石田まどかはカフェを出た後自宅へと急いだ。夕食の下ごしらえは昨日のうちに済ませておいたが、逸る気持ちがまどかの足を急がせた。

 玄関を開けると中は暗く、まだ夫である幸次こうじが帰っていなかった。今日も浮気をして帰ってくるんだろうかとまどかの心は崩壊寸前だったが、終わりのない絶望のゴールはもうすぐだ。そのことが、今のまどかを動かす唯一の原動力となった。

 まどかは早速キッチンに立ち、夕食の準備に取り掛かった。今日くらいは、と自分の好物ばかりを作った。まどかの好物は幸次の口には合わないらしく、今までも食卓に並べては大きなため息をつかれたものだ。

 唯一、一品だけ幸次の好物を作った。味の濃い唐揚げだ。いつもは大皿で出すが、今日はきちんと分けた。当然だ、まどかが睡眠薬を盛った唐揚げを食べないためには。


「ただいまー」

 如何にも帰宅を渋る声が聴こえたのは20時ごろ。最近にしては早いほうだった。いつもは浮気相手といちゃついてからの帰宅であるため、こんな夕食時の帰宅は珍しかった。

「おかえりなさい、今日は早いですね。先にお風呂に入りますか?」

 まどかは努めていつも通りを貫く。幸次は舌打ちをした。

「早いって…今日はたまたま早く終われたんだ。お前と違って俺は仕事が忙しいんだ」

 早い帰宅を責められていると感じたのか、幸次はいつにも増して不快感を全面に出した。大方、浮気相手の予定があり、イチャイチャを断られ虫の居所が悪いのだろう。

 幸次は食卓をちらりと見た。

「なんだ、今日は食うものが無いな、俺の食えない物ばかりじゃないか」

 幸次の苛立ちは増しているようだった。

「すみません、私もたまには自分の好きなものを食べたいなと思って…。でもほら。あなたの好きな唐揚げは多めに揚げました、よろしければ私のも食べちゃってください。他のおかずはどうでもいいですし、ビールも冷えてますよ」

 幸次は無言でキッチンの方に歩いていき、冷蔵庫を開けた。ビールはややお高めのものをいつもより多めに用意した。そして冷えたグラスも。沢山飲んでもらえるように、早く睡眠薬が効くように。

「…唐揚げは冷めると旨くないからな。風呂は後にして先に飯にするよ」

 幸次は冷蔵庫から缶ビールを取り出しテーブルまで戻ってくると、スーツを椅子に掛け、ネクタイを緩めどっかりと椅子に座り込んだ。

「ご飯とみそ汁はどうしますか?」

「いるに決まってるだろう!外で頑張ってきた夫に肉だけ食わせる気か!」

 幸次の怒声が飛ぶ。いつものことだった、自分ではやりたいことだけをやる。気を遣えば遣うほど怒鳴られる。うんざりだった。

 まどかは出来るだけ丁寧に米とみそ汁を盛り静かにテーブルに置く。そして冷えたグラスにビールをついだ。

「お、今日は気が利くな。いつもそれが出来ればいいんだけどな」

 いつにも増して、幸次の言葉が荒い紙やすりのようにまどかの心を削り取る。まどかは無言で微笑んだ。今は睡眠薬を全てこいつの胃袋に入れるのが先決だった。



 まどかが食事を終えるころ、幸次は椅子にもたれ、のけぞるようにいびきをかいて寝ていた。しばらくは起きないはずだ。この間に準備を済ませてしまうことにした。

 まずは夕飯の片づけをした。食器を洗いテーブルを綺麗に拭いた。そしてそこに夫に宛てた遺書を置いた。

 次に夫をソファに移動させた。脱力した成人男性はかなり重く、ソファに移動させ終わる頃には、まどかの額に汗が滲んだ。幸い、幸次のけたたましいいびきは続いている。まどかは用意していた結束バンドで幸次の手足を縛った。喚かれ、近所の人に見るかるのだけは避けたかったため、幸次の口にはタオルの猿轡を噛ませ、それが外れないように上から粘着テープを張り付けた。いびきが収まり幸次の規則正しい寝息と時計の秒針の音だけが聴こえた。

