第2話 おきつね様
翌朝、登校すると早速、番井君を探した。その前に実は一組の教室を覗きに行っていたのだが、もちろんマリア様の姿を見つけることはできなかった。
「あ、番井君、おはよう」
階段を上ってきたばかりの彼に声を掛けると、彼は驚いたようにしたが、特に私を避けるわけでもなく、
「おはよう、昨日はごめん。先に帰っちゃって」
と謝ってくれた。ううん、と首を振りながら、たぶんこういうところが好かれるのだろう、と私は分析した。
ほとんど話したこともない私に、彼はきちんと目を見て対応してくれるのだ。当たり前のようなことだが、できない人の案外多いこと。私も、これが逆の立場で、いきなり彼からコンタクトをとられていたらうろたえていたに違いない。
「あ、えっと……、その、マリア様って……」
「ああ、マリアな。ごめんな、マリアのことも。あいつ、悪気はないんだ、たぶん。うん。ちょっと破天荒なやつではあるんだけど。怪我しなかった?」
少し自信無さそうに彼は昨日のように謝罪を繰り返した。
「いや、あの、……ちょっとびっくりしちゃって」
「そうだよな、びっくりするよな。いっつも説明なしでいきなりだもんな、あいつは」
思い出したように彼は頷いて、それから、私の言葉を待つように彼は首を傾げた。
「昨日の話?」
いきなり立ち話をさせられて、番井君が戸惑っているのがわかった。
「うん。あの、マリア様が、十円玉にどうやって穴をあけたのかって」
教室に行きたいのだろうが、私は少し通せんぼするように彼の行く手に立ちはだかっていた。教室にはヒナちゃん達がいる。ヒナちゃんが彼のことを好きなのは知っていたので、二人で話しているのを見られるのは、後ろめたくはないが、なんとなく気まずい気がしたのだ。それで、廊下で彼を捕まえていた。私は、どうしてもマリア様のことが知りたかった。
自分でもどうしてこんなにマリア様のことが気になるのかわからない。ドキドキするのだ。とても知りたい。それは憧れのような気持ちだ。
「それは……俺も、わからないんだよな。あいつどうやったんだろうな?」
番井君は困ったようにした。
「昨日の、あれってただの傘だよね? これ、穴があいてるんだよ? 銅に、プラスチックで穴ってあくかな?」
「そうだよな~。俺が買ってやったのは、安物の傘のはずなんだけど……」
私は昨日持ち帰った十円玉を彼に見せつけた。彼はぎくりとしたが、迷わず受け取ったので、私の方が面食らった。普通こっくりさんをやった十円玉を触ろうとするかな、と私は内心でつぶやいた。私なら、少しヒくけどな。――やはり、彼も少し変わっている。
「買ってやった、って、番井君は、マリア様と友達なの?」
「友達っていうか……うーん、腐れ縁?」
少し嫌そうに言うのが印象的だった。番井君は、そういう顔を同級生にしないと思っていたのだ。
「くされえん……」
「や、ほんと、マリアが驚かせてごめんな」
はい、と十円玉を返してくるので、私は慌てた。このままでは会話が終わってしまう。マリア様について情報収集をしたいのに。
「あの、マリア様って今日は来てるかな?」
「え、マリア?」
「そう、教室まで行ってみたんだけど、来てないみたいで」
彼はじっと私の目を見つめてきたので、私はドキッとした。番井君は何かとても意外そうな顔をしている。
「マリアに会いに行ったの? あいつに用があるってこと?」
「あ、うん、お話したいというか」
「話……」
彼は少し考えた後、なぜだかにっこりした。
「たぶんまだ家だろ。連絡しとくよ、来いって。昼過ぎには来るんじゃない?」
教室に戻ると、ヒナちゃんとユイちゃんが額を突き合わせてヒソヒソと話をしているのが見えた。私が入ってきたのを見て、手を振って呼んでくれる。
「おはよう、どこ行ってたの?」
「タマがいなかったから、少し慌てちゃったよ」
慌てちゃった、というのはどういうことだろう、と思っていると、ユイちゃんが苦笑した。
「ほら、昨日のアレで具合悪くなったりしたのかと思って」
祟りとか信じてないけどさ~みたいな顔をしていたが、どうやらユイちゃんは半信半疑になってきたらしい。オカルト好きのヒナちゃんは深刻な顔をしていた。
「ああ、うん、大丈夫だよ。二人は体調悪かったりしてない?」
二人は頷いた。
「昨日のは、こっくりさんじゃなくて、おきつね様なんだよね?」
