第85話 レオナルド・ダ・ヴィンチ その一
その年の秋から冬にかけて、沢山の人々がミラノから亡命してきた。
その殆どがスフォルツァ家の親族、廷臣、そしてロドヴィコに仕えた芸術家や学者たちであった。
イザベラは、国を失って亡命して来た人々の悲しみに胸が絞めつけられる思いで、誠心誠意もてなした。
既に心は決まり、フランチェスコもイザベラも秋の空の様な明るさをたたえていた。
「イザベラ、大変な人に会わせてあげよう。」
ミラノから来た子供たちにせがまれてトランプをしていると、フランチェスコが入って来た。
イザベラはフランチェスコに入れ替わると、急いで冬の居間へ行った。
50歳くらいの上品な、しかし、どこかただ者ではないと感じさせる眼光の紳士が立っていた。
「レオナルド・ダ・ヴィンチでございます。」
イザベラは、息を飲んだ。
「ミラノより仮の宿りを求めて参りました。」
「先生」
イザベラは頬を染めた。
「先生の様な御方にお会いできて、夢かと思います。」
レオナルドは戸惑いの表情を浮かべ、深く一礼した。
或る日、イザベラが廊下を通りかかると、レオナルドは独りアーチ形の窓から中庭を見つめていた。
イザベラは足を止めた。
暫くすると、レオナルドは振り返った。レオナルドは何も言わずにイザベラの顔を見つめたが、やがて眼に涙を浮かべた。
「お許し下さい。 ミラノの亡きお妃様のことを思い出したのです。」
レオナルドは、遠くを見る様な目で言った。
「サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会で『最後の晩餐』を描いて居りました時、お妃様はよく、いつまでもたたずんで御覧になり、そして静かに帰って行かれました。」
レオナルドは、はっとした。イザベラの肩が小刻みに震えていた。レオナルドは黙ってうつむいた。
イザベラは振り返り、涙に濡れた目に笑みを浮かべた。
「先生、お願いがございます。」
イザベラは、急に思いつめた表情をした。
「先生の様な偉大な御方にこの様なお願いを申し上げますのは、消え入りたい思いでございますが、私の肖像画をお描きいただけませんでしょうか。」
イザベラはうつむいて笑った。
「私は昔から肖像画を描かれるのが大嫌いでした。ちょっと、はにかみ症なんです。それに、肖像画って、なかなかそっくりに出来上がりませんし、全然似てないことが殆どでございました。」
イザベラは、顔を挙げた。
「先生、私にはもうすぐ6歳になる娘が居ります。
人の世のはかなさを思う時、私はもう自分がいつ死んでもおかしくないと思って居ります。ただ、その時、心に残りますのは幼い娘のことでございましょう。
私は娘に、せめて一枚の肖像画を持たせてやりとうございます。」
レオナルドはイザベラの瞳がかすかにうるんでいるのを見た。
その夜、レオナルドはまんじりともしなかった。
「あの侯妃は死ぬつもりらしい。この絵が出来上がるのを待って。」
レオナルドは、そんな直感を振り払うことが出来なかった。
つづく
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