第87話 レオナルド・ダ・ヴィンチ その三
「お妃様、お疲れではありませんか。」
「いえ、大丈夫です。」
「それでも、少し休憩に致しましょう。
今日は面白いものを持って参りました。」
レオナルドは、古いスケッチ・ブックを取り出してイザベラに差し出した。
「これは、私の最初のスケッチ・ブックです。もう40年も前になりますが。」
イザベラは、一頁一頁丁寧にめくった。
イザベラは、わけもわからず涙が出て来て、どうすることも出来なかった。
レオナルドは続けた。
「私の育った環境は複雑で、私は物心ついた時から、生きていくことはつらい事と思う様になって居りました。
あれから40年。 私は何度も死を考えたことがあります。
それでも死ぬことが出来なかったのは、絵があったからです。
ひとたび絵を描くことを知った人間は、どうしても、どんなにつらくても死ぬことは出来ません。」
レオナルドは、イザベラの目を見た。
「お妃様、貴女様は絵をお描きになりますか?」
「いいえ。」
「それでは、これから私が手ほどき致しましょう。 きっと早晩、貴女様も」
「先生、私に絵が描けるのですか?」
イザベラは、小さく叫んだ。
「私はいつも素晴らしい絵を見るたびに、同じこの世に生きて、こんな高い境地を見ることが出来たなら、その場で死んでも構わないと、そう思って参りました。」
レオナルドは涙ぐんだ。
「あっ」
レオナルドは、やにわにそのスケッチ・ブックから、僅かに残った白い紙をはぎ取った。
「これを差し上げます。」
イザベラは、震える手で受け取った。
「この紙に何か描いて下さい。」
イザベラは一心に花瓶の花を描き始めた。
イザベラは、憑かれた様に描き続けた。
何時間経っても一度も顔を挙げずに描き続けているので、レオナルドは心配になり、そっと背後から覗き込んだ。
レオナルドは、我を忘れて声を挙げた。
「ラファエロだ」
イザベラは驚いてレオナルドの顔を見上げた。
「まだ16歳の少年ですが、彼は天才です。」
レオナルドはイザベラの目を見た。
「お妃様、貴女様は何としてでもこの世に生きねばならない御方です。」
その言葉に、イザベラは目を伏せた。
つづく
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