ユイちゃんが改めて尋ねるとヒナちゃんは、頷いた。
「昨日、夜先輩にDM送ったんだけど、返事なくて。でもそのはず」
「うーん、おきつね様ってそもそもなに?」
「だから、ここら辺の守り神だって」
「社とかあるの?」
「それは……」
「あ、ほら、あの坂の下の信号機の近くにある祠がそうじゃない?」
私の言葉に、ヒナちゃんとユイちゃんがこちらを見た。
「祠? あったっけ?」
「お地蔵様じゃないの?」
「お地蔵様の隣に祠があったよ。それじゃないかな。陸橋の下のやつ」
二人はそうだっけ、と首を傾げていたが、私は頷いた。
「それより、昨日のマリア様ってさ……」
「まあた、マリア様?」
ユイちゃんがからかうような顔をした。
「だって、すごかったじゃん」
「でも、マリア様のせいでちゃんと終わらせられなかったんだよ。それにまだ聞きたいこともあったのにさ」
頬を膨らませたヒナちゃんに、私は頷いて見せた。
「すごかったよね、マリア様。どうやって、十円玉に穴をあけたんだろう」
「昨日、帰ってから考えてみたんだけど、おきつね様ってヤバくない? いま、ヒナとその話をしてたの」
ユイちゃんは声を潜めて、そして誰も立ち聞きしていないか確認するように周りを見渡した。私達三人以外のクラスメイトはホームルーム前のそれぞれの会話に夢中で、私達の話など聞いていないに違いなかった。
「なんで、十円玉動くの? こっくりさんと同じでしょ?」
「だから違うってば。でも、原理は一緒かもね。やり方がほとんど同じだもん。でも、喚び出すものが違うでしょ。だから、安全」
「そう言ってるのは、ヒナだけでしょ。私はヤバいと思うな」
ユイちゃんがそう言うので、ヒナちゃんがまた不安げな顔になった。私は励まさなきゃと思って、『大丈夫だよ』と言うと、ユイちゃんが目を細めた。
「何を根拠に大丈夫って言えるわけ? 現に、煙が出てたんだよ? 煙なんてどっからどうやって出たのさ。それに、あの十円玉、私達の質問にビュンビュン動いてたじゃん。私は番井が動かしてるのかと思ってたけど」
「番井君が動かすわけないじゃん!」
ヒナちゃんが庇うような声を上げた。その声がけっこう大き目だったので、周囲の空気が一瞬ピタリと止まったのを感じた。他の子と話していた番井君が、びっくりしたようにこっちを見て、近づいてきた。
「なに、呼んだ?」
「あ、昨日の話をしてたの」
しどろもどろになったヒナちゃんを庇うようにユイちゃんが愛想笑いを浮かべる。番井君は頷いた。
「ああ、昨日はごめん。先に帰っちゃって。なんか決まりごとがあったんだよな? 片付けとか大丈夫だった?」
「それは、大丈夫だったけど……」
ヒナちゃんがか細い声でしゅんとする。
「本当に十円玉動くんだな、面白いよな。いつもやってるの?」
何となく空気が重くなりそうだと番井君は気を遣ったのかそう言って笑う。
「ううん、はじめて。この間、先輩に聞いたばっかりだもん」
「そうか」
番井君は何か考えるようにするが、その時、教室の扉が開いて担任の先生が入ってきた。私達はそのまま解散して、ヒナちゃんも番井君もそれぞれの席に戻る。途中ふと、私は窓の外を見つめた。外は春特有の曇り空、しかし雨は降らなさそうだ。
* * *
お母さんが死んだのは、ちょうどこのような気候が続いて、それから雨になった頃だった。ヘッドライトのまばゆい光に一瞬目がくらんでしまった私を突き飛ばして、そして車にはねられてしまった。車は少し先で止まったが、運転席から出てきた人間は、母が死んでいるのを確認すると、何事か毒気吐きながら猛スピードで走り去った。
流れ出る血の赤色を雨が押し流していく。待って、行かないで、助けてあげて、どうしよう、私は尊敬するお母さんをそうやって失ってしまったのだった。
* * *
給食の時間が過ぎても、マリア様はどうやら学校に現れていないようだった。
私は、焦燥感を募らせていた。なぜだろう、なぜこんなに会いたいのだろう。
「ねえねえ、マリア様の噂もっと聞かせて」
「えー」
ユイちゃんはもうその問いかけは飽きたというような声を上げた。それもそうだろう、お昼まで休み時間のたびに問いかけられては、いやな気持ちにもなるかもしれない。だが、私だって気を遣って、他の話題も振っている。ユイちゃんは、そういえば、と声を上げた。
「ああ、そういえば、霊感少女だって一時期有名になって、テレビ局が来たんだっけ」
