第104話  フランスへ その十五

一行は、やがてロアール川の岸辺に差しかかり、そこで川船に乗った。もう、このままブロワに行き着くのを待つばかりである。イザベラは、ベールで顔を覆って侍女たち二人と小さな船室で息をひそめた。

イザベラは、ルイ十二世に言うべき言葉を考えた。恐怖と不安に胸は張り裂けそうで、血の涙がこみ上げてくる様だった。

それでもイザベラは、ルイ十二世に言うべき言葉を考え続けた。隣の部屋には従者たちが控えているはずだが、物音一つしなかった。


イザベラは、国をいでしより、キアーラにだけは迷惑をかけてはならないと考えていた。 しかし、ここに至って最後に一つの問題が残った。この修道女の姿は、王城に入るには寧ろ好都合かも知れないが、ひとたびルイ十二世の前に立った時、自分はマントヴァの侯妃であらねばならない。国の威信にかけても、この姿で王にまみえることは出来なかった。イザベラは、整えだけはキアーラを頼ることにした。


窓には幾たびか光と闇が訪れ、2日後、船は遂に運命の地ブロワに着いた。

上陸したイザベラは、振り返り、東の空を見た。この空の続きにマントヴァがあるのだ。

「参りましょう」

イザベラは、静かに言った。

その時、先程からこちらを見ていた役人が歩み寄って来た。

「その方たち、この土地のものではなさそうだが、何処へ行く?」

「モンパンシエ公爵様のお屋敷です。」

従者が言った。

「何の用で行くのだ?」

誰も答えないのを見ると、役人は薄笑いを浮かべた。

「一体、何の用で行くのか、聞いておるのだ。」

「奥様が、奥様の御健康が優れませんので、祈祷を頼まれたのです。」

イザベラが言った。

「ほお」

役人はイザベラの顔をまじまじと見た。

「良かろう。わしがこれからそなたたちをモンパンシエ邸まで案内して進ぜよう。 そして、直接奥様に会って確かめてみる。」

役人は歩き出した。侍女たちは青ざめ、震えていた。皆はうつむいて役人の後について歩いた。

「お蔭で道に迷わないや。」

アントニオは小声で笑った。

イザベラだけが笑った。

じきに立派な門が見えてきた。モンパンシエ邸は、広い庭の向こうに壮麗なたたずまいを見せていた。役人は門番に挨拶して入った。一行もそれに続いた。広大な庭園は、自然の美しさを取り入れ、華麗で優雅な造りであった。

表玄関の前まで来ると、役人は取次に出た執事に訳を話した。

少し待つと、きぬずれの音をさせながらキアーラが現れた。

「これは、これは、奥様」

役人は恭しく一礼した。

「畏れながら、この僧尼たちにお見覚えはございますか?」

「は?」

キアーラは狐につままれた様な顔をして役人の顔を見た。役人は口元に薄笑いを浮かべた。侍女たちは、がたがたと体を震わせた。

「私です。」

イザベラは、キアーラの前に進み出た。

「えっ」

キアーラは不思議そうな顔をして、イザベラの顔を穴が開くほど見た。

「あっ、貴女・・・」

不意にキアーラは叫び声を挙げたきり、唇を震わせた。

「なんだ、お知り合いでしたか。 それでは」

役人は、そそくさと一礼すると帰って行った。

暫くの間、キアーラは胸に手を当てたまま声も出なかった。

「ああ、驚いた」

やっとキアーラは、乱れた息でそう言った。

「一体、どうなさったの?」

「お姉様、お願いがございます。」

「じゃあ、中へお入りになって。」

すぐに食事の支度がされ、従者たちは食堂に案内された。

「あら、貴女も召し上がらないの?」

「有難うございます。ですが、今すぐお姉様にだけお聞きいただきたいことがございます。」

「まあ」

キアーラはイザベラを自分の部屋に連れて入り、人払いをした。

二人だけになるとイザベラは今までのことを全て語って聞かせた。

みるみるキアーラは蒼白になった。

「やめて」

キアーラは涙ぐんだ。

「私も少しはマントヴァのことを聞いて居りました。 マントヴァは私の生まれた国。夢にまで見る祖国です。

でも、貴女を失うのは、いや。」

キアーラは泣き崩れた。

「貴女は、私が生きる望みを失った時に、立った一人私を済度して下さった方なの。」

イザベラは頭を垂れた。失意に打ちひしがれるキアーラを必死で励ました。ただそれだけのことを、キアーラはこんなにも思ってくれているのだ。イザベラの目から涙がこぼれた。

「わかったわ。」

キアーラは静かに顔を挙げた。

「どんなにお止めしても、貴女は聞いて下さらないでしょう。」

キアーラはイザベラの顔を見た。

「明日、一緒にお城に参りましょう。」

「えっ」

「絶対に、貴女一人では無理よ。このお城こそ最難関だということを忘れないで。」

イザベラの顔から血が引いた。

「明日、私が国王陛下の御機嫌伺いに上がりますから、貴女は私の遠縁の者ということでついていらしてちょうだい。」

「お姉様、それではお姉様に御迷惑がかかります。」

イザベラは必死で言った。

「いいえ、私にも何かさせて欲しいの」

「いけません。その様なことは、私の命に代えてもしていただく訳には参りません。」

イザベラの目に涙が溢れた。

「お姉様、お姉様のその御言葉だけで、私は胸がいっぱいです。でも、お姉様に御迷惑をお掛けするくらいなら、私は死んだ方がましです。」

イザベラは立ち上がった。

「本当に有難うございました。

私はやっぱり今からこのままお城に参ります。」

「待って。私の話を聞いて。」

キアーラは嗚咽で声が詰まった。

「私は生まれた時から弱虫だったの。ひ弱くて何もできない自分が嫌でたまらなかった。

でも、弱い人間ほど、或る時、一途になれるの。身を捨てることが出来るの。」

キアーラはイザベラを見上げた。

「私は、ゴンザーガの娘です。

これだけは、やらせて。 もし、お聞き下さらないのなら、私は何のためにこの世に生まれてきたのか、自分でもわからなくなってしまうわ。」

「お姉様」

イザベラはキアーラの前に膝まづいた。

キアーラはたたみかけた。

「お願い。これをやらせて下さらなかったら、もう私は私でなくなるの。」

イザベラはうつむいて身を震わせて泣いた。

                つづく

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