第4話


 三十分後。

 隆哉は和美から聞いた病院へと辿り着く。


 深夜に手術が終わった。

 それから僕は家に戻ったそうだ。


 と言うことは、少なくとも美乃里は生きていると言うこと。


 病院の出入り口の前に立つ。

 断片的に昨日の記憶が蘇った。


 鳴り響く救急車のサイレン。

 担架に運ばれる美乃里。

 慌てめく病院関係者たち。


「あー、夢じゃないのか」


 一歩、一場面。

 無くした記憶を取り戻す様に。


 どうやら、僕はここに記憶を置いて行ったみたいだ。


 昨日の事故。それから起きたことを。

 忘れていたはずの絶望が、ゆっくりと隆哉に染み込んでいった。


 707号室。個室の病室。

 それが美乃里の病室だった。


 病室の前で立ち尽くす。

 僕にこの扉を開ける資格はあるのだろうか。


 この先に待ち受ける現実。

 未知の世界に、自然と手が震えた。


「隆哉くん・・・・・・?」

 背後から声が聞こえるその声。

 振り向くと、美乃里の母の佳織だった。


 記憶には無いが、僕は佳織さんとは昨日も会っているのだろう。


「どうも」

 隆哉はかしこまった顔で小さく頭を下げた。


「寝なくて大丈夫なの?」

 どこか申し訳なさそうに佳織は首を傾げる。


「ええ。大丈夫です。佳織さんは?」


「――寝られないわよ。あの子がいつ起きるかもわからないし」

 小声でそう言うと、佳織は隆哉を休憩所へと案内する。


 話がある様だ。

 言われるがまま、隆哉は丸形テーブルの椅子に座る。


 隆哉と佳織の二人しかいない休憩所。

 不穏な沈黙が漂っていた。


「隆哉くん、話があるの」

 重々しい口調で告げ、佳織は椅子に座った。


 今の彼女は、美乃里の家で会う彼女と別人に見えた。

 娘と同じく、普段は明るく微笑みを絶やさない女性。

 今はその微笑みの欠片すら無い。


「はい」

 彼女が告げようとする内容。隆哉は自然と予想がついた。


 僕は覚悟して、この先に進まなければならない。

 隆哉はゆっくりと息を飲んだ。


「美乃里の手術は無事に終わったわ」

「はい」


 知っている。知っているとも。

 終わるまで僕は手術室の前のソファーで座っていたのだから。


 そして、佳織さんは、少し離れたベンチで呆然と座っていた。


 僕がいつまでいたのか、彼女はそれさえも記憶に無かったのだ。

 ――僕も似た様なものである。


「でも、先生から言われたの」

 曇った佳織の表情。晴れる気配は無かった。

「はい・・・・・・」

 そうだ。終わったと言って結果が良いとは限らない。


 数秒の沈黙。

 佳織は歯を食いしばる様な表情で言葉を詰まらせていた。


「もう二度と――。二度と娘は走れない」

 佳織が告げる医師からの言葉。


 静かに告げるその姿。

 まるで、感情が無い様に見えた。


「走れない――」

 僕の心を抉る様に引っかかるその言葉。

 しっかりと刺さった言葉の爪が、僕にこれが現実であると知らせる。


 確かに、彼女の下半身は大きな外傷を負った。

 それは間違いない。


 けれども、彼女の足は今もあるのだ。


 だから、本当に走れないほどなのか。

 大げさなのでは無いのだろうか。


「リハビリをすれば、松葉杖を使って歩くことは出来る。でも、それは十数年先の話。それにあくまで可能性の話だって」

 佳織は無気力な顔で言った。


 わざと気持ちを込めていないことに隆哉は気づく。

 感情を言葉に乗せたら、封じ込めた悲しみが溢れ出してしまうのだ。


「歩ける可能性、ですか・・・・・・」


 昨日まで歩いていた美乃里の姿。

 何を持って当たり前と思っていたのか。

 その姿か、その日々か。

 どちらにせよ、これからはそれが当り前じゃなくなるのだ。


「起きたあの子に私は何て言えばいいの・・・・・・?」

 封じ込めた気持ちが途端に込み上げる。

 佳織は両手で顔を覆い、涙を流した。


 手術の結果、幸い彼女の両足は残る。

 しかしながら、事故の際に脊髄を損傷していたらしく、その影響で下半身不随となってしまった。

 それは手術が終わった際に出てきた医師に聞いていた。


 ――僕も佳織さんも。


 下半身不随。来る前の電車の中で隆哉は調べていた。

 身体の左右のどちらかが、麻痺すると言う半身不随とは異なり、下半身不随は下半身から下に麻痺の症状が起きる病気――らしい。

文章では理解したつもりだったが、隆哉には実感が湧かなかった。


「よくわからないけど、下半身不随にも種類があるらしいのよ。美乃里はその中でも、筋肉が伸縮しない弛緩性麻痺って言う麻痺の種類らしいの」

 本日の昼、再度医師から告げられた言葉を佳織は告げる。

 佳織自身も娘の身体に何が起きているのかを理解出来ていなかった。


「筋肉が伸縮しない?」

 普段聞かない単語に隆哉は腑に落ちない顔を向ける。


 筋肉とは、伸縮して動くものでは無いのか。

 ――そう、本来は。


「今、私たちは椅子に座っているでしょ?」

 椅子を下げ、佳織は身体で表現しようとする。


「はい」

「これは足の筋肉を伸縮させて、この体勢になっているの。筋肉が伸縮しないってことは、この体勢だと崩れて倒れてしまうのよ」

 筋肉の伸縮とは。佳織の言葉で隆哉は考えた。


 立つための筋肉の伸縮が出来ない。

 必然的に立てないと言うことだ。

 まるで、生まれたての赤子の様に。


 足を引きずる美乃里の姿を想像してしまった。


 どうして、想像出来るのか。

 想像出来るなら、それは現実的であると言うことなのに。


「もう歩けないかもしれない・・・・・・」

 佳織の言葉を隆哉はただただ噛み締める。


 数分前までは想像出来なかったはずなのに。

 今は容易に想像出来てしまった。


「ええ。先生はリハビリすればと言ったけど。あまり、期待は出来ないみたい」

 佳織はゆっくりと首を左右に振るった。


 確証の無い望み。

 僕にはどうしても、それが望みとは思えなかった。


 これからも、美乃里と共にするならば――。

 僕は支えることが出来るのだろうか。


 望みの無い未来。先の見えない世界。

 そんな世界を歩み続けなければならないのか。


 続けなければならない――。

 他人の僕からすれば、選択的な観点でそう思ってしまう。

 だが、美乃里本人からすれば、その選択肢しか無いのだ。

 生きて行く上で決して逃げられない大きな壁。彼女はその壁に直面するのだ。


「――ねえ、隆哉くん」

 何かを決意した顔で佳織は顔を上げた。


「・・・・・・はい」

 芯のある眼差し。不思議と佳織の心境が伝わって来る。


「隆哉くん。美乃里と別れて欲しいの」

 あっさりと。どこか何食わぬ顔で佳織は言った。


 その眼差しを見た時から、理解はしていた――心の中では。


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