第三話 開幕のベル 前編

 フランチェスカの繰り出すヘビは一四キュビット約七メートル程も伸び、水の壁を掻い潜ろうと迫ってくる。

 ボクは流水の勢いで身体を高速機動させ、毒牙を躱しながら思考を巡らせた。今やるべきは、敵の持つ謎の術式アルス:魔眼とやらの解明だ。此方の動きを封じてくる術の解除方法さえ分かれば、キザイアを解放して再び数的有利を取れる。

 既にボクはそのヒントを得ていた。先刻自分が術を掛けられた時、何らかのきっかけで術が自然と解除されたのだ。きっかけはおそらく、フランチェスカがボクに接近した事。だが、術師である彼女の本体が術の対象であるボクに近付きさえしなければよいのであれば、自分から殴り掛かる真似はしない筈だ。推測だが“神秘の炉バーンマ”のような遠距離攻撃でも、拘束は解除されてしまうのだと思う。

「どうしました? 防戦一方でありますねえ。早くしないと、お仲間が“石眼の大蛇アンドロマリウス”に殺されてしまうでありますよ!」

 フランチェスカは此方を挑発しながら、“神秘の炉バーンマ”の連射でボクの移動を制限し、蛇が毒牙を刺し込む機会を伺ってくる。

「エヴァ―ライフの職人達を甘く見ないでください。あんな蛇程度にやられる程、やわな頭脳じゃありませんよ!」精一杯の強がりを返し、余裕を装う。

「本当に可愛くないお子様でありますねえ」

 フランチェスカが三度目の魔眼を切り、跳躍していたボクの身体が空中で静止する。その時間を使って彼女は余裕たっぷりに印を結び、床に黄金の円環を叩きつけた。

「“喚起術アニマ九頭竜の呼び声メドウサ”!」

 裂けた床石から九匹の大蛇が伸び上がり、毒牙を殺到させる。敵の術式アルスが恐ろしいのは、自分の視線も動かせなくなるところだ。こうして視界の外から物量任せの攻撃を仕掛けられれば、たとえ直前で拘束が解けても対応はまず間に合わない。

 再び身体が動いた頃には、既に無数の蛇の顎がボクへと迫っていた。

「小生の最強術であります! もう何処にも逃げ場はありませんよお!」勝ち誇った声で叫ぶフランチェスカの眼前で、ボクは白衣の内側に隠し持っていたアゾット剣を取り出した。その柄にはめられた赤い宝石を、ボクはかちりと捻る。

「同期完了――自動オペレーション開始」

 ボクの握る刀身は巨大化し、人間が振り回すには余りに巨大なサイズへと変化する。これが鉄学者の武器:アゾット剣。柄の宝石を捻るか、刃に衝撃を加える事で内部に仕込まれた術式アルスが作動し、印を結ばずとも術を発動できる。

 ボクの掲げる巨大なアゾット剣は背後の水乙女によって握られ、四方の蛇達を一刀の下に斬り掃う。ぼとぼとと落ちる首と血の雨を浴び、ボクは固まっているフランチェスカの目を見返した。

「お前は鉄学者の戦い方を知らなさ過ぎます。自分の力だけを過信して相手を見ないのであれば、何も見えていないのと同じですよ」

「何ですと……? 一度攻撃を見切った位で図に乗らないでもらいましょうか!」

 フランチェスカがウインクをしようとした刹那、ボクは両の手を打って水の柱を天上へと噴き上げる。その後一瞬体が硬直したが、それは殆ど意識に登らない程微かなものだった。

