蘭さんは何事もなかったかのようにカウンターに戻ってきて、石田さんのカップを片付け始めた。



 素敵なお別れができますように。



 石田さんは確かにそう言った。

 石田さんはどんな意図で、僕にそんな言葉をくれたのか。



「もう一杯飲みますか、紅茶」

 突如頭の上から声を掛けられ、僕はまたもや小さく飛び上がった。蘭さんがティーポットを持って、カウンターの向こうから話しかけてきた。

「考え込んでたのでどうしようかと思ったんですが、いかがですか?」

「ああ…、じゃあお願いします」

 僕は思ってもないことを言ってしまった。せっかく空にしたカップに、紅茶がまたなみなみと注がれた。

 レコードプレーヤーからの物憂げなクラシック、カップが触れ合う音、衣擦れだけが場を持たせるように空間を埋めた。

 しかしそれにも限界がある。

「あの人、これからどうするんですか?」

 耐えられなくなったのは僕が先だった。蘭さんは作業の手を止め、ゆっくりと僕の方を見る。ふわりと笑い、静かに言葉を口にする。

「どうするって。どうしてそんな事聞くんですか?」

 確かにその通りだ。会って数分程度の付き合いの、見ず知らずの女性のこれからが気になるなんてちょっと変だったかもしれない。ましてや本人じゃない人に事の行方を聞くなんて。

「い、いや。石田さん、『もう会えないけど』なんて言ってたんで、もうここには来ないのかなって思っただけで…別に深い意味はなくて」

 なぜか僕はどきまぎしてしまった。蘭さんは、うんうんと頷きながら僕の言葉に傾聴してくれる。

 数秒してから、蘭さんは素敵な笑顔をそのままに言い放った。



「彼女はね、これから自殺するの」



 言葉の意味を理解できず、僕はただ聴こえてくる音を聴いていた。そのおかしさに気づくのには時間がかかった。

「自殺…ですか?」

「そう。彼女ね、旦那さんに浮気されていたんですって。でも旦那さんはそれを認めないし、義両親にも、たしか、『そういう原因を作ったお前が悪い!』だったっけな?そう言われたそうです」

 蘭さんは至って世間話をするように言葉を音に乗せる。それが心地よくて、うっかり聴き入ってしまいそうだった。そして彼女はさらに続けた。

「旦那さんのスマホを見て、探偵に頼んで浮気の証拠を揃えて、旦那さんと話し合って。彼女なりに手は尽くしたみたいでしたけど、旦那さんは開き直ったそうですよ。『お前に魅力がなくなったのが悪い。もう女として見れないんだから、ほかに魅力的な女がいればそっちに行くに決まってる』って。

 石田さんがうちを訪れた時にはもう、覚悟はできていたみたいでした。もう戦えない、終わりにしたい…と」

「蘭さんは止めなかったんですか?その、自殺を」

 不謹慎極まりないが、僕は続きが早く聞きたくて蘭さんを急かした。

「もちろん、止めませんでしたよ。自分の生死を自分で選べることは、最大の自己決定であり、その覚悟は称賛に値する美しいものですから。でも、これだけは申し上げたんです、『旦那さんはどうするんですか』と」

 紅茶はどんどん冷めていったが、今は耳障りなカップのガチャつきや自分の嚥下の音で蘭さんの話が一言でも聞き取れなくなることだけは避けなくてはならなかった。

「石田さんは迷っていました。旦那さんのことは許したくない、けど自分の心の傷はわかって欲しいと、わかってもらってから本当にお別れがしたいと。

 そのお話を聞いて、私は良いことをひらめいたんです。

 傷ついた側だけが、自殺するという傷をさらに負って苦しむ必要なんてありません。傷つけた側は、その痛みを知る義務があると思うんです。

 だから石田さんには、こう提案したんです」

『石田さん、石田さんの気持ち、よくわかります。だから…』




『旦那さんの目の前で死んでやりましょう?』









 

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