第三話 開幕のベル 後編

 王の勅命が周囲を震わし、拳一つで巻き起こした衝撃波が風を生む。

 だが頸の骨を折られた筈のフランチェスカは難無く起き上がり、針金玩具のように容易く、折れた頸を嵌め直してしまう。彼女は早くも元通りにくっついた首をもたげ、王に向かって咆哮した。

「王といえど、所詮はこの程度でありますか。小生は最早であります! 貴方達も直ぐにこの素晴らしい身体の一部にしてさしあげるでありますよ!」

「フン。貴様も王の偉大さには気付けぬか。だがよい、乃公は滑稽を愛でるぞ。馬鹿ほど優れた道化であるのが道理よ」

「馬鹿.....? 小生を捕まえて、馬鹿呼ばわりですとっ.....!」プライドの高いフランチェスカの顔が怒りに染まっていく。「死に損ないの生ける屍風情が、貴族である小生に無礼でありますぞ。その愚行に貴族権限で、死刑を言い渡すのであります!」

 フランチェスカは巨体にものを言わせ、力任せに拳を振り下ろす。一見油断しきった攻撃だが、鍛え上げた肉体と獣の筋組織に、彼女の得意とする運動術キネスを乗せた恐るべき一撃である。

「好いぞ。少しは楽しめそうだ」

 王は印を結び、風の印を宙に刻む。四大元素の抽出は、バビロニアの占星術に端を発する技術だ。ならば彼がそれを修めている事に、何ら不思議は無い。

「“哲学の卵フラスコ悪風渦巻く大神殿ムシュフシュ”!」

 王の背後から立ち昇るは、七つの大竜巻。それはギルドの頑丈な屋根すら砕き、上階を消し飛ばしていく。最早元素の抽出という次元ではなく、局所的な天変地異の域に達していた。

「先ずはそうだな……。蛇にそんな腕なぞ不要であろう」

 王が軽く腕を振るうと、竜巻より解けた二陣の風が唸り、フランチェスカの脇を通り抜けていく。そしてねちゃりとした音と共に、両腕が二の腕の辺りから切り離された。打ち込まれた拳は勢いを失い、王の傍へずしんと落ちる。

「あひいいいい! う、腕! 小生の腕があああ!」

「後は……。貴様のその馬鹿デカいのも邪魔だ」

 王はまるで指揮棒タクトを振るうかの如く優雅に腕を動かし、風で目の前の獲物を解体していく。フランチェスカの巨大な胸が容赦無く切り落とされ、赤い肉の奥から肋骨が覗いた。

 フランチェスカは苦痛に天を仰ぎ、身体をびくびくと痙攣させる。抵抗する気力さえ削がれた彼女の前で、王の頭上に座す黄金の円環が鳴動する。

「道化如きには過ぎた褒賞だが……。乃公の真の姿を見せてやるとしよう」

 戴冠の契約アルス・マグナを結んだ王には、三つの特別な術式アルス絶対王権レガリアが贈呈される。それは文字通り、世界に対して王が持つ絶対の権利であり、世界へと挑む王が持つ最大の武器。その力は錬金術と違って理屈や制約を一切必要とせず、圧倒的な力としてこの世の法則を改変し――世界へと顕現する。

 王はその場でぐっと脚を曲げて、腰を落とした。そして一気呵成に立ち上がる。その肉体を四キュビット約二メートルから四〇キュビット約二〇メートルへ、フランチェスカを見下ろす程に巨大化させながら。

 その頭上では冠が展開し、太陽を模った光輪となって咲き誇る。

 第一の絶対王権レガリア王冠クラウン。王が民の代表者として人としての営みを味わい尽くす為の『特権』を象徴し、王の身体に術の源となる聖杯の炎を宿らせて、生前に得ていた力を復活させる。

「馬鹿な……こんな事はあり得ないッ……!」フランチェスカは己の身に降りかかる理不尽を糾弾するように絶叫する。「黙示録の獣テリオンは法国の力の象徴! 王と魔女如きに敗れるなど、あってはならないのであります!」