「雑誌の記者じゃなかったっけ? なんか校門にいたような」
ヒナちゃんもユイちゃんの発言につられて何かを思い出したようだ。小学生の時に有名になりすぎて、東京からわざわざ取材クルーが来ていたらしい。関係ない子にもインタビューをするので、注意喚起がされたとヒナちゃんが言った。
「そうそう、ほら、大野君が得意気に話してた」
「あ、そうだったね。ヒナもわざわざ何度か見に行ったよね」
「そうだった。公園でインタビューされてるって聞いて、ユイ誘って遊びに行ったよね。たしか、誰かがそのあと呪われたか死んだかで、けっきょく取材も来なくなったんだっけ」
「ちがうよ、ほら、東京のマリア様のお父さんが止めたって、うちのお母さんが言ってたけどな」
「そうだっけ?」
「『誰かが呪われたか、死んだ』?」
物騒な言葉に、二人が振り向いた。
「うーん、なんかあんまり詳しく思い出せないんだけど、そうだった気がする。あれ、違うかな、遺体が見つかったんだっけ? マリア様が見つけたんだっけ?」
ヒナちゃんは腕組みをして、首を傾げる。
「うちもおばあちゃんにマリア様には近づくなって言われたから、あんまり詳しく知らないんだよね」
「そうそう、話したら呪われるって言われてた気がする」
「あー、待って、何か思い出しそう」
ユイちゃんが両こめかみを指で押えながら唸って、ぱっと目を見開いた。
「思い出した。あの時、お母さんとマリア様の話をしようとしたの、そうしたら、おばあちゃんが『不謹慎だから、やめなさい』って怒ったんだよね。たしか、マリア様は神社さんのところの子どもだからそんなこと言っちゃいけない、って」
「『神社さんの子ども』?」
ユイちゃんが頷いて、窓の外を指さす。
「ほら、あそこの森見えるでしょ。ちょっと小高くなってるところ。あそこに神社があるんだけど、マリア様のお家があそこなんだって」
校庭のさらに先、住宅街のその先の畑などに囲まれたところに、たしかに唐突に森がある。それもけっこうな広さだ。
「お父さんがあそこの跡取りじゃなかったかな。とりあえず、あそこの子どもだから、あそこの家の噂話はしちゃいけないんだってことだと思う」
「マリア様、あそこの、子なんだ……」
私は目を見開いて、そうか、と得心した。
なるほど、たしかにあそこには神社がある。この辺り一帯の人が昔は信仰していた――果ては、県外や都からも参拝者が来るほどの大きい神社だったけど、近代ではなりを潜めていて、土着の信仰の場としても、観光スポットとしても機能していないように見える、あの神社か。高齢者なら、あの神社の権威を知っているはずだ。ユイちゃんのおばあさんがむやみな噂話を止めたのもわかる。中学生や小学生という子どもですら、なんとなく一目置いている家系なのだから。
「マリア様は、幽霊が視えるの?」
私の直球的な質問に二人がぎくりとした。
「え、だって、そうなんだよね? 霊感少女だもん」
「それは……」
「正直信じてなかったんだけどさ」
ユイちゃんがぽつりと言った。
「でもなんか、昨日のあの気迫? 見たら、そうかもって思っちゃった」
ちょっと怖かった、と正直に彼女は言う。傘で十円玉を突くシーンは、びっくりした、と。
「十円玉って、けっこう硬いよね?」
「そりゃそうよ」
硬い貨幣と書いて硬貨だもん、とヒナちゃんにユイちゃんは頷く。
「あ、」
と校庭の方を見た私が途端に声を上げたので、二人は怪訝な顔をした。
校庭を横切って歩いている黒髪の少女を見つけて、私は浮足立った。
「あ、えっと、ちょっと、行ってくる」
「ええ?」
「あとでね!」
昼休みの喧噪をかき分けながら、廊下に飛び出し、一目散に階段を下りる。もどかしい、本当だったら窓から飛び降りてしまいたいくらいだ。私は走って、校庭を横切る。
少女は、時折突風に黒髪をなびかせながら、校舎を背中に大楠を見上げていた。
「マリ、……じゃなくて、ええっと……」
マリア様! と叫ぼうとしたが、いきなり下の名前で呼ぶほど私達は親しくないことを思い出した。昨日一瞬邂逅しただけなのに、どうしてそんなことができようか。しかし、私は彼女の名字を知らなかった。それで、叫んで呼び止めたいのに、それができずにいた。
奇跡だ、彼女がゆっくりとこちらを振り返った。雨でもないのに、昨日の傘を携えている。
「あ」
