈴の友人の長い前髪の隙間から見える目と目があった。何を思っているのかわからない表情でじっと私を見た後、最初と同じように小さく会釈をして、鈴を置いて先に出口に向かう。
「ああ、ちょっとぉ! も~、本当にごめんねえあんちゃん」
「あ、ああ、いや、大丈夫。私も人付き合いいい方じゃないから」
「あんちゃんでよくなかったら、あいつはヒト以下だよぉ」
ふう、と仕方ない子供相手にするような溜息を吐く鈴の、小さな頭を撫でる。約十センチほどの身長差のある彼女は、非常に撫でやすかった。嬉しそうにくふくふと笑った鈴は、お返しと言うように受け付けの机越しに私に抱き着いた。
「それじゃあ、名残惜しいけどそろそろ帰るねえ。あ、」
私から離れ帰ろうと背を向けた瞬間、思い出したように声を上げる。身体ごと私を振り返り、しっかりとこちらの目を見た鈴の瞳は、カラーコンタクトなんていれていないのに、茶色味の強い色をしていた。
「やっぱり私、あんちゃんの写真が一番好きだったな」
照れ臭そうに少し頬を染めながら走り去る彼女が、とてもきれいで眩しいものに見えた。変に言葉を並べ立てられ、褒められるより、鈴のそのシンプルな言葉が一番嬉しいのに、私はそれでもその言葉のすべてを信じてあげられない。本当はいけないことだと思うけれど、少しだけ、まだ手の中にある彼女の書いたアンケートを見る。
【Q.どの写真が印象的でしたか?】
【A.牛野杏の作品一択‼】
「ふふふ」
鈴らしい回答に、思わず笑いが漏れる。一緒に受付していた子から変な目で見られたけれど、そんなのどうだってよかった。そういえば、とふと鈴の友人を思い出す。彼は、いったいどんな回答をしたのだろうか、と。鈴のアンケートの裏に隠された、二枚折りにされた紙を手前に持ってくる。折られたそれを広げて、アンケートを読み進める。
鈴の時は笑った印象的な写真については、色々な作品を書いていた。先輩のものだったり、同期のものだったり。私のものも、入れてくれていた。上から下へ、スーッと流し見していると、最後の項目に目が留まる。アンケートを持っていた手に少し力が入り、くしゃりと皺が寄った。
【Q.どれか一つの作品に、貴方なりの題名を考えてください】
【A.牛野杏『ウシノシタクサ』→『誰も信じない』】
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