 フランチェスカは毒牙を剥き出し王の首筋へ食らいつかんと、筋肉に包まれた全身を可動域限界まで疾駆させて飛び掛かる。それを易々と目で追った王は右の手で頸を掴み、もう片方の手を仰々しく掲げた。

「余計なものが無くなってなったな。……貴様に乃公と一つになる栄誉をくれてやろう」

 王の左肩はごぼりと粘液のように崩れ、その形状を急速に変えていく。太陽色の皮膚は毒々しい紫色へと転じ、竜と見紛う程の巨体を誇るツノガエルとなって悍ましい鳴き声を撒き散らした。

「蛙が蛇を食うというのも乙であろう?」

「い、いやだ……! やめろっ……!」

 恐怖に絶望した表情を浮かべるフランチェスカの頭へ、蛙の頭は容赦なくかぶりつく。腕を失った所為で、彼女には抵抗すらも許されない。頭部を塞がれた身体は、びくびくと震えながら呑み込まれていく。そして断末魔さえも上げられずに、蛙の腹の奥へと完全に消えてしまった。

 異形となった王の全身は台風の如く収束し、ものの数瞬で元の大きさへと戻る。

「存外美味ではないか。……少し生臭いのは我慢してやる」王は左の掌にカエルの口をべろんと開け、その喉奥から一枚の写真を取り出した。「妙な物が引っかかっておったわ。これは……。何だ?」

 王が見つけたのは、フランチェスカが隠し持っていた写真だった。

「写真っていう現代の発明ですよ。現実の景色を、そうやって紙に写す事ができるんです。……その景色、ボクは見覚えがありますよ」

 王から受け取った写真には、青い空へと伸びる深紅の金属塊と、白い建物が写っていた。ボクの背後から、キザイアもその景色をじっと見つめる。

「これは……。聖地オケアノスのランドマーク:天上羅針ヘヴンコンパスさね。キングスランドの最北端に築かれた、神殿騎士団の一大拠点だよ」

 天上羅針ヘヴンコンパス。それは伝説の聖者:聖油のローゼンクロイツによって、死んだイスカンダルの大灯明の跡地に錬成された巨大な金属の塔である。天上羅針ヘヴンコンパスは特殊な磁力を帯び、この世に存在するあらゆる方位磁針はその磁力の方角を指し示す。

 かつては世界の最果てエルシオンこそが世界の最北の地とされ、方位磁針は最果ての方角を示していたが、天上羅針ヘヴンコンパスの誕生によって人々が最果ての方角を知る事はできなくなってしまった。

「案ずるな。どの道、神殿騎士団は乃公が滅ぼしてやる。イスカンダルの大灯明を復活させる為には、それが必要だからな」

 王は頼もしく宣うが、彼の言葉にボクは違和感を覚える。

「あれ……。どうしてお前がイスカンダルの大灯明を知ってるんです?」

 最果てへ旅立つ為に必要な、紡ぐべき大灯明の復活。それは全ての王が封印されてから、ずっと後の事である。本来、王が知っている筈は無い。

「アルカと別れた後に、色々と面白い事があってな」

「別れたというかぶっ殺したんですが……。そうだ、何でお前が生きてるんですか!」

「乃公は死を作った半神デミゴッドだぞ? 自分の生死を自由にするぐらい、訳無い事よ」

「んうー? そ、そういうものなんですか……?」

 術師としては納得いかない返事だが、その疑問を追求する事に大した意味はない気もする。

 確かなのは、彼が今ボクの王であるという事実だ。それはつまり、ボクの願いを認めてくれたという事に他ならない。何が本当に彼の心を変えたのかボクには知る由も無いが、自分の心を埋めてくれる喜びに比べれば些細な問題だ。

