第1話 


 七月三日。初夏。

 終わりの日であり、始まりの日。


 じめじめとした空気とセミの鳴き声。

 残響の様に耳に残った。


「ねえ、隆哉」

 隣にいた隆哉に声を掛けるセミロングヘアーの女性。

 健康的な身体に明るい雰囲気をした彼女。

 隆哉の幼馴染の仲村美乃里(なかむらみのり)だった。


「ん? どうしたの?」

 美乃里は少し不安そうな顔をしていた。どうしたのだろうか。


「来週さ。三年目じゃん?」

 上目遣いで美乃里は物欲しそうな顔をする。

 美乃里は隆哉の彼女だった。


「そうだね」

 美乃里の言葉の意図。

 隆哉は察した様に微笑んだ。


 高校卒業と共に付き合い始め、早三年。

 出会ってもう十五年になる。


「その・・・・・・どこかさ、泊りで旅行しない?」

「あー、いいね。どこ行こうか?」


 泊りの旅行は一年ぶり。

 自然と隆哉は晴れた顔になった。


 彼女から旅行に行こうと言われるのは、今回が初めて。

 彼女の願いは、精一杯叶えたい。


「夏だから・・・・・・、海沿いはどう?」

「なら・・・・・・熱海とか? 熱海なら二時間くらいで行けるからさ」

 横浜からレンタカーを使えば、それくらいだろう。


 ――さて、旅館は今からでも予約出来るかな。


 携帯を取り出し、隆哉は考えた。


 せっかくだから、海が見える部屋が良い。

 不思議と美乃里が喜ぶ姿が目に浮かぶ。


 二人で歩いて行く中、

 路肩のガードレールを椅子にして、一人の中年男性が座っていた。


 缶ビールを飲んでいる中年男性。

 その隣には、白い軽自動車が停まっていた。


 あの車が中年男性の車だとすると、飲酒運転になるだろう。

 隆哉はそう思ったが、気には留めなかった。


 その光景は今の隆哉にとっては、

 視界に映った何でも無い一部始終に過ぎない。


 隆哉の頭は次第に、美乃里とのデートのことで頭がいっぱいになる。


 しばらくすると、車のドアが閉まる音が聞こえた。

 その音に構わず、二人は足を進めていく。


「熱海、良いねー。海とか入る・・・・・・?」

 美乃里は自身の身体を見て、急に不安な顔をする。


 夏の熱海。

 自然と海水浴場が目に浮かんだ。


「あー、せっかくだし行く?」

 二人とも泳ぎは上手くない。

 しかし、それでも海は楽しいのだ。


「んー、行きたいんだけど…・・・・・・」

 美乃里は眉間にしわを寄せ、困った顔をする。


「どうかしたの?」

 こんな顔の美乃里は珍しい。

 隆哉は少し呆然としていた。


「その・・・・・・水着買わないと」

「あー・・・・・・。あー」

 察した隆哉。中々良い言葉が浮かばない。


「昔のは――着れない」

 がっかりした様に美乃里は小さくため息をついた。


 その真意は太ったからなのか、胸が大きくなったからなのか。

 隆哉は美乃里の胸元を眺め、考えていた。


 ――確かに学生の頃より大きく見える。


「ねえ、隆哉」

 途端に美乃里の視線が鋭くなった。


「ん? 何?」

 知らぬ存ぜぬ。とぼけた顔を返す。


「――変態」

 目を細める美乃里。

 これを世間ではジト目と言うらしい。


「ごめん」

 弁解は無い。隆哉は頭を下げる様に俯いた。


「別に・・・・・・。別に――夜ならいいよ」

 落ち込む隆哉を見て、美乃里は小声でそう言った。

 少し色っぽい彼女の声。普段の明るい声とはまるで違った。


「っ――。あー、うん」

 上手い返事が出来ない。よろしくとは、さすがに言えない。


 積極的では無い美乃里がこう言っているのだ。

 少し隆哉は申し訳ない気持ちになる。


 高校生に入るまでは、特に意識はしていなかった。

 しかし、今はその逆の状況。


「それじゃ、今日中に熱海の旅館調べておくよ」


 善は急げだ。

 この熱が冷めないうちに、良いところを選びたい。


 きっと、これからもこんな日々が続くであろう。

 その度、僕はその一日一日を大事にしたいと、心から思った。


「うん。お願い」

 美乃里は自分の右肩をそっと隆哉の左肩に当てた。


 ラブラブ。僕らはその言葉が似合わない恋人関係だろう。

 でも、僕はこの方が落ち着くし、これからもこうしていたいと思える。


 これからも――そう、これからもだ。

 これからも、僕は君と共にいたい。


 すると、歩く隆哉たちの目の前で信号機が点滅し始めた。


 よく知る交差点。ここの信号は長い。

 それは隆哉も美乃里も知っていた。


「――行こう、美乃里」

「うん。そうだね」

 隆哉たちは早歩きで信号を渡って行く。


 隆哉が渡り切り、美乃里があと少しで向かいの歩道に到達するところ――だった。


 ――僕はこの瞬間を今でも鮮明に覚えている。

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