第84話 祈り

「送気代わるわ、ライナ」


 リオにそう言われてライナは送気バッグをリオに渡した。

 リオの前世の世界であればここからあとは人工呼吸器につなぐところだが、リオはさすがに人工呼吸器までは作れていなかった。

 つまり手動で空気を送り続けなければならないのだ。

 だが、最大の問題はそこではなかった。


 あと、酸素さえあれば……


 元の世界の病院では、酸素配管をから大量の酸素を使うことができ、それを挿管チューブを通して肺に送り込むことができた。

 だが、この世界では酸素配管など夢のまた夢だった。

 二酸化マンガンと過酸化水素水から酸素を作り出すところまでは成功していたが少量に過ぎない。

 人間が1分間に呼吸する空気量は30リットルと言われている。

 通常の環境で吸う空気中の酸素濃度は21%だが、気管挿管-人工呼吸器を要するほどの重症呼吸不全の患者では100%を要することも少なくない。

 酸素濃度100%で人工呼吸を行うということは最低でも1分間30リットルの酸素を要し、それが何時間、何日ともなればとんでもない量であり、実験室レベルではとても追いつかず、工場を作って工業的に生成しなければならない。

 またそんな量の酸素を保存・輸送する技術もこの世界のこの時代では非現実的だった。


 挿管後、送気バッグでずっと換気を続けてはいるが、シャマルの唇や指先は紫色のままだった。

 この所見はチアノーゼといって低酸素血症の兆候である。

 つまり、シャマルの体は低酸素状態から未だ脱していないのだ。


 酸素が使えない以上、換気を繰り返して常に新鮮な空気を送り込むしかない……

 ARDSの治療セオリーからは外れるけど、過換気にするしかない……

 人工呼吸器もないからPEEP(呼気終末陽圧)も使えないけど、脱気をゆっくりにして少しでも圧をかけて……


 リオは必死に思考をめぐらし、今あるものでなんとかシャマルの体に酸素を送り込もうととしている。


 そんなリオにライナは静かに問いかけた。


「ここからあと……どうするんですか?」


 単なる質問だった。

 今まで挿管の練習はしてきたが実践は初めてなので、ここからどういう風に事が進んでいくのかライナにはわからなかったのだ。

 だが、「これからどうするのか?」という言葉はリオの心に重くのしかかった。


 どうしたらいいのか……

 私にもわからない……


 医療技術が発達した元の世界でも戦いかねていた難病に、十分な武器も持たされずに挑まなければならないのだ。


 リオは祈った。

 この世界に来て初めて神に祈った。

 いや、もしかすると前世の31年間を含めても、合理主義のリオが神に祈ったのは今が初めてかもれない。


 医の神アポロンでも、アスクレピオスでも、誰でもいい!!

 なんだったらこの世界の神様でもかまわない!!

 この人を……

 私の患者を助けて……



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転生白魔術師の異世界医学革命 (旧題:ヴェサリウスの鎮魂花) 阿々 亜 @self-actualization

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