第53話 試練 その九
お昼頃、ストゥディオーロにエリザベッタがやって来た。
「まあ、おねえ様。」
「あの・・・明日の湖水祭りのことなんですけれど。」
湖水祭りは、マントヴァのお城を三方から囲む三つの大きな湖、スペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖に祈りを捧げ、恩恵に感謝するお祭りで、マントヴァの中でもこの地域だけに伝わる小さなお祭りだった。
エリザベッタは目を伏せて言った。
「実は私、明日は行けなくなりましたの。」
「えっ、お姉様と二人で行くのをとても楽しみに致して居りましたのに。」
「本当にごめんなさい。」
「おねえ様、何とかならないのですか?」
「それがどうしても駄目なの。 だから、ねっ、お兄様と一緒にいらしてちょうだい。」
エリザベッタはイザベラの目を見た。
イザベラはその夜、フランチェスコに言った。
「殿、おねえ様が勧めて下さいましたの。明日の湖水祭りに殿と二人で行く様に、って。
殿、いいですか?」
フランチェスコは
「ああ。」
とだけ言った。
早朝、もうお祭りは始まっていたが、まだ宮殿の中は寝静まっていた。
イザベラは食堂の横の長椅子に座ってフランチェスコが来るのを待っていた。もうすっかり用意が出来て、あとはフランチェスコが部屋から出てきたらすぐに出発である。
「どうなさったのかしら。 まだお洋服が決まらないのかしら。」
フランチェスコはなかなか現れなかった。
やっぱり行く気がしなくなったのかも知れないと思うと、イザベラは心が暗然とした。
「まあ、殿」
イザベラは立ち上がって目を丸くした。 やっと出て来たフランチェスコは、色とりどりの派手なフランス風の服に身を包んでいるのだ。イザベラは笑いがこみ上げてくるのをこらえながら
「とっても素敵!」
と言った。フランチェスコはうつむいたまま背を向けた。
その時、裏玄関の扉が激しく叩かれた。イザベラは慌てて開けに行った。
「あっ、お妃様。」
フェラーラに派遣した執事だった。
「実はアニキノ先生が明日から暫くヴェネツィアへお発ちになりますので、是非今日中に詳細な取り決めを行いたいとおっしゃっています。
つきましては、急ぎお妃様にお越しいただきたく、お迎えに上がりました。」
イザベラは、ため息をついた。
「本当に申し訳ないんですけれど、今日はどうしても無理なんです。
もう少しアニキノ先生にお待ちいただけませんか?」
「それが、どうしても今日でなければ、とおっしゃるんです。」
イザベラは、フランチェスコの背中を見た。
そして、執事の方に向き直るときっぱりと言った。
「それでは、そのお話、破棄して下さい。
折角お骨折りいただいて、誠に申し訳なく思います。
でも、皆さんにはお分かりにならないかも知れませんが、今日は私たちにとって本当に大事な日なんです。何物にも代え難いほどに。」
しかし、執事は言った。
「もうここまで御話が決まって、アニキノ先生も予定を組んで居られますのに、この期に及んでお断りしてはマントヴァの信用に関わります。」
イザベラは歩み寄ると、フランチェスコの背中に向かって言った。
「本当にごめんなさい。 でも、信用は命より大事です。
お祭りは明け方までやっていますから、それまでに必ず戻ります。
私が戻るまで待っていて下さいね。 それから二人で参りましょう。」
イザベラは気が気ではなかったが、執事と一緒に出て行った。
イザベラは、大急ぎで船に乗った。
「風よ、もっと吹いて。」
イザベラは船の上でも落ち着かなかった。
お昼過ぎにフェラーラに着くと、船着き場には馬車が迎えに来ていた。イザベラは船の上で考えておいた手順で手早くアニキノに説明しようとした。しかし、名人気質の彼は、暫くずっと黙り込んだり、気が済むまで一つのことを繰り返し追及したりするので、日頃はこの様な彼の姿勢を賛美してやまなかったイザベラも、今日ばかりは時計の針が気になってじっとしていられない気持ちだった。
日が暮れる。 日が暮れる。
イザベラは、窓の外に何度も目をやった。
やっと話が終わった時、空は茜色に暮れなずんでいた。
「イザベラ、もう少しゆっくりして行きなさい。」
急いで帰ろうとすると、父が呼び止めた。
「お姉様、もう帰るの?」
アルフォンソが言った。 母は黙っていた。
「お母様、私は殿と今日お祭りに行くお約束をしたんです。殿は今も私の帰りを待っていらっしゃるんです。」
「イザベラ、早くお行きなさい。」
「有難う、お母様。」
イザベラは走って馬車に乗り込んだ。
マントヴァに帰り着いた時は真夜中だった。イザベラは大急ぎで裏玄関から入った。
「あっ」
イザベラは立ち尽くした。
フランチェスコが食堂の横の長椅子で、大の字になって寝ているのだ。もう皆寝静まって、あたりに人気は無かった。フランチェスコは、朝見た時と同じ服のまま、子供の様な顔をして寝息を立てていた。イザベラの目に涙が光った。
燭台の光に照らされたその寝顔を、イザベラはいつまでもたたずんで見つめ続けていた。 つづく
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