私達の間には五メートルほどの距離があった。それなのに、彼女の漆黒のまつ毛が震えるのが見えるようだ。
――美しい、そんな風に人のことを思うなんて。
私は、どぎまぎしながら、彼女の挙動を見つめていた。
すらりとしたシルエットの後ろから、まるで光が漏れているように私には見えた。まばゆい光で、照らされているような、そんな人。ユイちゃんがいつも言っている『私の推し』にするなら私は迷わず彼女を選ぶだろう。
「なに」
しかし、彼女の言葉は痛烈だった。切れ味鋭い冷たい言葉。本当に迷惑そう、私は思わず半歩後ろに下がったが、気合を入れて押しとどまる。
「あ、あの、あの、私、タマです。あーえっと、昨日、化学室にいたんだけど、覚えてないかな。えっと、その、」
言葉が思い浮かばない。目力がすごい。こんな人見たことがない。でも嫌ではないのだ。ただただ圧倒されて、言葉がうまく紡げなくて自分が恥ずかしい。
彼女は無言で私を凝視していた。
私はもっと緊張して、テンパってしまう。落ち着け落ち着け、左手を胸のあたりに置いて、内心でそう繰り返した。
「あのね、私、お願いがあって来たの。あの、あなたが、その、視える人だって聞いたから。そのね、あそこの坂の下の交差点にいる幽霊を視てほしいの」
「……」
「それで、私、」
ずっと、そうしたいと思っていたのだ。あそこに立っているあの女性の話を聞いてほしい。あの人はずっとあそこにいる。――あそこにい続けている、何かを伝えたいから立っているはずなのに、私には何もすることができない。
「あなたに、あの人の言いたいことを聞いてほしいの。私にはできないから」
その瞬間、傘の先っぽが私の目の前にひゅんっと突き出された。顔を突かれる! と反射的に私が目を瞑ったところに、冷え冷えとした声が響いた。
「――私には、化け物の言うことは、聞こえないの」
「おいっ!」
そんな、と叫ぼうとしたところで、右手を思い切り後ろにひかれた。私はよろけて、私の腕を引っ張った人に抱きかかえられる形でぶつかってしまったが、その人は私のことなど気にしない様子で、マリア様に言い返していた。
「危ないだろう!」
「ケイ、なんなの?」
男の子の怒った声と、呆れたようなマリア様の声。
私は、私の腕を引っ張ったのが、番井君だということに数秒遅れて気が付いた。彼は、私が傘で刺されそうになったと勘違いして、私の代わりに怒ってくれているようだ。
「『なんなの』? なんなのは、こっちのセリフだ!」
カンカンに怒った彼は、まるで諭すように彼女の傘の先を引っ張った。が、彼女はそれを逆に前に突き出して、番井君の方がよろけてしまった。どうやら、彼女は護身術も強いようだ、と変に感心してしまう。
「人に傘を向けるな! あぶないな! 昨日も言っただろう、怪我したらどうするんだ! お前は、まったく、そんなんだから」
「『そんなんだから』? は?」
ケンカをしている二人に口を挟むことができず、私は目をまんまるにしながらその様子をうかがった。
「あのね、私はケイが来いって言うからわざわざ来たのに、またこんなことになってるわけ?」
「いいか、俺が来いって言わなくても学校には来いよ、義務教育だぞ! なんだよ、何か間違ってるか?」
はあ、話にならない、とマリア様はため息をついた。そして、私をちらりと見てから、
「あんたね、私が昨日も助けてあげたお礼もしないうちに、またこんな厄介事やめてくれる?」
と言いながら番井君を見つめた。
数秒の間があったのちに、彼女はくるりと背中を向けた。
「帰る」
「おい、こら、待て!」
叫ぶ番井君を無視しながら、さっさと去って行くマリア様を私はどこか恍惚な気持ちで見つめていた。
「ごめん、マリアは本当に悪気はないんだ、たぶん」
「いいよ、番井君は、わざわざ呼んでくれたんだもの。私が初対面だったのに図々しかったんだよ」
マリア様が去ってから、番井君は改めて詫びてくれたが、私は別になんとも思っていなかった。マリア様に傘を向けられたことだって、特に怒りはなかった。私だってはじめましての人にいきなりあんな話をされたら戸惑ってしまうだろう。ただ少し残念なだけだ。
「実は、二人の話が聞こえちゃって。なにか、その、困りごと?」
私とマリア様との会話を聞いていたのか。
「あ、……ああ、うん」
校舎に帰る道すがら、私は、少し迷ってから打ち明けることにした。番井君なら笑わないだろう。
