第4話  春 その四

イザベラは、はっとした

「あっ、あの方だわ。」

部屋の隅の小机の所でエンリーコと話しているのは、紛れもなく一週間ほど前のあの若者だった。

イザベラは、母の慧眼に驚嘆し、呆気に取られて若者を見た。

若者は、その瞬間、部屋の隅から目だけでイザベラを見た。

イザベラは慌てて目を伏せ、テーブルに就くと本を開けた。

不意に、隣のテーブルのジョバンニがステファノに向かって声高に言った。

「フランチェスコさん、あんな所にいるよ。

本にしか関心が無いんだね。」

「あの本は、この図書館にしか無いから。  だからここへ来るんだよ。」

とステファノがぼそっと言った。 無口なステファノが声を出したので、イザベラは驚いて顔を挙げ、ステファノを見た。

その時、部屋の隅からフランチェスコがこちらに向かって走って来るのが見えた。 フランチェスコは目を大きく見開き、上半身を固くして、幼子の様に前のめりになりながら走って来た。 そこには、この前の、あの剛毅な面構えは無かった。

イザベラは、これが当代随一の武勇で知られるあのマントヴァ侯なのかと我が目を疑った。

イザベラとジョバンニの席は背中合わせになっていたが、走って来たフランチェスコは二人の間にやって来て、背後からジョバンニに話しかけた。

イザベラは辞書を取りに行きたかったが、自分の椅子の背もたれのすぐ後ろにフランチェスコが立っているので暫くためらった。

しかし、いつまで待ってもフランチェスコが立ち去らないので、遂に意を決して立ち上がった。

フランチェスコは狼狽し、一瞬、椅子と椅子の間から足を抜こうと試みたが、結局そこに踏みとどまった。

イザベラは、小さな声で

「すみません。」

と言って、静かにラテン語の辞書を取りに行った。

戻って来ると、フランチェスコはまだ同じ所にいた。

イザベラが続きを読もうとした時、不意にエンリーコとルチオが立ち上がり、声を挙げた。

「フランチェスコさん、こっち、こっち。」

「早く、早く。」

見ると、彼らはフランチェスコの両手をぐいぐい引っ張って、部屋の隅の小机の方へ連れて行った。 彼らはそこで本を開いて見せながら、フランチェスコに何か頻りに話しかけていた。

しかし、暫くすると、フランチェスコは彼らを振り切って、またこちらに走って来て、ステファノの隣に座った。 途端にステファノはフランチェスコに背を向けた。 イザベラは驚いて目を見張った。 ジョバンニは一言も喋らなかった。

ふと見ると、エンリーコとルチオが部屋の隅から投げやりな目でこちらを見ていた。


どれほどの時間が経ったであろう。

部屋の中は静かで、背後のテーブルは誰一人喋るものも無かった。

もうフランチェスコは帰ってしまったのであろう、と思ってイザベラは振り返った。

その途端、無言でこちらを見つめているフランチェスコと目が合い、イザベラは慌てて本に目を落とした。

やがて夕方になり、フランチェスコは少年たちと一緒に出て行った。


次の日からイザベラは、「ラテンの部屋」へ行くたびに、フランチェスコが現れないか、半ば無意識のうちに気にする様になった。

大きな樫の扉を開けると、一瞬のうちにイザベラは部屋の中を隅々まで見渡した。

本を読んでいても、人が入ってくるたびにイザベラは顔を挙げる様になった。

しかし、来る日も来る日もフランチェスコは現れなかった。

                       つづく


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