第103話  フランスへ その十四

夕方、船はリヨンに着いた。

「あれは・・・」

イザベラは絶句した。皆も茫然と立ち尽くした。

船から降りた人の列が、延々と続いているのだ。そして、その先には取り調べの役人たちが立っていた。

「これは相当厳重ですね。」

従者が小声でささやいた。

「もう、おしまいだわ。」

イザベラは衣の上から母の指輪を押さえた。

一人一人の取り調べには、かなり時間がかかっている様だ。夕日が町を赤く染めていた。

その時、列の中程でざわめきが起こった。

見ると、老婦人がうずくまっていた。

役人の一人が走って来た。

「医者、医者はいないか。」

役人は叫んだ。 しかし、名乗り出るものは誰も無かった。役人は狼狽して、老婦人の頬を叩いたり、背中をさすったりした。

「私たちが治しましょう。」

その瞬間、イザベラは心臓が止まるほど驚いた。アントニオがそう言って、列から一歩踏み出したのだ。アントニオはイザベラの袖を掴むと、もの凄い力で引っ張った。イザベラは茫然自失になって、ふらふらとついて出た。

「そなたたち、何者じゃ?」

役人は呆気に取られて言った。

「見ての通りの旅の僧尼でございます。」

「ほお」

「こちらの修道女様はあらたかな御方で、祈祷で治せぬ病は十に一つ、いえ、百に一つでございましょうか。」

イザベラは、口も利けなかった。

「そんなことが出来るのか?」

「はい。」

アントニオは、胸を張って言った。

アントニオは懐から薬を出すと、先ずそれを老婦人に多めの水で飲ませた。

そして、役人に頼んで敷物を持ってきてもらうと、その上に老婦人を寝させた。

「それでは、パオラ様、御祈祷をお願い致します。」

アントニオはそう言うや、老婦人の首と肩と背中を揉み始めた。

イザベラは我に帰り、必死で手を合わせてラテン語を暗唱した。

「見事な読経じゃ。」

役人は思わず唸った。

「こんな凄いラテン語は初めてだ。」

「よっぽど偉い尼さんなんだ。」

居並ぶ人々も、ひそひそと話し始めた。

アントニオは額に汗して老婦人の首や背中を揉み続けた。あたりはいつか日が暮れて、かがり火がたかれていた。

一式暗唱し終えると、イザベラは手を合わせたまま黙々と祈り続けた。

「すみません。 ちょっと良くなりました。」

不意に老婦人が顔を挙げた。イザベラは、息が止まりそうになった。

「何と」

役人たちは立ち上がった。

「胸の苦しいのが治りました。めまいも良くなりましたし」

老婦人はイザベラとアントニオに向かって何度もお礼を言った。役人たちは茫然と見ていた。

「それでは、これで私たちも」

いきなりアントニオが荷物に手を掛けた。

「いや、ちょっとお待ち下さい。」

「どうか市庁舎まで」

「えっ」

「よほど高位の聖職の御方とお見受けしますが、夕食くらい召し上がって行って下さい。」

「せっかくですが、先を急ぎますから」

「そうおっしゃらずに、今晩はお泊りになって、有難い御話の一つもお聞かせ」

「あっ、ちょっと」

アントニオは、駈け出しながら叫んだ。

「お構いなく。 すべては神の御心ですから」

それに続いて皆も駈け出した。

「ちょっと待って下さい」

役人たちが大声で呼んだが、誰も振り返らず、一目散に駈け抜けた。

人気のない路地まで来ると、皆は荷物を投げ出して、肩で息をした。

「これからお宿を探すのですか?」

侍女が言った。

「いや、あの役人たちに、今度会ったら百年目だ。今すぐ馬を借りてこの町を出ましょう。」

この時刻にやっている馬主は殆ど無かったが、やっと一軒見つけて馬を借りると、暗い夜道をロアール川目ざした。

「ああ、恐かった。」

イザベラはつくづくとため息をついた。

「アントニオ殿ったら、無茶をなさるんですもの。」

「もう、どうなることかと、生きた心地がしませんでしたわ。」

侍女たちも口々に言った。

「そんなこと言ったって、ああでもしなけりゃあの取り調べは突破できないよ。」

「アントニオ殿、あのよく効くお薬は何ですか?」

イザベラは聞いた。

「あっ、あれですか?」

アントニオは満面に笑みを浮かべた。

「あれは大した薬じゃないんです。

そこらへんによくある、ありふれた丸薬ですよ。

胸が痛いとか苦しい時は、多めの水を飲むと治ることがよくあるんです。

もしもあれが効いたんなら、水を飲んだのが良かったんでしょう。」

「でも、それだけではありません。アントニオ殿が肩や首を揉み続けて居られるうちに治った様に見えました。どうしてあんなことがお出来になったのですか?」

「あれは、うちの婆ちゃんによくやってやるんですよ。そしたら、大概の病気は一発で効くんだから。 なんでも、心の臓の働きを助けて、血の巡りを良くするらしいんです。」

「へえ」

皆は感心した。

「この前、殿様が御危篤になられた時も、いちかばちかでやってみたんです。」

「まあ」

イザベラは身を乗り出した。

「或る晩、殿様が息も絶え絶えになられた時に、明け方まで、お首や肩や背中を揉んだり押したりし続けました。そしたら、もうみんな諦めていたのに、急に殿様は持ち直されたんです。」

「そうだったのですか」

イザベラは涙ぐんだ。

「そ、そんな、お妃様、大したことじゃありませんよ。 それより」

アントニオは、イザベラの方に向き直った。

「一体、何時の間に経典なんか覚えられたんですか?」

皆も真顔になってイザベラを見た。

「あれは、ヴィルギリウスなんです。」

「えっ」

一斉に皆はのけぞって笑った。


その日は、馬の背に揺られながら交代で眠った。

イザベラは、5年前のフランチェスコの手紙を思い出した。自分は日夜馬の背に揺られて行軍を続け、体がもっているのが不思議なくらいだ、と書かれたあの戦場からの手紙を。

未明の道は、草の葉に露が光っていた。

               つづく


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