「坂の下の交差点、知ってる?」
「うん、この間、交通事故のあった」
「そうなの。……実は、あそこで、私の母が亡くなってるの」
「え」
「あ、ずいぶん前だから、気にしないで、大丈夫だから」
気遣われることを察して私は努めて明るく振舞った。全く大丈夫ではないが、このように話すことができるほどには過去の話だ。
「あそこで、交通事故が多いのは知ってるでしょう?」
「ああ、うん。そういえば、俺が知ってるだけでも何回もあるな」
「あそこにね、女の人が立っているの、それで――」
でも、私にはどうすることもできない。何か言いたいのかもしれないが、何を言おうとしているのかもわからない。ただぼんやりと視えるのだが、それもよくわからない。
そう言おうとすると、番井君は目に涙を溜めていた。
「え、番井君?」
「いや、ごめん、そんな……いや、そんなことが……。君のお母さん?」
私は面食らって、そして、微笑んだ。この人はとてもやさしい人なのだ。ヒナちゃんが好きになるのもわかる。首を振る。
「違うよ。でも、実際はわからないの、私には。よく視えないから。でも、その人が何か言いたいことがあるのなら、それを叶えてあげられないかと思って。いきなりこんな話をされて、マリア様も迷惑だったよね、本当に申し訳ないとは思ってる」
「マリアは、……その、あいつは、そういうのが嫌いなんだ」
私は首を傾げた。
「小さい頃から、そういう噂話ばっかりされてるから、そういう話題にナイーブなんだ。それにかなり人見知りで、コミュ力が低いんだよな」
番井君の言い方に、私はぷっと吹き出した。ふふっと笑っていると、怪訝そうな顔をされたので、
「まるで保護者みたい」
と言うと、また嫌そうな顔をされる。『腐れ縁』と言い放った時と同じ顔だ。
「でも、付き合いが長いんだね?」
「まあ、保育園の時からかな」
「すごい前からだね」
「まあ。でも、ここら辺の奴はみんなその程度一緒だろ」
「そっか、まあそうだよね」
小さな頃からあんな美少女と知り合いなのか、いいな、と羨ましく思う。小さなマリア様もきっと今みたいに可愛かったのだろう。
「とにかくさ、マリアに、もう一度頼んでみるからさ」
「ほんとう? でも、マリア様、私に怒ってると思うし」
マリア様は昔からその噂のせいで、きっと嫌な思いをしてきたに違いない。なのに私ったら、いきなりその核心に触れるようなことを言ってしまって、正直失敗したなと反省していた。彼女を傷つけてしまったかもしれないし、私自身は彼女とお近づきになりたかったのにそれも叶いそうにない。
私がそう言うと、番井君は、はあとため息をついた。
「あれは、あいつが短気なせい。マリアは誰にでもああなんだよ。あいつが友達と仲良くしてるところ見たことねーもん」
「そうなの? お友達はいないの?」
「いないいない。だから、実は俺、朝、『マリアと話がしたい』って言ってくれて内心嬉しかったんだよね。ようやく、マリアにも友達がって」
「そうなんだ」
あんなに神々しいんだもの、と私は心の中で思う。みんな取り巻きとして周りから見ているしかなかったに違いない。私ならそうするし、そんな風に崇拝するしかない。――そう、それは私の母のよう。私は目を瞑った。神々しかった私の母の姿が浮かぶ。
「マリアはさ、あれで優しいんだ」
「そうなの?」
聞き返したが、私もそうに違いないと思っていた。まだほとんど話したことはないが、そんな気がしていた。
「うん、ちゃんと頼みごとを聞いてくれるよ。面倒だって言うかもしれないけど、それはマリアに願い事しに来る奴が鬼のようにいるからだし、そのほとんどが身勝手だから、あいつ疲れちゃってんの。小さい頃から色んなことに振り回されてるからなぁ」
「そう、――わかる気がする」
私は頷いた。ちっぽけな私にすら願い事をしに来る人がいる。そして、助けてあげたいとも思う。それは、交差点に立っているあの女の人もそう。私には何を言っているかわからないのが、だからもどかしい。もどかしくて、自分より優秀な誰かを頼りたかった。
「番井君、よかったら、もう一度お願いしてくれる?」
私は、番井君の手を引っ張った。彼はちょっとびっくりしたようだ。女子から手を引くのはやりすぎだっただろうか、ヒナちゃんに悪いことをしただろうか、私はそう思って慌てて手を離した。
番井君は、だけど失礼だとは思わなかったようだ。にっこりしてくれた。
