第32話

「う、嘘。死んでいたの?」


 思い出した。

 大学生だった頃。裁判終結後も金欠で援助交際を続けており、見た目最悪の男を殴ってしまった覚えがある。禿げて中年太り、顔もかえるみたいで気持ち悪かった男。殴られて当然のルックスだ。

 しかし逮捕された後、暴行について取り調べは一切なく、死亡したなんて聞いていない。てっきり男が「援助交際を明るみに出してほしくない」と思って黙っているのだ、と解釈していたのだが。

 まさか、あの男が国会議員で、しかもこの手で殺していたなんて。


「明日香さんの罪、わかるましたか?」

「だ、だから何よ。不慮ふりょの事故じゃん。それに事件の改竄とか、政治家と警察が勝手にしたことでしょ。お門違いじゃない」


 強姦冤罪については自分も多少悪いかもしれない。だが、二つ目の冤罪は到底受け入れられない。責める相手は税金泥棒達だろう。権力を濫用らんようし、嘘と冤罪で騙した連中の方がよほど悪ではないか。


「大体、その本は何なの。こんなこと暴露するなんて、一体どこの出版社よ!」

「書店のゴミ箱に捨てるされてましたよ。面白いかも思ったので、拾う読んでいました」


 武器探しに夢中で全く気付かなかった。

 この本も主催者側が用意した重要アイテムなのだろう。取材して記事を書いた上、ご丁寧ていねい装丁そうてい。努力の方向を間違えた異常者集団だ。


「デスゲームの参加者皆さんの罪、これに全部書くされています。殺し合うさせる起爆剤ですね」

「じゃあ春明はぁ、その罠にまんまとはまったってことなのかなぁ?」


 強がりわざと煽るように揚げ足を取る。


「関係ないですね。ワタシ別に人殺す躊躇ちゅうちょないですから」


 しかし、春明は歯牙しがにもかけない様子。


「ワタシの国、殺す死ぬが隣に合わせるしてる。起爆剤ないでも殺す普通のことです。平和でボケた日本人、無駄をする多いですね」


 飄々ひょうひょうとしている春明が無性に腹立たしい。

 修羅場しゅらば鉄火場てっかばには慣れているのだろうが、かといって人種丸ごと馬鹿にしてよい権利はない。「治安が悪い国だから鍛えられた」と自慢したところで誇りになるのか。逆に汚点だろう。

 しかし、


「ああ、もうっ! 御託ごたくはいいから早くベルトを外してよ!」


 明日香は喚き散らすしかない。

 理屈を並べて反論しようにも、感情の方が爆発寸前で抑えが効かないのだ。


「うるさいですよ。あなたのゲームは終わるました。脱落ですよ」


 春明はモニターを指し示し、名前が消えた現実を直視させようとする。


「こんな卑怯なことして恥ずかしくないの!?」

「生きる残るに恥を気にするしたら命たくさん必要ですよ」

「男としての話よ! 気絶した女性を連れ去るとか最低!」

「男らしさ押し付けるですか?」

「ええ、そうに決まっているじゃない!」


 地団駄を踏んで不快感を露わに、暖簾のれんに腕押しな春明へと右手を伸ばす。その胸ぐらを掴み引き寄せ頭突きを食らわせてやる。

 指先が囚人服のえりを掴みそうになったところで、ひゅん、と一陣の風と共に銀色の光が閃いた。


「熱っ!?」


 爽やかな風の直後に訪れたのは熱。伸ばしていた右手の指先が、鉄板に触れたように熱かった。否、指先はあるべき場所についておらず。人差し指と中指が根元からすっぱり切り取られていた。


「ひっ、あっ、痛っ!」


 じわじわと、熱さが痛みに変わっていく。

 指はどこにいったのか。したたり落ちた血痕けっこんを辿ると、コンクリートの床に転がる二匹の白い芋虫いもむし。断面から赤い体液を漏らしている。細くしなやかな体躯たいくのそれは、紛れもなく明日香の人差し指と中指だった。


「い、痛い痛い痛いっ!」


 春明の手中で軽快に回るバタフライナイフだ。アレが指を断ち切ったのだ。


「女の汚い手、触るやめてもらうしたいです」


 笑ってばかりの春明から、すっと表情が抜け落ちる。


「逆に聞くしたいですが、明日香さん、恥ずかしいないですか?」

「は、はぁ?」


 人の指を詰めておいて、何を悠長に質問しているのだ。自慢の美しい指が可哀想な目に遭っている。早くしないと繋げられなくなるではないか。


「そ、それより早く、あたしの指を――」


 清潔にして冷やしなさい、と応急処置の命令を続けようとしたが、言葉は出てこない。言うより先に、拳によって塞がれてしまったからだ。

 ばきり、と衝撃と殴打の音色が脳を揺らす。

 叩き込まれた右ストレートが、鼻柱と前歯をへし折っていた。


「――ぐびゅっ!?」


 鼻血なのか、口を切ったせいの血なのか。

 どちらか判別がつかないほど、顔の下半分が血まみれになる。口内いっぱいに鉄の味が拡がった。


「じょぜ、女性を殴る、なんで、ざ、最低っ」

「それ、殴るされることしない人言う台詞せりふですよ?」


 春明は無表情のまま、


「わざと弱いフリする、ワタシ反吐へど出るするほど嫌いです」


 乱暴にツインテールの右房みぎふさを掴むと、拳の第二波を打ち込んだ。


「優しいされたいから弱いフリ、割を食べるの本当の弱い人。そのくせ、正しい思うて声大きい。権力振るうする連中と同じ、嫌いです」


 句読点ごとに一発、春明のパンチがお見舞いされる。殴られる度に血の花弁かべんがぱっと咲いては散っていく。


「ぜっ、ぜい、正義、わだじば」

「まだ欲しがるですか?」


 拳がぴたりと静止する。

 やっと暴力の嵐が止んだのか、と安心したところで、体重を乗せた渾身の鉄拳が左のほほを打ち抜いた。


「やっぱり気に入る出来ない人ですね」


 明日香はろくに反応も示さず小刻みに痙攣けいれんするだけ。既に意識が朦朧もうろうとしているのだ。

 濃いめの化粧の代わりに、今は鮮血一色で染まっている。鼻筋はねじ曲がり目の周りはれ上がり、血達磨ちだるまという呼び名が相応ふさわしい姿だ。


「ごめんなさいですね。ワタシ女嫌いで、ついやる過ぎました」


 気が済むまで殴ったおかげか、春明に作り物の微笑みが戻ってくる。端整な顔立ちが、むしろ身の毛もよだつ恐ろしさを滲ませていた。

 バタフライナイフの切っ先があやしい光を放つ。


「ぼ、ぼう、やべで」


 もはや発音が出来ず、壊れたラジオのように声を漏らすので精一杯。

 視界は血の色で殆ど見えない。鼻血が喉に流れ込み息は絶え絶えだ。口の中でぞろぞろ転がるのは折れた歯だろう。何本駄目になったかわからない。

 これ以上、嫌だ。

 明日香は微かに残る意識を繋いで必死に懇願する。

 だが、冷血な男が許してくれるはずもなく、


「瀬部さん、やめて下さい!」


 青年の声が室内を反響し、ナイフの鋭利な先端が、明日香の胸をえぐる直前で止まった。

 明日香は声の主の方へ、ぽっかりと光を投げかける四角い穴へ、真っ赤な視界でそこにいる誰かを見据える。

 二人の人影。背が低い男と、それよりも小さい少女のシルエット。

 安路と恵流。

 頼りない彼らだが、今は世界を救う希望の後光を背負っていた。

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