第3話


 そしてついにやってきた決戦の日夜会当日


 普通なら会場には婚約者同伴で現れるのが当たり前なので、男性側が女性側の家まで馬車で迎えに行くのだが、直前まで会うことは許可されなかった二人は、各々の屋敷から会場となる伯爵家を目指した。


 伯爵家の馬車停留場で降車の順番を待つ間、フレデリカはずっとドキドキしっぱなしだった。父であるノーマンがそんな娘の緊張を少しでも解いてやろうと、色々言葉をかけたにも関わらず、そのほとんどは彼女の耳を素通りして。


 降車の順番が回ってきた時には先にノーマンが降りてエスコートするはずが、さっさとドレスを翻して降りてしまう始末だった。直後に慌てて父親に差し出された腕に手を添わせ、淑女としての振る舞いを思い出したものの、それも会場に入ってまた消え失せる。


 背筋を伸ばして首を巡らせ、会場内にいる有象無象の中からレオナールを探すフレデリカの姿を見て、一部の令嬢達はややひきつった表情で嗤い、一部の令嬢や令息達は見惚れた。


 芋虫が蛹から蝶になるように艶やかに。社交界で白樺令嬢と嗤われても俯いていたフレデリカ・アスランは華麗な変身を遂げていた。


 青いドレスの背中からオーガンジー越しに覗く染み一つない白い肌。緩く結われた癖のないプラチナブロンドが、彼女の動きに合わせてサラサラと揺れる。如何なる時でも決して上げられなかった顔は、よほど醜いのではないかという噂に反して意外にも整っており、一点艶めく深紅の口紅が、一際彼女の凛とした美しさを際立たせていた。 


 高すぎる身長を気にして以前までは履かなかったヒールのせいで、さらに目立つ高さになったのに、それにも気付かないように彼女は必死で婚約者の姿を探した。長らく婚約者を伴っていなかったフレデリカを、自分の息子に紹介してほしいとノーマンに声をかける者もいたが、それに対して彼は「ご冗談を」と微笑んだ。


一人、二人、三人、四人と、以前の気弱なフレデリカを知る子息達が胡散臭い笑みを浮かべて近付いては、彼女に「婚約者を探しておりますの。どうぞ常のようにこの白樺をお構いなく」と毅然とした態度で切り捨てられていく。


 緑の双眸が映したいのはたった一人。五ヶ月間交流を断たれていたレオナールとの婚約の有無が今夜決まる。そう思うだけでドレスの内側で膝が震えた。彼に限って万が一にも心変わりなどないだろうが、早く見つけないとダンスが始まってしまう。ファーストダンスは絶対に彼と一緒に踊りたかった。


 しかしそんな彼女の内心の不安さがまた物憂げな表情を作り出し、その姿に魅せられた子息達がフラフラと彼女の元に引き寄せられるという悪循環。中にはフレデリカを嗤っていた令嬢の婚約者も混ざっていたものの、彼女にとってそんなことはどうでもいいことだった。


 むしろ声をかけてくる相手の顔も階級も見ていない。あれだけ人目を気にしていた五ヶ月前を思えば、これは快挙である。けれど一人の上級貴族の子息が視線をちらとも寄越さぬ彼女に腹を立て、その細い手首を掴んで「この私が声をかけているんだぞ、こちらを見ないか!」と強引に引き寄せたその時。


わたし・・・の婚約者が他の男に視線を寄越さないのは当然のことでしょう。アーサー殿。このような場で婚約者のいる女性に声を荒げるなど、お父上のブライトン伯爵の顔に泥を塗るおつもりですか?」


 そうやや他の男性よりも低い位置から声をかけてきたのは、彼女が探して止まなかった愛しい婚約者。レオナール・バルバストルその人だった。


***


 ついにやってきた決戦の日夜会当日


 迎えに行きたいのを何とか堪え、父親であるドミニクに「今夜お前の成長を実感出来なければ……分かっているな?」と馬車の中で脅されつつ、伯爵家に到着後は馬車から飛び出したい気持ちを落ち着けるために、特注品の白手袋の甲を撫でてやり過ごした。


 伯爵家の馬車停留場で降車の順番が回ってきても貴族の子息らしく品良く降り、そこからは速歩で会場入りを果たして、死ぬ気で憶えた貴族名鑑の名前と顔を合致させながら、あくまでも余裕があるふりをして一時の〝社交〟をこなす。


 そうすると今夜が初めての社交界デビューである令嬢などは、噂で耳にしたレオナールと、現在目の前にいるレオナールとの姿の違いに興味を持って話しかけてきたりもした。正直、煩わしい。それが彼の偽らざる本心である。


 本当は会場入りした瞬間から、美しく変貌を遂げたフレデリカの姿に気付いていたし、自身の瞳の色のドレスを纏ってくれていることに安堵もした。すぐにも彼女を取り囲む男共を蹴散らしてやりたい気持ちでいっぱいだ。


 しかしそれでも背後から感じる父親の圧に奥歯を噛みしめ、まとわりついてくる令嬢達へ「緊張されているのですか? お可愛らしい」と心にもない言葉を贈り、貴族としての礼節を振り撒いていた。


