第83話 挿管

 ヘルメス伯爵の滞在先は幸いにもルクレール家からそれほど遠くなく、ライナが馬を全力で飛ばして30分ほどで器材を取って戻ってきた。


 器材が届くまでの間に、シャマルの手にリオが点滴を入れていた。


 ベッドをシャマルの体ごと動かして、頭側に狭いながらスペースを作り、リオはそこに入りこんだ。

 ベッドサイドには使う器材が広げられている。

 喉頭鏡、気管挿管チューブ、バックバルブマスク、注射器……


 リオの前世の世界の物には及ばないが、機能的にはかなり近いものになっていた。

 いずれも、ヘルメス伯爵をはじめこの世界で運良く巡り合った職人や技術者たちの協力の賜物であった。


 全ての準備が整い、リオはベッドサイドに立っているライナと視線を合わせた。


「いくわよ……」


「うす……」


 気管挿管を行うにあたって、患者の苦痛を少しでも軽減するよう鎮静を行う必要がある。

 リオはこの世界での鎮静にエーテルという揮発性の液体を採用していた。

 エーテルはリオの前世の世界でも全身麻酔の黎明期に使用されていた薬剤で、1846年にアメリカで初めて使用された。

 黎明期の麻酔学を支えた薬剤ではあるが、引火性があるためリオの時代にはもう使われていなかった。

 しかしながら、硫酸とエチルアルコールから生成できることから、この世界でも比較的に容易に作り出すことができたため、リオはこのエーテルを採用したのだった。


 リオの用意したエーテルは細口のガラス瓶に入っており、その細口に太めのチューブが繋がっていた。

 チューブの出口はマスク状になっており、リオはそのマスクをシャマルの口に当て、気化したエーテルを少しずつ吸わせていった。


 数分後、リオは指でシャマルの睫毛に触れた。

 覚醒状態であれば、睫毛反射という瞼が動く反応があるが、鎮静下ではこの睫毛反射が消失する。

 リオが指で触ってもシャマルの瞼は動かなかった。


 睫毛反射が消えてる……

 鎮静は十分にかかってる……


 リオは枕脇に置いていた喉頭鏡を手にとり、先端をシャマルの口腔内に挿入し中を観察する。


 元の世界では何十回も挿管した……

 この世界来てからも人形を使って何百回と練習してきた……

 絶対に失敗しない……


 そう念じながら喉頭鏡の先端を微調整し、喉の奥まで視野を確保する。


「声帯確認。挿管チューブ」


 リオは前世でそうしていたように、落ち着いた声を発する。

 何百回と一緒に練習してきたライナが阿吽の呼吸で挿管チューブをリオの右手に渡す。

 リオはするするとチューブを喉の奥に進めいていく。


「声帯通過。スタイレット抜去」


 リオの指示でライナが挿管チューブの中に入っていた金属製の芯を取り除く。


「カフ注入」


 挿管チューブの脇にはさらに細いチューブがつながっており、挿管チューブの先端の風船に繋がっている。

 この細いチューブに注射器で空気を通すことで、風船が膨らみ挿管チューブが気管内に固定されるのだ。


「バックバルブマスクをつないで送気」


 バックバルブマスクとは要は肺に空気を送り込む袋である。

 袋の出入り口にはバルブ(弁)が付いており、空気が上手く入れ替わるようにできている。

 ライナがバックバルブマスクを挿管チューブにつないで軽く力を入れて袋を潰すと、空気が肺に送り込まれ、シャマルの両胸が上がった。

 ライナが送気を繰り返している間に、リオは聴診器を耳に入れ胸部の聴診を行う。


「胃泡音なし、前胸部左右差なし、側胸部左右差なし」


 挿管チューブが目的の気管に入っていることを確認したあと、革製の固定具でチューブを固定した。


 この世界初の気管挿管の成功であったが、リオには喜ぶ間はなかった。


 問題はここからだ……



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