第29話

「うあっ、おっ」


 守はどうと倒れる。吹き出た血糊ちのりが床に飛沫ひまつのスパッタリング模様を描いた。

 腹が焼けるように熱い。じゅくじゅくと傷口から生温かい液体が染み出ている。斬られたのは肉だけか、それとも内臓までやられたか。痛みだけでは判別出来ない。

 早く反撃しなくては。

 守は金属バットを手に――ない。吹っ飛ばされた今、大事な武器は春明の隣に転がっている。とてもじゃないが取りに行けそうにない。

 このままではまずい。

 わかっているのに立ち上がれない。思考も纏まらない。

 どうすればいい。春明を倒すには、否、逃げる方法でもいい。と、足らない頭をフル回転させているところへ――どすっ。


「え、あ……?」


 追撃の手斧が、右腕上腕に食い込んでいた。

 皮膚をぶつり、筋繊維をぶちぶち。力任せに断ち切ろうとしている。

 見上げると春明と目が合った。

 血も涙もない、爬虫類はちゅうるいのような瞳がギラリと光っている。


 「ぐぎぃ、あ、あっ!」


 このままやられてたまるか。

 守は駆け巡る激痛にもだえながら、健在の左腕で手斧の柄を掴む。武器を奪い取って、今度はこちらが叩き切る番だ。

 しかし、それより早く、


「往生の際が悪いですよ」


 ずぶり、と腹に硬い物がめり込む。比喩ひゆ表現ではなく、物理的に。

 腹部の裂傷に春明の土足が突き刺さり、傷口内部を踏み荒らす。汚い靴底でざりざりと、人体を内側からかき乱していく。


「ぐぼっ、お、おげぇええっ!」


 想像を絶する痛みで一瞬意識が飛び、逆流した胃液を噴水よろしく撒き散らす。オレンジ色と赤が半々、血も大量に混じっている。

 激痛でとっくに失神、あるいはショック死してもおかしくないのに。

 殺した少女の怨念か、中々楽にしてくれそうにない。

 ずぼっ、と足が引き抜かれる。春明の靴先には赤黒い血と、ぎとぎとした脂がべっとり染みついていた。


「邪魔者いないと戦う凄い楽ですね」


 春明はご機嫌で鼻を鳴らし、倒れ伏す明日香を一瞥いちべつする。視線が外れて一時の安心を得た守は、直後脇腹に飛んできた蹴りで現実に引き戻された。


「ど、どうじでっ、ごんな、づ、強いんだ……――ぎゃぁあっ!?」


 口腔こうくうで粘つく血を吐き出し言葉を紡ぐも、腹を突き抜ける痛みで守は悲鳴を奏でる楽器と化す。傷口を執拗に踏みつけられている。


「黄色いお猿さんとワタシ全然違う。平和な国のイキリ野郎が勝てるはずない。当たり前です」

「ぶ、ぶざげンな、ごの外人がっ! 囚人なら囚人らじぐ、づ、罪をあがなっで、ぎぜ、犠牲になりやがれっ!」


 その平然とした顔が許せなかった。

 圧倒的に不利な状況でもえずにいられない。

 だが、無言で手斧を振り上げるのを見て、その態度は一変する。


「ま、待で、やべで、ご、殺ざないでぐれ!」


 プライドは大事だが死にたくない。

 強がりで死んでは本末転倒。家族に会えなくなってしまう。


「むず、娘がいるんだ。だがら許じでぐれ、家族を不幸にじだいでぐで!」


 自分が死ねば妻と二人の娘が悲しむ。巻き込まないでほしい。

 その一心で、彼の善意に訴えかけて命乞いする。


「あなたはその願い、聞き入れるしたのですか?」


 春明の手がぴたりと止まる。真っ直ぐ伸びた手斧が、壊れかけの照明を浴びてあやしく光っている。

 何の話だ。「聞き入れた」とは何を指している?

 少しの間返答に口ごもるが、試着室に転がる物を見てわかった。どうやらあの肉塊――玲美亜を殺した件についてらしい。


「そ、そごの女ば、じ、仕方ながっだんだ! 殺じ合いだじ――」

「いいえ、そっちの女違うです」


 と思いきや、春明はぴしゃりとさえぎり否定する。

 では、他に何があるというのか。激痛と生存本能の中、怒りの色が再び混じり始める――が、すぐにかき消された。


「あなたが昔、遊んで犯す殺した女子中学生の話ですよ」

「……は?」


 何故、それを知っているのだ。

 予想だにしない言葉を前に、ない交ぜになった感情が凍りつく。

 かつて犯した最大の罪。マスコミも世間も大いに騒ぎ、今でもたまに取り沙汰ざたされる事件。しかし当時はまだ未成年。実名報道されていないのに、一般人がどこで情報を仕入れたのか。ましてや春明は外国人、余計にあり得ない。


「その娘の“助けて”言う声、聞き入れるしましたか?」

「いや、ぞれば、ぞの……――ぐげぇっ!?」


 しどろもどろまごついていると、腹の中に鎌を差し込まれた。再び意識が飛びかけるも、またも何故か気絶出来ず、苦痛とどろく現実に引き戻される。


「聞き入れるしましたか?」

「ぢ、ぢが、違うんだ。オ、オレば悪ぐな、ああっ。あ、あいづが、がっ、勝手に死んだんだ。あの女が、貧弱っ、だっだのが悪いんだっ。だがら、許じで、でべ、でめーば、関係ねーだ、だろっ。だ、頼む、ご、ごご殺ざないでぐれ!」


 ただただ、必死に許しをうばかり。


「じゃあ、ワタシも聞き入れるする義理ないですね」


 しかし、現実は非情である。

 手斧が傷口に叩きつけられて、奥部の臓器が幾つか分断される。


「がぼっ!?」


 斧はまた振り下ろされる。

 一度、二度、三度、四度。繰り返し、繰り返し。ぬめりとした血飛沫ちしぶきを上げて、まるで挽肉ひきにくを作るように、内臓を叩いて細切れにしていく。


「もう、やべ……で、ゆるじ……で」


 ざくり、ざくり、ざくり。

 無限に響き続ける肉と臓器の断末魔。

 ようやく意識も薄れてきて、汚物と鮮血で塗り潰されていく。

 もう、娘に会えない。

 折角せっかく、幸せを掴んだと思ったのに。

 守は後悔の念にさいなまれながら、二度と目覚めぬ深淵しんえんへと沈み込んでいった。

 

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