第98話  フランスへ その九

「うわっ、ひどい熱だ。」

アントニオは両手でイザベラを抱えると近くの農家に駈け込んだ。

「すみません、修道女が急病なんです。」

暗い奥から40歳くらいの婦人が駈け出してきた。

「まあ、お気の毒に」

婦人はイザベラの額に手を当てた。

「大丈夫でしょうか?」

アントニオが、おずおずと聞いた。

「いつも教会の中に居られる修道女様が、慣れない遠乗りで、ちょっとお日様に照らされ過ぎただけですわ。 じきにお熱も下がりますよ。

さあ、どうぞ。」

アントニオは夫人について中へ入り、言われるままに木の寝台にイザベラを下した。

イザベラは、薄目を開けた。

「あっ、おきさ・・」

思わずアントニオは口を押えた。

「パオラ様、気づかれましたか?」

「修道女様、大丈夫ですか?」

イザベラは、急に眼を見開くと、慌てて起き上がろうとした。

婦人がそれを制止した。

「申し訳ございません。見ず知らずの御方に」

「いいんですよ。修道女様をお泊めできれば、うちにとっても功徳になりますからね。」

見るからに人の好さそうな婦人は満面に笑みを浮かべた。イザベラは頭が下がる思いで胸がいっぱいになった。

婦人は冷たい水に浸した布をイザベラの額に乗せてくれた。イザベラが涙ぐむと、夫人は心配そうな顔をした。

「修道女様、お苦しいですか?」

「いいえ。」

イザベラは、目頭を押さえた。

「こんなに良くして下さいまして、胸がいっぱいです。それに貴女様を拝見して居りますと、母を思い出しました。」

「まあ。修道女様のお母様はまだ」

「私が、十九の年に亡くなりました。」

婦人は、目をうるませた。

イザベラは、天井を見つめて言った。

「私は先程から、もうずっとここにいたいなって、そんなことを考えていたのです。叶わぬことですが。」

婦人はうつむいて涙ぐんだ。何かよほど深い事情があることが察せられ、婦人は言葉を失った。


従者たちは、村中の家々に分散して泊めてもらうことになり、侍女二人はこの家に泊めてもらった。

婦人は侍女たちを休ませ、自分はその晩ずっとイザベラの枕元に坐って何度も額の布を取り換えてくれた。

枕元には、一本の粗末な蝋燭が燃えていた。 そして、窓の外では、大きな木々がざわざわと音を立てていた。

「奥様は、お独り暮らしでいらっしゃいますか?」

「まあ、奥様だなんて」

婦人は、エプロンで顔を覆った。

「修道女様は、よほど良いお生まれなんですねえ。それをこんな難儀な旅をなさって・・・

私には息子がいますが、何年も前に軍隊に入ったきり帰って来ないんです。」

婦人の話を聞きながら、いつしかイザベラは眠りに落ちた。


はっと気がつくと、枕元に母が座ってこちらを見つめていた。イザベラは飛び起きて母を抱きしめようとしたが、体が動かなかった。 母は微笑んだ。

それを見てイザベラは、言い知れぬ安らぎが心の中に広がるのを感じ、そのまま意識を失った。


早朝、イザベラは木の寝台で目を覚ました。

一瞬、自分がどこにいるのかわからず、母の姿を探してあたりを見渡した。

そして、枕元で座ったまま眠っている婦人を見つけ、昨日の全てを思い出した。

イザベラは、さめざめと涙を流した。

明け方の光の中で涙にむせびながらイザベラは、母が守ってくれていると感じた。

新たな勇気と決意が湧いた。

イザベラは起き出し、婦人に心を込めてお礼を言った。

そして、すぐに出発しようとしたので婦人は驚いて引き留めたが、イザベラの決意が固いことを知って、急いでイザベラのためにお粥を炊き、お弁当に柔らかい白パンを持たせてくれた。 侍女たちにも朝食とお弁当を用意してくれた。

「この先は、川船でいらっしゃいませ。  川船の方が、馬より速いですし、お日様に当たらなくて済みますわ。 これから真夏に向かいますから、ますます日差しが強くなりますよ。」

「有難うございます。 私も本当はそうしたいんですけれど、馬を置き去りに出来ませんから。」

「いいことがありますわ。修道女様がお戻りになるまで、あの馬は全部うちでお預かり致しましょう。 ここから先、船着き場までは貸し馬でお行き下さい。」

それを聞くとイザベラは、布の袋を取り出して婦人の手に握らせた。

「ここに20ドゥカートございます。」

「えっ」

「この様なもので私の思いを表すことはとても出来ませんが、昨日からのお心づくし、そして馬たちをお預かりいただくことへのせめてものお礼です。」

「とんでもございません。 それに、こんな大金、法外です。」

「どうかお納め下さいませ。 ただ、一つお願いがございます。」

イザベラは、婦人の目を見た。

「もしも、半年たっても私たちが戻りません時は、あれらの馬をミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会までお返しいただきとうございます。」


従者の泊めてもらった家々にお礼に行っている間に、婦人は貸し馬を探してきてくれた。

「もう、本当にお別れなんですね。」

婦人は涙ぐんだ。

「この御恩は、終生忘れません。」

イザベラは、涙を浮かべ一礼すると、馬に乗った。

                  つづく

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