「うん、わかった」
いつものようにヒナちゃんもユイちゃんも、あの交差点が通学路だったので、私と三人で放課後帰ることにした。しかし、そこにはなぜか番井君も含まれていたので、ヒナちゃんが肘で私をつつく。ヒナちゃんは彼の帰り道がこちらではないことも知っているのだろう。
「ね、どうして番井君もいっしょなの?」
小声でそう聞かれて、うーんと困ったように笑うしかなかったが、ユイちゃんの鋭い目線に降参と話すことにした。
「実は、少しお願いがあって、」
「『お願い』? 番井君に?」
「あ、ちがうの。マリア様に、お願い事があったんだけど、番井君がマリア様を呼び出してくれるって言うから」
「番井がなんでマリア様を呼び出してくれるの?」
ユイちゃんの疑問に、うーんと、私は再度困ったように笑って黙った。マリア様と番井君が仲良いみたいな話をヒナちゃんに伝えるのはどうかと思ったのだが、迷っているうちに、ユイちゃんは、
「お願い事って、なに?」
と聞いてきた。
「それは……」
ちょうど交差点にさしかかろうというところだったので、私は少し立ち止まった。三十メートル先に、長い黒髪の少女が見えた。私は、どきりとする。本当に来てくれたのだ。
「あ、マリア様」
ヒナちゃんも立ち止まり、ユイちゃんは番井君を振り返った。
「……こわい」
なんだか、とヒナちゃんがつぶやく。私も同意だ、マリア様はなんだか怖かった。それは、呼び出されて怒っているせいなのかもしれないし、彼女が発する何かに私が気圧されてしまったからかもしれなかった。私はスカートのポケットに入れた穴のあいた十円玉を握りしめ、自分を奮い立たせた。
「マリア!」
そんなマリア様を臆することなく呼んだのは、番井君だった。そしてマリア様は明らかにそんな彼を睨んだ。
とたん、その後ろにゆらりと影が見えた。
「マリア様! マリア様、お願い!」
私は、とっさに叫んでいた。
私には視えたのだ、マリア様の後ろのガードレールの、さらにその先、その道路にやはり誰かが立っている。その女性は何かを言っている、でも私には何も聞こえない。悲しそうな表情だ。私は、その姿がつらくて、いつもだったら目を背けていた。しかし、私の母なら、きっと助けたいと願っただろう。私を助けてくれたように、母は万民をも救った。そういう人だった。そんな母を私は尊敬していたのに、私のせいで失ってしまった。
――マリア様、マリア様、お願い、私の代わりに助けてあげて!
ぽつり、と雨が降ってきた。春の曇天、雲に反射して太陽は見えないのにやけに世界は明るい。
自動車が、女の人の影を通り抜ける。ぼやっとした影は、しかし弾き飛ばされることもなく、ただそこに突っ立っている。そして、周りに何かを伝えようとしている。
「ひっ」
と、隣でヒナちゃんの短い悲鳴が聞こえた。振り返ると、ユイちゃんも小刻みに震えて、女の人を指さしていた。
「な、なな、なに、あれ」
「み、み、視えちゃった」
二人して手を握り合って、顔面が蒼白になっている。
それ以上前に進めない二人を置いて、私と番井君は少しずつマリア様と女性に近づいていく。マリア様は、そんな私達を見て、
「ケイ!」
と番井君を呼んだ。声は、震えている。しかし、それは恐怖からではなく、怒りからのようだった。マリア様はやはり激怒していた。私は彼女の怒った顔しか見たことがないな、と唐突に思った。いつか笑った顔を見ることができるだろうか。それは、やはりお母さんのようにやさしい慈愛に満ちた笑みで――
「本気でいい加減にしてよね!」
かわいい声にドスをきかせて、問答無用で手に持った傘を振り回しながら、マリア様はなぜかこちらに近づいてくるので、私達は本能的に下がった。
「おい、やめろ! 危ないって!」
どーどー、と危険な野生動物をたしなめるように腕を前に出した番井君に、マリア様は形のいい唇をぎりっと噛んで、怒鳴る。
「ケイが! そんなんだから! 私がいつも! こんなことをするはめになる!」
そして、いきなり後ろにくるんと振り返ると、今度は交差点の方に駆けて行った。
そのまま女性の影の方に走っていき、自動車がきていないのを確認もせず、ガードレールを飛び越えると、そのまま傘を思いっきりその影に向けて叩きつけた。
――ガッシャン!
アスファルトに思い切り傘が叩きつけられる音、それとは別に、
――ギャーーーーー!
