第86話  レオナルド・ダ・ヴィンチ その二

夜が明け、約束の時間が来た。

レオナルドはカンヴァスに向かって坐り、静かに待った。

扉が開いて、イザベラが現れた。

イザベラは黒い服に身を包んでいた。

カンヴァスの前に坐ったイザベラを、レオナルドは暫く、射る様な目で見据えた。

「お妃様、御髪をほどいて下さい。」

イザベラは、我が耳を疑った。

イザベラは、静かな声で言った。

「先生、申し訳ございませんが、既婚夫人はその様なことは致しません。」

しかし、凝視したままレオナルドは強い声で言った。

「聖母像の様に、髪を垂らしてほしいのです。」

イザベラは目を伏せ黙っていたが、やがて立ち上がると、静かに出て行った。


暫くして、イザベラは戻って来た。

その豊かな髪は肩に垂らされていたが、その上を、有るか無きかの薄いベールが覆っていた。

レオナルドは黙々と素描を始めた。

イザベラは恐ろしい様なものを感じた。

仕事をしている時の天才の目が、これほど突き通す様なものかとイザベラは驚いた。それは、カンヴァスから離れた時のあの穏やかな表情からは想像も出来ないものだった。


夜、レオナルドは独り机に向かい、考えに耽っていた。

もう、彼の頭の中には構図が出来上がっていた。

そして、これこそ、彼の死後数十年経って、ゆくりもなく「モナリザ」と命名されたあの絵だった。

レオナルドは、様々な角度でイザベラの肖像画の素描を何枚も描いた。

そして、どれも頭部の寸法を正確に21㎝にした。

そればかりでなく、組んだ手の位置も、あらゆる素描を通じて殆ど一致する様、心がけた。

後にこれらの素描から正確に寸法を測り取って、油彩に描くためである。

レオナルドが複数の角度でイザベラの素描を描いたのは、透視法を重んじ、奥行きや立体感を追求する彼の自然科学的理念からであった。


この絵をレオナルドは、終生離さなかった。

最晩年、フランス国王フランソア一世のたっての要請で招かれアルプスを越えた時も、そして今わの際までレオナルドはこの絵を決して離さなかった。

                   つづく

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