 たとえ彼が、鉄学者に『悪魔の王』と称される存在であったとしても。

「ねえ、お前。そう言えば、もう一つ渡さなきゃいけないものがあったのを忘れてました」

「何だ。鉄学者が王に渡すのは冠だけではなかったのか」

「名前ですよ。王、なんて呼び方じゃこの先不便でしょう? ……お前の名は大王ベル。ウルクの偉大な王:ベルです。」

 ベルは満更でもなさそうに、「フン」と笑った。


 ◇


 同時刻。対岸に天上羅針ヘヴンコンパスを臨む海岸の高台に、白石の神殿が聳え立つ。

 刺し込む日射しに燦燦と焼かれる白石の床を、黒衣に身を包んだ細身の影が進んで神殿の中へと入っていく。

 フードの付いた大きな上着に、身体の至る箇所をベルトで留められたタイトな服。内側の服には手や足の部分に装甲が施されており、それが戦闘服であると分かる。

 その人物は神殿の一階部分に広がる祭壇の間へと足を運ぶ。内部には同じような黒衣で統一された人々が列を成して待機しており、どうやら誰かを待っているらしい。

 後から入ってきた黒衣は部屋の最奥に設けられた祭壇へと上り、すっと顔を上げる。その顔は安楽に満ちた表情を浮かべる、骸骨のように痩せた髭面の老人を模した銀色の面で覆われていた。

「真理など無い。神は全てを赦している」骸骨翁面はくぐもった声で諳んじる。「これより我等アサシン教団は、神殿騎士団との共同作戦を開始する。我々の悲願である『星の贖罪』計画は、これより最終フェーズへと移行する運びとなった。我等の神に恥じぬ戦いを捧げようではないか!」

「真理など無い。神は全てを赦している!」

「真理など無い。神は全てを赦している!」

「真理など無い。神は全てを赦している!」

 アサシン教団を名乗る集団の顔には喜びの笑みを浮かべる青年の銀面が輝き、不気味な光景を生み出している。その先頭に立つ悲哀に満ちた表情の翁面は、彼等を代表して一歩前へと歩み出た。

山の老人アルジェバル、我々の準備は既に整っております。何なりとご命令を」くぐもってはいるが、女の声だ。

 山の老人アルジェバルと呼ばれた骸骨翁面は、女の声に頷く。

「『星に愛された少女』は、もう間もなくこの聖地へとやって来るだろう。我々アサシン教団は、その捕獲任務を受け持つ事となった。この場に集う上級信徒レフィク達よ。今日の為に練り上げてきた我等の秘術を用い、生かしたまま『星に愛された少女』とその王を捕らえるのだ」

 山の老人アルジェバルは、静寂の中で彼の言葉を待つ信徒達を見渡す。

天上羅針ヘヴンコンパスに導かれ、明日の生誕祭に我等の願望は成就する。この世界を我等の闇で暗殺し、永遠の安楽を手に入れる時がやってきたのだ!」

「真理など無い。神は全てを赦している!」

「真理など無い。神は全てを赦している!」

「真理など無い。神は全てを赦している!」

 祭壇の間が信徒たちの詠唱で満たされる。山の老人アルジェバルの面には、満足そうな笑みが張り付くばかりである。

 その背後に、薔薇色の軍服を着た男が歩いてくる。ぎょろりとした眼に、こけた頬の老人だ。威厳のある髭を生やした風貌は、周囲に威圧感を放っている。

「兵隊共の準備は万端のようだな。バルタザール子爵。……計画の失敗は許されんぞ」老人の顔は穏やかだが、言葉には隠し切れない険が籠っている。

 老人は山の老人アルジェバルの事を、バルタザールという名で呼んだ。

「分かっていますよ。コジモ・メディチ伯爵。……ところで、先程の任務で一族の一人が戦死なされたそうですが?」

 バルタザールの指摘に、老伯爵のコジモは鼻を鳴らす。

「分家の下品な女の事などどうでもよい。それよりも重要なのは、君がワシに約束した『永遠の命』だよ。不老不死の秘薬を求め続けてきた我々メディチ家の大願を、ワシの代で成就させるのだ。その為に一族の秘宝であるすらも、君に提供したのだからな。ワシが不老不死になり一族に永遠の繁栄をもたらせば、死んだ分家の女の命も無駄にはなるまいて」

 醜悪に笑うコジモに、バルタザールは作った笑い声を返す。

「心配なされずとも、計画は必ず成功しますよ。伯爵こそ、永遠の命を得るに相応しい誠の王ですから」

 伯爵は満足そうに頷き、祭壇の間を後にする。バルタザールは一言、「……汚らわしい人間め」と呟いた。

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