第54話
「少なくとも、あなただけには言われたくないですよ」
男の声色がぐっと低くなる。仮面の目は相変わらず黒い穴だが、奥に潜む瞳から凍えるような視線が注がれている。沸点を超えて
「自分が今まで何をしてきたのか、本当に覚えていないんですね」
呆れ果てたように男は肩を
言っている意味がわからない。何をしてきたと問われても、ずっと入院生活で何もしていない。その生産性のなさこそ自分の罪のはずだ。
「ぼ、僕は――」
「言い訳は、これを見てからにしてもらいましょう」
反論を遮り、男は手にしたリモコンをモニターへ向ける。ピッと電子音が鳴ると、監視カメラの映像が切り替わり、大きな写真が表示された。それは某全国紙の一面、一大事件を報じる記事だった。
「え……?」
目を疑った。疑わざるを得なかった。
極太の見出しには“真昼の惨劇、男が保育園を襲撃”というショッキングな文字が躍っている。二○××年五月十二日、不審者男性は白昼堂々保育園に侵入。園舎に火を放ち逃げ場を奪い、凶器の文化包丁で容赦なく子供を突き刺した。死亡した園児は十三名、重傷者は二十名。避難誘導や犯人に対応した保育士も十名が負傷、内二名は病院に搬送された後に死亡が確認された。
弱者を狙った許しがたい凶悪事件だ。
そして現行犯逮捕されたという犯人の名前は、
「僕、なのか?」
朝多安路容疑者、二十一歳、無職。
同姓同名の別人ではない。添付された中学校の卒業アルバムらしいその写真は、間違いなく自分の物である。
そんなはずない、何かの間違いじゃないのか。
小さい頃から入退院の繰り返し。高校生になる頃病状が悪化して、それからずっと病院暮らしのはず。それなのに、何故殺人犯として載っているのだ。
「う、嘘だ」
おかしい、おかしい、おかしい。
自分の記憶とモニターに映る新聞記事。明らかな食い違いからして、どちらかが偽物なのだ。
安路はたまらずガリガリと、頭を激しく引っ
「いいえ、これが真実ですよ」
再び男がリモコンをいじると、新聞記事の代わりにニュース映像が流れ始める。様々なテレビ局の報道番組やワイドショー、現場からの中継やスタジオで語るコメンテーターの姿など。これでもかと情報がどっと押し寄せる。
『――真昼の保育園で園児が襲撃された惨たらしい事件ですが、逮捕された朝多容疑者は“正義のためだ、この保育園で悪人を育てている”などと意味不明なことを
『――小学生時代のクラスメイトに取材したところ、朝多容疑者は度々妄想の世界に浸る癖があったそうで、異常行動も多く見られたとのこと――』
『――警察の発表によると、朝多容疑者は一貫して“内なる神の声に従った”と幻聴と思われる症状を示しており、今後の争点は刑事責任を問えるかどうか――』
『――今回の精神鑑定で責任能力がないとされましたが、これだけ幼い犠牲者を出した以上、社会復帰は難しいのではないかと。それに、事件に関する記憶が一切ないと供述を一転させたことも――』
ピッと電子音がして、映像が一時停止される。
「違う、違う、僕じゃない。全部嘘に決まっている」
「逆ですよ、嘘吐きはあなただ。しかも自分自身さえも騙す、
頭を抱えてうずくまる安路に向けられるのは
「この事件に関しては、これ以上の報道はありませんでした。痛ましい事件故に繰り返し放送しては“不安を助長するだけ”というのが有力な理由ですが、ある説では“特定の病気に対するヘイトスピーチや支援団体からの苦情に繋がるため自粛”なんて、まことしやかに
殺人なんてあり得ない。
しかも幼い子供ばかりを手にかけたなんて。
武器を触ることさえ嫌がった自分が、殺人鬼のはずがない。
必死に否定しているはずなのに、何故か手に感覚が伝わってくる。覚えていない、記憶にないはずの感触。鋭利な刃物で柔らかい肉を突き刺す、ずぷりと押し込むえもいわれぬ心地。経験したはずのない、幼児を刺し殺した記憶が、腕にありありと
本当にしたのか?
覚えていないだけで、子供を殺したことがあるのか?
「違う、違う、そんなはずない! だって僕には、病気を患っていた記憶がある。幼少期から病弱で、不治の病で入院していた記憶があるんだ!」
「でしょうね。妄想癖は子供の頃からあったと報じられていますし、
「同じ病棟には患者仲間がいたんだ。雑学や豆知識の本を貸してくれたし、いっぱい話をした覚えがある!」
「ええ、いましたね。ただ少し
自分の記憶がことごとく否定されていく。
今まで見てきたものが、経験してきたことが、砂上の
「じゃあ母さんは!? 仕事で忙しくて見舞いに来れないみたいだけど、僕の入院費を稼ぐために頑張っているはず。母さんだけは本当のはず、それだけは間違っていない!」
「ああ、行方不明の母親のことですね」
「……は?」
今、何と言った?
「母さんが、行方不明?」
思わず
答えが受け入れられず、安路の思考はぴしりと機能停止する。
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