第25話


「ははっ、逃げンじゃねーぞぉ?」


 守はへらへら、どちらを先に仕留めるか舌舐したなめずりしている。

 確実にる気だ。もはや言葉は通じないだろう。

 残された選択肢は、戦うか逃げるか。普通の女子高校生なら逃げる一択だろうが、今の恵流にはこの状況をひっくり返せる切り札がある。

 あるにはある、のだが。

 使いたくない。

 制服のスカート、その内側にある秘密のポケット。そこに隠した切り札は軽々けいけいに使ってはならないのだ。かといって、隠し持ったまま殺されたら本末転倒。

 どうするべきなのか。

 書店の新刊本コーナーに平積みされていた本。派手なポップで宣伝されたそれの下に潜んでいた物。それこそが恵流の切り札だ。殺し合いに駆り立てるための武器の一つ。隠しアイテムである。

 コレを用いれば、守の撃退など容易たやすいだろう。しかし、隠し持っていると知れ渡れば、自分の立場が危うくなること必至。それに安路からの信用を失いかねない。

 極限の状況下、迷いが生じて決断出来ない。

 目の前の危機を回避するために切り札を失うか、切り札を後生ごしょう大事にして命を散らすか。

 どちらも選びたくなかった。


「くたばれや、オラァッ!」


 だが、守は待ってくれない。

 眼前で振り上げられる金属バット。通路の照明を反射し鈍く輝く棍棒こんぼうが、新鮮な血を欲して鎌首かまくびをもたげている。

 避けないと。

 金属バットの攻撃範囲から脱しようとして、ガツッと体が小さく揺れた。ローファーのかかとが床に引っかかったのだ。バランスを崩して蹈鞴たたらを踏んでしまう。

 振り下ろされる金属バット。

 しまった、間に合わない。

 咄嗟とっさに両腕を交差し、急所の頭部をかばおうとする――が、またも体が揺れる。だが、今度は大きい。バランスを崩すどころか床に倒れ伏すほどだ。

 すぐに立ち上がらなくては。

 ばっと顔を上げる恵流。その目に映ったのは、背中を殴打されて苦しむ安路の姿だった。

 自分を押し倒し、身をていして守ってくれたのだ。


「はは、ひょろい割に男気あンじゃねーか」


 動けぬ安路を見下ろす守は、勇敢な行動を称賛するも慈悲はない。追撃で息の根を止めようと、金属バットを天高く掲げる。


「はぁっ!」


 恵流は身を起こすと床に手をつき、守の腹部めがけて突き上げるよう、全力の両足蹴りを叩き込む。ドロップキックだ。

 ぐにゃり。

 中年太りの腹に爪先つまさきがめり込んだ。


「ぐぉっ、げぇぇぇっ!」


 守は込み上げる吐き気を我慢出来ず、その場にうずくまる。びちゃびちゃと水音が聞こえる。胃の内容物が逆流したのだろう。渾身の蹴りは鳩尾みぞおちを見事に撃ち抜いた。

 今のうちだ。

 負傷した安路を抱き起こすと肩に手を回し、即座にその場から逃げ出す。まるで二人三脚だ。ペアの相手は怪我人なので早歩き程度の速さ。これではすぐに追いつかれてしまうだろう。


「このクソアマがぁっ!」


 もたつく間に守が復活する。口元の胃液をそでで拭い、怒声を吐いて追ってくる。

 距離にしておよそ五十メートル。

 歯科医院やトイレに逃げ込んでも無意味。隠れる間もなく金属バットの餌食えじきだ。それなら応戦すべきか。しかし切り札を使う決心がつかない。

 そこで恵流は、通路の先にある書店へと駆け込んだ。

 本棚が並ぶ入り組んだ内装なので、うまく立ち回れば追っ手をけるかもしれない。楽観的な思いつきだが、今はそれに賭けるしかないだろう。


「逃げンなや、待ちやがれ!」


 恵流が入店した二、三秒後。守も鬼気迫る形相で飛び込んでくる。

 両者の距離、残り一メートル。いつ鉄槌てっついが振り下ろされてもおかしくない。

 その時、突如とつじょとして本が雪崩なだれを起こす。守の足元に漫画や文庫本が流れ、彼の進路を妨害する。平積みコーナーの台を恵流が蹴り倒したせいで崩れたのだ。

 しかし、守は怯まない。

 その場しのぎを気にも留めず、本を踏みにじり、そしてずっこけた。ビニールに包まれた漫画本は滑りやすく、裸の文庫本は簡単にカバーが外れる。踏めば転ぶのは必然である。

 守が後頭部の痛みでのたうち回っている。その間に、恵流は一心不乱に書店の奥へと突き進む。

 身を隠す絶好のチャンスだ。

 店内の最奥部にある暖簾のれんの向こう側、俗に言う十八禁コーナーへと駆け込む。

 未成年が入るのはいかがなものか。おしかりを受けそうだが、命には替えられない。そもそもの話、目くじらを立てる方が筋違いなのだ。「子供の健全な性知識のため」などと言いつつ、当の子供の意見は聞く耳持たず。実情も知らずに好き勝手喚くだけ。自分の親族がまともで良かったと心底思う。

 と、内心毒づきながら、恵流はピンク色の背表紙が並ぶ本棚をい進み、一番端まで潜り込んだ。


「うぐっ」


 床に降ろすと安路が小さくうめく。殴られた箇所かしょが痛むのだろう。しかし、声を出しては元の木阿弥もくあみ。手を押し当て口を塞がせてもらう。

 ひとまず身を隠せた。だが、店舗は狭い。じきに見つかってしまうだろう。そもそも施設全体が密室だ。いつまでも逃げ回れるはずがない。

 やはり、切り札を使うしかないのか。

 確かに一番わかりやすく、逆境をひっくり返すには十分な手段だ。

 しかし、使えばそれまで。切り札は手札に抱えているからこそ心強いのだ。

 非力な女子高校生が生き残るためにも隠し通さなければ。

 息を殺し、内心溜息をつく。

 勝手知ったる地元なら何もかもうまくいくのに。デスゲームというフィールドでは弱い参加者の一人に過ぎない。

 遊びや創作物とは全く違う、本当の命懸けのゲーム。

 恵流は自身の非力さを痛感し、唇を強く噛みしめるのだった。

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