「能力が発動しない……? そんな馬鹿な!」

 狼狽えるフランチェスカの顔面を、ボクの鉄拳が貫いてぶっ飛ばす。床を転がって目を開いた彼女の頭上には、覆い被さるキザイアの姿があった。

「空間ごと凍結させる術式アルスとはやってくれたねぇ。うちの天才っ子がいなかったら危なかったよ。この礼は拳一発じゃ足りないからね!」

 振り下ろされたキザイアの拳に対し、フランチェスカは懐から何かを取り出す。すると彼女の姿が瞬時に掻き消え、キザイアの剛拳が床石を砕いた。

 割れた床石の上には、ひしゃげた写真が残されている。

「いやはやまったく……。魔女というのはどいつもこいつもゴリラ揃いで恐ろしいでありますねえ」

 フランチェスカはいつの間にか、開放研究室に残っていた長椅子に悠々と腰掛けていた。

「なるほど。それがお前の能力の正体でしたか」

 ボクは、その紙切れに心当たりがあった。フランチェスカが最初にボク達へ見せた、部下に撮らせたという証拠写真だ。

「『写真を撮る』のが、お前の術式アルスの骨子でしょう。差し詰め、『写真に収めた被写体を固定する能力』ってところですか」

 だが固定できるのはあくまで被写体のみだ。裏を返せば、被写体となった空間と写真に写った光景は同一である必要がある。故に被写体以外の目に見える物体が固定されている空間内に入り込むと、術式アルスは解除されてしまう。だから天井へ水を撒き、常に部屋中へ雫が落ちる状態にしてやれば、被写体を固定する能力は機能しなくなるという訳だ。

「そしてもう一つが、『写真に収めた空間へと移動する』能力。まさかキザイアさん以外にも、空間跳躍の使い手がいるとは思いませんでした」

 ボクの指摘に、フランチェスカは冷笑を浮かべる。それは余裕の表れだ。

「よもや小生の“独断バジリスク”と“偏見コカトリス”がこうも早く看破されてしまうとは。ですが“偏見コカトリス”の空間跳躍は、ネタが割れた所で問題など無いのでありますよ!」

 フランチェスカはウインクをし、新たな写真を手の内へと錬成する。そして、写真の中へと吸い込まれていった。一瞬の後に、毒蛇を腕に纏わせて、彼女が躍り掛かってくる。

 その動きを、ボクは完全に見切っていた。流水の勢いで放たれる裏拳が、フランチェスカの右胸を捉える。肺腑を叩かれた彼女は「がふっ!」と悲鳴を上げて吐血し、宙を舞って床石へと叩き付けられた。

「な、何故……。完全に死角からの一撃だったのに……!」

「――証明完了クオド・エラト・デモン

 ボクはマケドニアの故事成語を呟き、倒れるフランチェスカの喉元にアゾット剣を突き付ける。

 古来、術式アルスの解明は悪魔による観測を以て完了されるとされてきた。その慣習に則り、ボクは相手の術式アルスを看破した時、この台詞で勝利を宣言する。

「残念ですが、ボクに死角はありません。“アルキメデスの螺旋ウンディーネ”に映った光学情報は、全てボクの目へとフィードバックされています。水占いも、ボクの得意分野ですので」

「う、占い? そんな子供騙しに小生が……!」

「お前如きを騙すのなんて、子供を相手にするより簡単ですが?」

 フランチェスカの首を掻き切るべく、アゾット剣に力を籠める。

「お前は此処で始末させてもらいます。召喚術ネクロは術師が死ぬと、連動して消滅する。あんな化け物をわざわざ相手する必要は無いんですよ。自分の実力を過信して、別個に戦ったのは失敗でしたね」

「ひひ……! ならばお望み通りに致しましょう!」

 彼女の身体は隠し持っていた写真の中へと吸い込まれていく。その場に残されたのは、最初にボク達へと見せた地下食堂の写真だった。

「しまった! あいつ、黙示録の獣テリオンと合流する気ですよ!」

 ボクは地下へと走り出す。空間跳躍持ちの敵を相手に、抑え込んだ気になったのは失敗だった。

「アルカ、焦るんじゃないよ。見たところ、写真の空間跳躍は一方通行だ。もうそう遠くへは逃げられない筈さね。黙示録の獣テリオンとあの騎士を分断して、今度こそ仕留めるよ!」

 二人で階下へ続く階段に突入しようとしたその時、背後で床石の爆ぜる音が響く。咄嗟に振り返ると、そこには巨大な人間の腕が床を突き破って伸びていた。腕は大きな鱗で覆われており、最早竜と形容した方が相応しい威容を誇る。