という叫び声、そして、女性の影だったものが傘に押しつぶされて小さくなったかと思うと、その闇色の影はいきなり四方にものすごい速さで髪の毛のような束を発散した。それは、ドロドロの黒い血のようなものに変わり、辺りに降り注ぐ。
私は思わず、顔を覆った。ヒナちゃんとユイちゃんの悲鳴が後ろから聞こえる。二人にも視えたのだ。視線を横にそらすと番井君は言葉が出ないらしく口をパクパクしていた。バシャバシャと液体のようなものが降りかかるかと身構えていたが、それは私達に降り注ぐ前に透明になりあえなく消えてしまった。
「ちがう……」
ひしゃげた傘を回収して、自動車が通過する前に歩道に戻ってきたマリア様の姿を見て、私は呆然とした。道路はいつもの道路に戻っていた。あの女性の影がなかった頃まで戻ったように陰鬱な空気もなくなっていた。そこを、まるで、何事もなかったかのように車が行き交いを再開している。交通量は多いが、ここでは、もう事故はあまり起こらなくなるだろう。
ちがう、と何度も口の中でつぶやく。私がマリア様にしてもらいたかったのはこういうことではなかった。これでは、人殺しと同じではないか。
「マリア、」
番井君がやってくるマリア様に向かってそう言ったが、マリア様はまっすぐに私に向かって歩を進めて、そして壊れた傘の柄の部分で、私を小突いた。
そして、番井君を睨みつけて、
「ケイ、よかったね、今度からここで交通事故はもう起こらないだろうね。これで、満足なわけね?」
と、怒ったままの口調でそう言った。
「どういうこと?」
「ケイにだって視えてたんでしょう? 後ろの子たちだって視えてたんだから」
ヒナちゃんとユイちゃんが『え、え』と単語を発せずに返答したのに、私は悲しい気持ちで頷いた。
「ここの交通事故の原因は、あの女性だったの」
私の言葉に、番井君は驚いたようだ。
「え、そうなの」
「まってまって、マリア様があのユーレイを退治してくれたってこと?」
ユイちゃんが眼鏡を押えながらそう言う。ヒナちゃんは足ががくがくしてうまく立てないようだ。
「じゃあ、よかったってこと……?」
ユイちゃんの言葉に、私は
「ちがう!」
と叫んだ。私の言葉に、皆の視線が集まるのを感じたが、私は涙が伝うのを止められなかった。
「ちがう、こんなことしてなんて、頼んでない……」
こんな、
「こんな、力づくで消してしまうなんて、どうしてそんなひどいことを……」
「力づくで消す?」
番井君がマリア様を振り返った。マリア様は怒っている。怒って、番井君の向こう脛を蹴飛ばした。
「イテッ」
「私に、どうしろって言うの? それをしろって、ここに、私を呼んだんでしょう?」
マリア様の言葉に、私はさらに悲しくなって、涙がまたこぼれてきた。
「あの女性をこの世界から消してしまってほしいなんて望んでなかった。私は、あの人を救いたかったのに」
何か、心残りがあったのだろう。だから、あんなふうに悪霊になってまで、この世にとどまっていたのだろう。その原因が知りたかったのに、そして願いを叶えてあげてから成仏させたかったのに、こんなひどい。マリア様ならきっとできただろうに。――私のお母さんのように、きっと救えたはずなのに、ひどいひどい。
「――で、あんたも消してほしいってわけ、キツネちゃん」
私に向けられた傘の柄は鋭利だった。私は、恐怖でヒッと縮こまる。
「まてまてまて、ダメだって、そんなことをしたら」
「うるさい! ケイが、そもそもこっくりさんなんてするから悪い!」
今度は逆側を蹴られた番井君は痛みにケンケンした。私は、庇ってくれる番井君の後ろに反射的に隠れようとして、マリア様の目から逃れようとした。
そこにマリア様の手が私の腕をつかむようにしたので、私は振りほどいて、ヒナちゃんとユイちゃんの方に走る。二人は、向かってくる私とマリア様に驚いて固まっている。そんな二人の周りをクルクルと回るように、私とマリア様は追いかけっこをした。
「まて、こら!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
私は謝るしかなかった。この一帯の大地を統べる神様の代理人でもある巫女様は私なんかが到底敵う相手ではない。それがわかっていたので、ただただ恐い。私は、捕まらないように番井君の後ろに隠れた。
「私を利用しようとするな!」
「マリア、そんな言い方はないだろう?」
番井君が、私を後ろに庇いながらそう言う。
「ケイが! いつも! そうだから! 私は!」
マリア様の癇癪が破裂する。
美しい人は、どんな時でも美しいのだと、私は場違いにも感動してしまったのだが、そんな彼女に、私の首元に尖ったプラスチックの先が突きつけられて、そしてようやく観念した。
そのとおりです、と。
「私は、当代のおきつねです」
私は、ここら辺を見守ってきたおきつね様の一人娘だった。母は、雨の日に私を庇って死んでしまった。キツネの数は年々減少している。私の一族も私を最後に絶えようとしていた。私が跡取りになるしかない、しかし、私にはどうにもその才能がないようだった。母の死は、ここら近辺を守っていた守り神の死でもあったのだ。母が死んでしばらくして、この道で交通事故に遭った女性が死んだ。その女性が、悪霊となってしまったのだが、私にはどうすることもできなかった。
