第91話 フランスへ その二
「ただでも狙っている奴らに、よい口実を与えてしまった。」
或る晩、フランチェスコは嘆息を漏らした。
「殿、大丈夫です。困った人を助けて、絶対に神様はお見捨てになりません。」
フランチェスコはイザベラの顔を見上げ、力無く笑みを浮かべた。
1500年5月17日イザベラに男の子が誕生した。
祝砲がとどろき国中の鐘という鐘が鳴り渡った。
イザベラと同じ誕生日に生まれたその子は、フランチェスコの亡き父の名をもらいフェデリーコと命名された。
10年間、実に10年間待ち焦がれた男の子の誕生。
しかし、イザベラもフランチェスコも、ゆりかごに眠るフェデリーコの顔を見てただ涙を流した。
そうしている間も国境へのフランス軍の侵攻は進んだ。
マントヴァの国民は、一人一人が戦に備え、フランス軍侵入の折りには一丸となって立ち向かい自分たちの国を守るため戦い抜く覚悟であることがはっきりと感じられた。
人々は自主的に武器を揃え、子供たちまでが町のあちこちで戦の訓練をしていた。
「この国を、どんなことがあってもこの国を滅ぼさないわ。」
イザベラは、密かに心に誓った。
6月16日フェデリーコの洗礼が行われた。
本来ならば、盛大な祝典が挙行されるはずであったが、フランス軍包囲下で一切のお祝いはとりやめとなった。
それでも、フランチェスコは嬉し気な表情だった。
その夜、イザベラはフランチェスコの部屋へ行った。
「殿、二人だけでお話したいことがございますの。」
イザベラは、明るく微笑んだ。
「あ、そう。ちょっと、みんな、悪いけれど席を外してくれない?」
フランチェスコは何時になく和やかな声だった。
侍女や執事たちは出て行った。
二人だけになると、イザベラの顔から急に笑みが消えた。
「殿、一生に一度のお願いでございます。」
イザベラの顔は蒼白だった。
「私をフランスへ行かせて下さいませ。」
フランチェスコは雷鳴に打たれた様な気がした。
「このままでは、国が滅びます。私にとって、命よりも大事なこの国が。」
イザベラの目に涙が光った。
「私は、ルイ十二世陛下にお会いして、この国を攻めないとの御言葉をいただいて参ります。」
「馬鹿な」
フランチェスコは叫んだ。
「捕らえられるだけだ。 みすみす捕らえられに行くだけだ。
わからないのか。 奴らは君を人質にして、この国を逆落としに窮地に追い込むだろう。」
「その様なことは致しません。」
不意にフランチェスコは、真っ青な顔をしておどりかかるとイザベラの襟首を荒々しく掴んだ。
「死ぬつもりだな。 捕らえられたら死ぬつもりだな。」
イザベラは答えなかった。
フランチェスコは襟首を掴んで振り回し、力任せに突き放した。
「よくわかった。
お前の心にあったのは、マントヴァだけだったのだ。
よくわかった。」
フランチェスコの声はうわずっていた。
「マントヴァですって?
マントヴァを思う心と、殿を思う心は一つです。」
フランチェスコは、いきなり狂った様に駈け出して行った。
夜半、イザベラはフェデリーコの部屋へ行った。
ゆりかごで無心に眠るフェデリーコの顔を見つめ、イザベラはどめどなく涙を流した。
明け方、イザベラは最後の支度にかかった。
イザベラは、昨年の暮れから、何時かはこの日が来ることを予知していた。
そして、フランス軍が国境へ進出するのを見て、遂にその時が来たことを悟った。
その日から、密かに支度を始めていた。
イザベラは当初、ミラノに駐屯するフランス軍の総司令官に会いに行くことを考えていた。ミラノはマントヴァの隣国であり、いざという時はフランチェスコが大挙して助けに来てくれるであろう。
しかし、考えた末にやめた。困難なことであればあるほど、究極の相手ではない第二、第三の人間に頼むことは、時として逆効果であり、危険ですらある、と判断した。
イザベラはまた、フランチェスコの姉であるモンパンシエ公爵未亡人キアーラを介してルイ十二世と交渉することも考えた。
しかし、これもやめた。
キアーラのことは非常に信頼していたが、それでも人づてで、あますなく自分の思いをフランス王に伝えることは無理だと思った。
イザベラは、仏王以上にその側近がマントヴァを狙っていることを聞いていた。
あのヴェネツィアの教訓からイザベラは、よほど考えて行動しない限り生きて仏王に会うことは不可能だと考えた。
そのためには、絶対に、ルイ十二世の住むブロワ城に着くまで旅の目的を余人に悟られてはならないと心に誓った。
イザベラは、モンパンシエ公爵未亡人キアーラ・ゴンザーガを名乗ることにした。 もちろん、これは極秘で、キアーラにも何も言っていない。
イザベラは、そのためにフランスの衣装を用意した。
そして、ミラノまでは水路で行くのが普通だが、そこで馬車に乗り換えることは人目につき、手違いも起こり易いので、この度は初めから陸路を取ることにした。
イザベラは、旅の従者を厳選し、その人々にしかこれらの秘密を知らせていない。
他の侍女や執事たちには、あくまで湯治ということで押し通した。
早朝、最後の支度が出来上がった。
イザベラは、一刻も失わず発つことにした。
ただ、心残りは、フランチェスコがあの時出て行ったきりまだ戻っていないことであった。
表玄関の前には、既に沢山の人々が集まっていた。
小一時間前から馬車や何頭もの馬が停まっていたのを誰かが見つけ、町中に報せたのであろう。誰一人として湯治ということを信じている者は無かった。
人々は身じろぎもせず無言で待ち続けた。
遂に表玄関の扉が開き、イザベラが現れた。
イザベラは、見違える様なフランスの衣装に身を包んでいた。
そして、その顔は、この世の人とも思えぬほど蒼白であった。
イザベラはエレオノーラを抱き上げ、ひしと抱きしめた。
やがてエレオノーラを静かに下すと、イザベラは馬車に乗った。
つづく
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