 後は楽だった。ロープを天井の梁にかけしっかりと結んだ。ちょうど幸次に見えるように、念入りに場所を調整した。そしてその真下に椅子を置いて、準備は終了した。




「…?ん、んん?」

 どうやら幸次が起きたらしい。まどかは読んでいた本を閉じた。

「おはようございます。ずいぶんとお眠りでしたね、もう日も高くなりましたよ」

 時計は9時を指していた。幸次は訳が分からないといった風に目を泳がせる。そして見上げて、状況が分かったようだった。

「日頃の疲れが溜まっていたんでしょう。私から会社には電話をしました。著しく体調を崩したので2、3日お休みしますと」

 幸次の顔が徐々に青ざめる。無言のまま、首を横に振り続ける。幸次の目線は微動だにしないロープに注がれている。

「ああ、心配しなくても、あなたに使う物じゃないですよ。私に使うんですから」

 幸次の目が見開かれる。理解できないといった風だ。まどかは幸次の横に座った。

「ねぇ、あなた。私がどんなにあなたに傷つけられたか、あなたはどうすればわかってくれる?言葉で訴えてもダメ、探偵を雇って写真を見せてもダメ、お義父さん、お義母さんに頼ってもダメ。私はどうすれば良かったの?」

 幸次はまどかから必死で逃げようとするが、手足を拘束され、フカフカのソファの上は思うように身動きが取れないらしい。せめてもと身体をのけぞらせ、まどかから遠ざかろうと必死だった。

「私ね、あなたの口から『ごめん』の一言があれば、それだけあれば十分だったの。私はあなたが好きだから、それだけで許そうと思ってたのに。あなたはそれすら、私にくれなかった。私をどん底まで突き落とした。そして、あなただけがやりたいように生きていられた」

 まどかは思う存分吐き出した。もう気を遣うことはない。

 幸次は相変わらずまどかから遠ざかる。目には恐怖以外の色は無いように見えた。

 まどかは幸次の傍を離れ、ロープの真下に向かった。椅子に足をかけ、ロープに手をかける。幸次の目が見開かれる。首の振りが一層強くなる。

「こうなる前に、何とか、どうにかならなかったのかな。ねえ、どう思う…?まあ、もう遅いけどね。これが私の今まで受けた痛みだよ、人ってね、あんまり痛めつけられると、その痛みに慣れて慣れて、もう死ぬっていう自分にとって一番ひどいこともできるようになっちゃうと思うんだよね。

 …どうすればあなたが、私の痛みをわかってくれるのかずっと考えてたの。で、思いついたの、私が最大にひどいことをしているところを見せてあげればいいんだ、ちゃんと見せてあげなきゃわからないんだと思ったの」

 幸次は涙を流していた。しかし、それはまどかを悼む涙でないことは、なぜだかまどかにはわかってしまった。自分にこの世で一番むごいことを見せつけようとするまどかへの怒り、どうして自分がという自己への哀れみ、まどかの策に嵌るという失態を犯したことへの羞恥がないまぜになったもの。まどかには、そうとしか感じられなかった。

 まどかは輪に首を通した。目線の先には幸次の無様な姿がある。自然と笑みがこぼれてきた。待ちに待った瞬間が訪れるのだ。

「あなた、よく見ててね?これが私の痛みだよ」

 まどかは勢いよく椅子を蹴った。




 それから4日後、出勤してこない幸次を会社の同僚が訪ね、2人は発見された。家は腐臭で溢れ、とても居れたものではなかったという。幸次は生きてはいたが、その口からはまどかへの謝罪が延々漏れ出ていたとかいないとか。



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燎火 蓮村 遼 @hasutera

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