「嘘……!」思わず喉の奥から悲鳴が漏れた。

 その恐怖に応えるかのように、厚い石の床を容易く突き破り、元の何倍にも大きくなったフランチェスカの上半身が姿を現したのだ。全身の衣服は千切れ飛び、一糸纏わぬ姿で彼女の巨体が這いずり出てくる。

 その下半身は、人間の脚から大蛇の胴体へと変貌していた。咆哮するフランチェスカの側頭部からは、“石眼の大蛇アンドロマリウス”のものと同じ形状の双角が生えている。

「素晴らしい……。これが小生でありますか! 全身に力が漲ってくる。脱皮して生まれ変わった気分でありますよ!」

 フランチェスカがばしんと印を結ぶと、全身の鱗が剥がれて逆立っていく。

「“運動術キネス鱗手裏剣クリュサオル!”」

 一個一個が短剣同然の刃渡りを持つ鱗が全方位に降り注ぎ、床石へと突き刺さる。閃光にも等しい運動の爆発はボクの肩口を切り裂き、鮮血と共に後方へと押し倒した。鱗が巨大化しているだけではなく、それを射出できるだけの莫大な運動エネルギーを錬り出せるようになっている。

「通常では考えられない量の燈を行使できる……。これが黙示録の獣テリオンの力! そして獣の力を人の身に宿す、究極召喚術:緋色の忌冠ベイバロンであります!」

 フランチェスカは“石眼の大蛇アンドロマリウス”をその身に吸収したのだ。召喚術ネクロの根幹であり、この世に魂を召喚する黄金の円環。その真の機能は、複数の魂を一つに結び付ける事にある。つまりはボクが王と結ぼうとした、戴冠の契約である。その力を利用し、騎士達は人間と黙示録の獣テリオンを完全に融合させる術を生み出していた。

「アルカ……あんただけでも逃げな」キザイアはそう言って、ネズミの形をした金属生命体を錬成する。

 これが“ネズミ穴ブラウン・ジェンキン”の本体。このネズミが空間に開けた目に見えない穴を潜る事で、空間転移ができるのだ。

「あたしが時間を稼ぐ。穴はギルドの外まで繋げておいたから、アルカは他のギルドで身を隠すんだ。ウィッチドリームのギルマンなら匿ってくれるよ」

 そう告げるキザイアは脇腹に鱗を受け、最早戦闘不能の傷を負っていた。

「そんな……。ボク、キザイアさんを置いてなんて行けません」

「だからって、此処で二人で死ぬ気かい? あたしはそんな事の為にアルカの世話を焼いてきた訳じゃないさね」

 キザイアはボクを言葉で突き放して印を結ぶ。

「“召喚術ネクロネズミの王イーヴィル・クラウン”!」

 彼女を背に乗せる形で現れたのは、尻尾の部分で放射線状に融合した七匹の大ネズミである。王を擁かない術師にとって、最大の切り札である召喚獣エイドロン喚起術アニマによって生み出される生物があくまで術師の力の一部であるのとは違い、召喚術ネクロによって異界からの強大な魂を招来して作り出す召喚獣エイドロンは、固有の魂と膨大な燈を内包している。

 ネズミの王イーヴィル・クラウンは甲高く咆哮し、敵に飛び掛かっていく。その衝突を、ボクは黙って見ている事しかできなかった。

 自分達を体躯で圧倒するフランチェスカへと“ネズミの王イーヴィル・クラウン”は群がり、鱗が剥がれて防御の薄くなった肉に食らいつく。その牙は特別な力を持たず、純粋に獣としての膂力を戦力とする、単純この上ない術式アルスだ。

 相手が人間の術師であれば七つの口に食い殺されて終わりだろうが、フランチェスカは肉を裂かれながらもまるで動じる様子が無い。腕で一匹ずつネズミの胴を鷲掴みにしては、片腕の握力の身で背骨を圧し折って無力化していく。