「私にできなかったことを、成し遂げていただきたかった、それだけなのです」
しかし、マリア様は、悪霊の言い分も聞かずに消してしまった。私が望んだことは、そうではない。母のように、皆を守って導いてほしかったのに、そんな期待は打ち砕かれた。たとえ人間にとって悪霊だろうと、私達にとっては、それは領地にいる守るべき人間だった。私はうなだれた。
「お、おきつね様……?」
「タマが、え? タマ? そういえば、タマって……え、だれ?」
しょげてしまった私を、二人のまん丸の目が見つめてくるのに、私は残念な気持ちで白状した。
「はい、ヒナちゃん、ユイちゃん、あなたたちのことはいつもそこの祠から見ていました。いつも仲良しで、お話ししたいと思っていたので、嬉しかった」
小学生の頃からここを通学路にしていたヒナちゃんとユイちゃん。お地蔵様の隣にある祠の陰からそっと私はみんなを見ていた。歩道橋ができて、陰になり、ますます誰も参らなくなってしまって、人々はそこに私達の祠があることすら忘れてしまっているようだったけれど、そんなことは関係ない。私には一族の使命があった。
「少しの間でしたが、楽しかったです。私は、役立たずのキツネです。おっしゃるとおり、マリア様を、いえ皆様を利用しました」
悪霊は日に日に膨張して、ついこの間も死亡事故を起こした。これ以上は、と、私は決意したのだ。そんな時、ヒナちゃんがオカルトに興味を持っていることを知った――。
そして、私は昨日、まんまと降霊されたのだった。そしてそこで私の願いをかなえるのにぴったりな人――マリア様を見つけた。
「かくなるうえは、ご処罰していただきたく存じます」
全てにおいて力不足であり、母のようにはなれないことを、私は痛感していた。そして、誰かを頼ろうとした結果がこれ。私は、一人の霊魂をこの世界から消してしまった。それは消滅であり、無に還ることであり、何よりも恐ろしいことだと私は思う。たとえ、人を何人呪い殺していようと、私にはそのような理屈はどうでもよかった。彼女を救いたかったのだ。でも、力を持った者が、私と同じ気持ちでいるはずだとどうして思ったのだろう。私は彼女を消したかったのではない。
そしてそれをしたマリア様を怖い、と思ったが、どうにも嫌いにはなれないのは、彼女が私にとって逆らえないオーラを持っているからだ。無条件で好感を持ってしまったのも、今ならわかる、このオーラに充てられたのだ。それが彼女に起因するものか、あの神社の跡取りだから、ということなのかは判然としなかったが。
「私には、」
マリア様が冷えた瞳で私をひたりと見つめた。眇めた目で私の喉元を狙っているのがわかる。私は情けないことに、恐ろしくて首元がピクピク震えるのがわかった。
「――私には、化け物の言うことは、聞こえないの」
そう言って、力がこもるのがわかり、私は両目を思い切りつぶった。
しかし、
「やめろ!」
ツ、と赤い血が私の首元を伝ったが、それは私の血ではなかった。
「いいか、やめろ、そういうことをするな。マリアのために言ってるんだ」
それは、ギザギザになった傘の柄だったものを握りしめて止めてくれた番井君の血だった。私は目に涙がたまるのがわかった。恐怖もあったが、なんだか申し訳なく、胸が痛かった。
しばらく二人が押し問答をしている間に、私の両脇の下から腕を入れてユイちゃんが後ろに引っ張ってくれた。ヒナちゃんが力の抜けた私を立たせて抱きしめてくれる。
「タマ、けがしてない?」
「タマにひどいことしないで」
「だいじょうぶなの、タマ?」
私は、えんえんとみっともなく泣き出してしまった。そして、ヒナちゃんとユイちゃんに囲まれてひとりしきり泣いていると、大きなため息が聞こえた。
「私は、二回は見逃してあげた」
マリア様のよく通る鈴のような声だ。私は、涙を我慢して、マリア様の方を見る。
「三度目はない。――出しなさい、いいから」
マリア様がスラリとした白い手を私に向かって差し出す。私は、観念して、ポケットから穴の空いた十円玉を出すと、そっと彼女の手に乗せた。
彼女はふっと息を吹きかけるとそれを地面に叩きつけて、地団太を踏むように踏みつけた。コインは、あり得ないことにパリンという音を立てて、霧散した。
途端に、私の体がみるみるしぼんで、元のキツネの体に戻ってしまった。――術が解けてしまったのだ。
「金輪際、ケイと私を利用することは許さないからね」
マリア様の漆黒の目が私に注がれた。
私は、皆を見上げると、ふわふわの体でお辞儀をした。そして、四つ足でそっと駆け出した。ポツ、ポツ、とアスファルトに黒い雨の染みが落ちてくる。無我夢中で私は走っていく。後ろから誰かが追いかけてくる気配はなかったが、私には毛むくじゃらの足を止めることはできなかった。
<了>
マリア様とおきつね様 一本杉 朋恵 @jasmine500
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