第47話


「そうですか。なら、いいですよ」


 ふっと、手斧に込められた力が霧散する。春明が手を離したのだ。刃はクロスボウに食い込んだまま、丁字ていじに組み合わさった形を保っている。

 急に攻め手が緩んで面食らってしまう。気持ちが通じたのだろうか。囚人とはいえ同じ人間同士、武力を手放し会話で通じ合える。と、気を許したのが間違いだった。

 春明の胸ポケットから飛び出すのは銀色のきらめき。バタフライナイフがくるりと舞うと、切っ先が獰猛どうもうきばく。


「いぎっ!?」


 油断しきった右肩に、刃がぬるりと滑り込んだ。


「ワタシまだ得物あるですから」


 恍惚こうこつとした笑みで、春明はナイフのグリップをゆっくりひねる。みちみちと傷口を押し広げ、鋭利な痛みが全身を貫いていく。激痛で立っていられない。くずおれた矢先に仰向けで押し倒されてしまう。

 心許ない刃渡りでも、人一人殺すには十分事足りる。むしろ生かさず殺さず怪我を負わせるには、手斧よりも使い勝手が良い。そのため、春明は武器を切り替えたのだ。


「痛いですよね。良いならもう一ついかがでしょう?」

「やめて……――うぐぅっ!?」


 一度ナイフが引き抜かれ、今度は左肩にめり込んだ。白銀の鋭角がずぶりと、皮膚ひふと筋肉をき分ける。

 一方的な試合ワンサイドゲーム。やられ放題だ。

 今すぐ反撃しなくては。

 駆け巡る痛みを食いしばり、脇に転がる鎌へと左手を伸ばす。クロスボウは破壊され、手斧もそれに食い込んだまま。現状唯一使用可能な武器だ。これで抵抗するしかない。農具とはいえ刃物だ。ラッキーパンチで形勢逆転を狙えるかもしれない。

 しかし、もしそれで春明を殺してしまったら?

 これは正当防衛、正義の執行に必要なこと。だが、やり過ぎて殺してしまうのは、過剰防衛と言うのではないか。

 迷いが生じ、柄を掴む直前で手が止まる。そこに、これ幸いとナイフが降りてきて、左のてのひら串刺くしざしにされてしまう。安路の喉から絞り出すような悲鳴が上がった。


「無駄な抵抗良くないです。ワタシはあなたの尻穴犯すたいだけですから、これ以上痛い嫌ですよね?」

「ふ、ざけ、ないで下さい……!」

「真面目な話しているます。天井の染み数えるする間に終わるですから」


 馬乗りの春明はケダモノと変わらぬ形相。欲望を満たすためなら平気で人を踏みにじる外道だ。正しい世界を維持するためにも、生かしてはならない危険人物。脳内では再び「今すぐ殺すべき」「殺処分が妥当だ」という私刑執行の悪意が首をもたげ始めている。

 何度も対話を試みた。共に生き残る道を説き続けてきた。

 それらを全て無下むげにしたのだから、もはや救う意味も価値もない。

 春明は死ぬべき、裁きの鉄槌を下す時。

 過剰防衛でもいい、この場で殺さないといけないのだ。

 覚悟を決めた安路は、無傷な右手で鎌を拾おうとして――ぱんっ、と乾いた破裂音が響いた。フードーコートの中を、くわんくわんと反響していく。

 何の音だろう。

 かんしゃく玉、あるいは風船が割れた音に似ている。

 不思議に首を傾げていると、上からぼたぼた、赤いしずくが滴り落ちてくる。生温かくぬめりを含んだそれは、にわか雨のようにまばらに降って顔を濡らす。


「がっ……あぅあっ?」


 要領を得ないうめき声を漏らし、春明の両腕からすっと力が抜けていく。馬乗りの拘束を解くと千鳥足で立ち上がる。睡魔で船を漕ぐ人のような、おぼつかない足取りだ。握力にも支障をきたしたのか、ナイフも取りこぼしている。

 両手でペタペタと自身の顔を触る春明。彫りの深い顔の凹凸おうとつを確かめるように、大事そうに指先を這わせていく。だが、違和感がある。


「あ、あ?」


 あごの肉が一部えぐれており、そこから赤黒い血がとめどなく溢れているのだ。体の一部が消し飛び、戸惑う春明は右往左往ふらついている。

 何者かの攻撃を受けたのだ。

 心当たりといえば一人しかいないだろう。安路は体を起こし恵流へと目をやる。

 そこには、白煙をくゆらせる塊を握る彼女の姿があった。

 黒光りする筒、五つの穴を持つ円柱、ほのかに薫る火薬臭。

 回転式拳銃リボルバー、ニューナンブM六○。

 かつて日本国内で製造されていた、警察官が使用する拳銃。生産終了した現在でも運用される、由緒正しい銃火器だ。

 何故、恵流がそれを所持しているのか。理由はなんとなく察しがつく。だが、今気にするべき点はそこにあらず。彼女の放った弾丸が春明に命中した、という事実の方が重要だ。


「あがっ、あばだでずがっ、ああっ!」


 顎に強い衝撃を受けて軽い脳震盪のうしんとう。だが、どうにか春明は我に返り、状況を飲み込んだらしい。ボックスステップみたいな足取りながらも恵流へと襲いかかる。が、直後にまた破裂音がして、春明はもんどり打って床に倒れ込む。弾丸は太腿ふとももを撃ち抜き、銃創じゅうそうから間欠泉かんけつせんよろしく血が噴き出す。慌てて止血しようと手で押さえるも、今度は顎の傷を塞げなくなる。両手だけでは足らない。早急に治療するべき重傷を負っていた。


「あーっ、よぐもっ、ああっ、ゆるざばい、いいいっ!」


 必死にわめくが、撃たれた痛みと止まらぬ出血で混乱の極み。何を訴えたいのかわかりかねる。先程までの興に乗じた様子から一変、惨めに取り乱す姿を晒していた。


「いちいちうるさいのよ、この外国人風情が!」


 恵流は容赦ようしゃしない。

 床で藻掻もがき苦しむ春明のかたわらに立つと、その頭部にしっかり狙いを定めて、一発、二発。ほほと右の眼窩がんか石榴ざくろのように割れ、侵入した弾丸は春明の脳を不可逆に破壊。彼の命はいとも簡単にもぎ取られていった。

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