第55話
「あなたの母親は、事件発生後すぐに行方を
「そ、そんなはずない。だってあの、真面目な母さんがいなくなるなんて」
「その真面目さこそ、全ての原因な気もしますがね」
男は鼻で笑うとリモコンを操作し、モニターは一つの記事を映し出す。どこかのゴシップ誌だろうか。派手な見出しが
「この手のメディアはあまり信用出来ないのですが、資料として参考程度にはなるかと思いましてね」
その記事は、事件の原因を母親に求め責め立てるものだった。どこから情報を仕入れたのか、“毎日勉強漬け!? 容疑者は遊びの時間すら与えられず”とか、“脅威のモンスターペアレント! 友人のゲーム機を無残に破壊”などと、私生活に関する内容が飛び交っている。
「学歴にコンプレックスがあった母親は、あなたに勉強ばかりさせていたようで、宿題に加えて独自の課題を山積みで与えていた。時間内に終わらないと罰として夕食なし、成績が少しでも落ちたら
「じゃあ、母さんが原因だって言いたいのか?」
「全部がそうとは限りませんが、この異常さからして、一因になったのは確実でしょう。結局、バッシングを受ける前に行方不明になってしまい、母親本人がどう思っているかは知りませんが」
明かされていく真実に、目の焦点が定まらない。呼吸が浅く乱れていく。
病気も、仲間も、母親も。
自分が本当だと信じてきたものは、全て頭の中で勝手に作り出した妄想の産物だと言うのか。都合良く記憶を
頭が痛む。
脳細胞があちこちで火花を散らし、経験してきた出来事の記録が入り乱れている。そのどれもが大事な思い出のはずなのに、ノイズがかかって鮮明に映し出せない。どれが本物でどれが偽物なのか、自身の記憶なのに真偽の判別がつかなかった。
何一つ覚えていない。
だが、事件の記事や報道はいくらでもある。
言われてみると、子供達を刺した感触も蘇ってくる。
彼の言う通り、自分は記憶喪失の殺人犯なのだろうか?
「も、もし仮に、ぼ、僕が本当に事件を起こしたとして、それは正義のためにやったことなんでしょ?」
「そうですよ。ただ実際のところ全て思い込み、自称神のお告げだそうで。襲われた子供達も保育園自体も、至って普通で何も非がなかったのですがね」
「神のお告げとか、そ、そんな幻聴聞いたことないし」
「でしょうね。担当医師の投薬治療で症状は治まっているようですし、関係も良好で“凶悪事件の犯人だなんて信じられないほど改善が見られた”と評されていますから」
「じゃあ――」
「だからといって、犠牲者や遺族の無念は消えないんですよ」
男は言い訳を許さず、取り付く島もない。
「で、でも事件の原因は幻聴。病気で善悪の区別がつかなかったからじゃないか。思い込みで起きた不幸な出来事。確かに幼児を何人も殺すのはおかしいけど、それは全部病気のせいで――」
「病気だから、何をしてもいいということですか?」
「じ、実際に刑事責任は問えない。責任能力はないって判断されて措置入院になったんでしょ? だったらそれは許されたってことで、外野がとやかく口出しするのは――」
「そういう考えが、我々の理念を生み出したんですよっ!」
だんっ、と男は床を思い切り踏みつける。
ずっと朗々と話していたのに急転直下、突如烈火の如く憤った。
「あなた達は誰も彼もそうやって自己を正当化する! 病気だから女性だから子供だから弱者だから権力者の家系だから! そんな下らない理由で許されて、その陰で泣き寝入りするのはいつも善良な市民ばかり! どうして普通に生きているだけなのに、道を外れた者の煽りを受けなければならないのか! 間違っているのは正しくあろうとしない社会の方だ! なのに変えようとする者はいない。いや違う。いたとしても強大な圧力に踏み潰される一方なんだ! 故に私達は立ち上がった。真の正義を世に知らしめるために! これまで
まるで選挙演説のように、自身の思想を
言い切った後、わずかな静寂を挟み、割れんばかりの拍手が巻き起こった。スタンディングオベーション。能面顔の人々は立ち上がり、一心不乱に手を叩いている。
異常だ。まるでカルト宗教。狂った正義を疑いなく振り回す者ばかりで埋め尽くされている。
「結局、お前達だって同じ穴の
常識が通じない空間に飲み込まれぬよう、安路は張りぼての正義に反論する。
彼らのやっていることは、法に逆らう行為でしかない。いくら正義のためと
「一緒にしないで下さい。そちらはありもしない幻聴、私達は思いを共有し合う同志なんですから」
だが、矛盾点を指摘しても聞き入れようとしない。
意見が真っ向から対立して、建設的な会話が成り立たないのだ。
特定の思想に傾倒すると、自分こそ正しいと思い込み、他者の意見を全面的に拒否する。その典型的な例だ。
「結局お前達は、自分の意見が通らない世界が嫌で、単純に
追撃に叫ぶ。
彼らの語る正義がいかに幼稚で世間とずれているか、糾弾する言葉を投げかける。
「……そう、ですね」
その時、空気が変わった。
白熱する論戦に
「あなたの言い分も、認めてあげますよ」
「ぐぶっ!?」
次に見えたのはコンクリートの床。ひんやりとした平面に顔面から叩きつけられる。鼻の奥から生温かい液体がどろりと
殴られたのだ。
男が暴力に訴えてきた。矛盾と本性を否定しきれず、苦し紛れに黙らせるつもりなのだ。
やはり、彼らの正義とはこの程度のもの。善良と言いつつ最終的に暴力でしか解決出来ない。口先だけの異常者集団でしかないようだ。
しかし、これは大問題。
デスゲームの勝利も反故にして、殴り殺そうとしかねない。
角突き合わせている場合ではないだろう。どうにか切り抜けて、別の抜け道を探すべきだ。出入り口は絶対にあるはず。希望はまだある。
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