 大した時間稼ぎにすらなっていないのは明白だ。このまま戦いを見守っていれば、ボクもキザイアも殺されるのは時間の問題だろう。

 それでもなおキザイアを置いて行けないと言うのなら、ボクは今すぐ立ち上がって彼女の傍を歩くべきなのに。ボクの身体は起き上がる事さえしようとしない。

 ボクは自分の安堵に気付いていた。できる事なら、このままやり過ごせないものだろうか。奇跡が起きて、キザイアが敵を倒してくれはしないだろうか。……ああ。ボクは卑怯者だ。こんな時でも頭の中を駆け巡るのは「死にたくない」という思いばっかりで、ギルドの仲間が自分に託してくれた期待だとか、キザイアの親心なんてこれっぽっちも頭に入ってこない。

 全部、あの王の言う通りだ。ボクの願いなんて、最果てへ掲げるに値しない。何処までも自己中心的で、閉鎖的で、世界の全てなんてものとは天と地程も遠い。それでも尚、ボクはこの夢に意地汚くしがみ付いてしまうのだ。だって死ぬのは恐ろしい。死ねば全てが終わってしまうという事を、から。


「誰か……ボクを助けて……!」


 小さな鳴き声がボクの孤独な世界に響いた時、地の底から轟音を上げて巨大な勇者は現れた。

 その全身には二律背反の統合を表す太陽と月の紋章が刻まれ、真っ白な長い髪は背中で二房に結わえられて、大きな背中で太鼓を鳴らすかの如く踊る。太陽色の肌は巻き上がる瓦礫を鋼の甲冑同然に弾き、蒼天から差し込む光を浴びて黄金のように眩しかった。太い脚がボクの眼前で大地を踏みしめ、周囲の瓦礫が彼に代わって盛大な足音を鳴らす。

 王はボクを振り返ると、歯をにっと剥き不敵に笑った。

「無様な姿だな、アルカ。そんな姿勢で乃公の臣下を名乗る気か?」

「な、何でお前が……!」

 間違いなく、自分の手で殺した筈なのに。まさかイスカンダルの燈の力も無しに、自力で復活したとでもいうのか!

「憶えておけ。王とは気まぐれなものだとな。……二度も死ねば気が変わったわ。アルカの言う通り、死とはあまり心地のよいものではないな」そして、王は地を這うボクに向かって力強く手を伸ばす。「乃公の王国で永遠を享受したくば、この手を取るがいい。そして、最果てへと導いてみせろ」

 両の目から、堰を切って涙が溢れる。だがそれを拭う事すら忘れ、ボクは立ち上がって王の手を握った。

「気付くのが遅いんですよ、このおバカ!」

「ふん、相変わらず生意気な女だ。だが好い。無礼を知らぬは猫の性よ。膝の上で存分に愛でてやろうぞ」

 繋いでいた手を王から離すと、胸の前で印を結んでいく。全てを包む風から原初へと続く火へ。世界を巡る水から永久に崩れぬ土へ。そして、完全なる円環を成す究極の黄金へ。第五の印は円の軌跡から黄金の炎となって立ち昇り、契約の冠となる。

「“召喚術ネクロ戴冠の契約アルス・マグナ”」

 ボクはそれを頭上へと掲げ、頭を下げた王へと被せる。殺戮に熱中していたフランチェスカもその事態にようやく気が付き、此方へと身体を向けた。

「小賢しい真似を……。ですが最早、貴女達が魔女である証拠など不要。疑わしき者は全て小生の独断と偏見により処刑するのであります!」

 フランチェスカが印を結ぶと同時に彼女の下半身が蠕動し、発条バネ仕掛けの如く肉の槍となって二人の異端者を飲み込まんとする。周囲の景色がゆっくりに感じる勢いで迫る目前の死に対し、王は笑みを浮かべたまま、炎が燃えた目で悠々と睨み返した。

「ふざけた大きさの蛇だな。この世界の鶏は余程栄養があると見える」

 そして王は拳を振り被り――術師の叡智も騎士の神秘も、その一切を下らぬものだと笑い捨てるかの如く、横薙ぎの殴打でフランチェスカの頸を直角に叩き折ってぶっ飛ばしたのだ。哀れな獣は潰れた頭蓋から床石に突っ込み、踏みつぶされた虫のように痙攣する。

「この乃公を前に頭が高いわ! その邪魔な図体で息をしていたくば、呼吸の味が土と同じになるまで精々這いつくばれ!」

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