 だがそれも一人の令嬢が近くのテーブルから赤ワインの入ったグラスを持って、フレデリカのいる方へと歩いていくまでのこと。にこやかに令嬢達との会話を切り上げてワインを持つ令嬢のあとをつけ、ちょうどフレデリカの背後に回り込んだその令嬢が、ワイングラスを投げつけようと振り上げた手首を取る。


 急に手首を掴まれた令嬢が怒りの表情を湛えて振り向くと、そこにはワイングラスを手から抜き取って一気に煽るレオナールの姿があった。そして「何をするのよ!」憤る令嬢に顔を近付けて――。


「それはこちらの台詞だエリス・アスター子爵令嬢。貴女はよほどわたしの婚約者に飲み物をかけるのがお好きと見える。あそこでわたしの婚約者に言い寄っているのは貴女の婚約者殿のようだ。彼女の美しさに男が狂うのは仕方がない。今回だけは可愛らしい嫉妬と見逃しましょう。ただし――、」


 そこで一旦言葉を切り、スルリと白手袋を外して露になった手で握られたワイングラスが、粉々に砕けて床へと散らばる。何事もなかった風にハンカチで手を拭ったレオナールがニコリと微笑むと、令嬢はへなへなとその場にへたりこんだ。


 無力化に成功したことを確認したレオナールは、返す刀で元凶となっている馬鹿子息の背後に気配を消して音もなく近付き、懸命に殺意を抑えながら声をかけた。


わたし・・・の婚約者が他の男に視線を寄越さないのは当然のことでしょう。アーサー殿。このような場で婚約者のいる女性に声を荒げるなど、お父上のブライトン伯爵の顔に泥を塗るおつもりですか?」


 直後にこちらを見下ろして潤む緑の双眸と視線が絡む。そうして改めて自身の婚約者は美しいと感じていると、場の空気を読まずにアーサーが口を開いた。


「上背ばかりみっともなく高い彼女が浮いていて哀れだから、わたしが貴族の義務として声をかけてやったんだ。むしろ感謝されたいくらいだぞ。それを無視するなど白樺風情――、」


 ダラダラと愚か者が面の皮の厚い言い訳を始めた次の瞬間、スパアァァァン! と小気味の良い破裂音がその場に響き渡ったかと思うと、突然アーサーがもんどりうちながら鼻血を噴いて倒れた。


 その足許には白い絹手袋が落ちている。床にぶち当たる時にカツーンと金属的な音を立てたが、その場に居合わせた誰もがそれを指摘する勇気はなかった。驚いた表情で固まるフレデリカの元に近寄り、彼女の腰を抱き寄せたレオナールが呆然とするアーサーに向かって口を開く。


「今のは我が婚約者への侮辱と受け取った。然るべき日取りを取り決め、後日決闘を申し込む。貴族の男であれば勿論お受け頂けるはずだ」


 地を這うような低い声音に尻で後ずさるアーサー。勝負はこの時点ですでについているようなものだが、ここで受けねば貴族としての沽券に関わる。周囲にいた友人達に手袋を拾わされた彼を見もせずに、レオナールは「そろそろダンスが始まるので失礼する」と言い置き、フレデリカを連れて騒ぎの輪を離れた。


 本来なら決闘というものは、被疑者が片方の手袋を外して地面・・に叩きつけ、この行為は身をもって証を立てるという意味がある。断じて鉄板入りの手袋を顔面にぶつけるものではない。


 告訴した相手はそれを拾い上げ、両者が神の名に誓い相手も同様に宣言を行うと、決闘日と武器が指定される……という面倒な手順があるのだが、近年だと時代遅れの風習だと廃れ、若い貴族はあまり詳しい手順を知らないこともしばしばだ。ちなみにレオナールのは完全に確信犯のそれである。


 それはさておき二人が会場の中心に戻ると、折よくダンス音楽の演奏が始まり、一斉に紳士淑女がダンスホールの方へと流れ込んできて、各々のパートナーと向かい合い身体を寄せ合う。それに倣ってレオナールとまだ事態が飲み込めていないフレデリカも向かい合ったのだが――。


 彼女の強くなるという決意の現れであるヒールが、普段でさえ十五リヨン差がある二人の身長を、さらに広げてしまっていた。その差、絶望の二十五リヨン。最早三十リヨンに迫る。


 これは世間一般の並んで歩きやすい十五リヨン、抱擁しやすい二十リヨン、口付けやすい十二リヨンを、大幅に上回っていた。ついでにこの差は一般的な男女に当てはまるもので、それすら逆転している二人にはまったく当てはまらない。つまるところ大人と子供の身長差だった。


「あ、あの、申し訳ありませんレオナール様。ただでさえみっともないのに……こんな見栄を張ってしまって」


 周囲がステップを踏み始めたホール内で、俯いて泣きそうな表情で自身を見下ろす婚約者に、レオナールは「良いんだ」と眩しいものを見るように優しく目を細めて、五ヶ月ぶりにその頬に触れた。


「以前も言ったはずだ。フレデリカを守る腕力があれば問題ないだろうと。それに身長を気にしていたら俺も踵の高い靴を履けば良いだけだ。なのに俺が今までそうしてこなかったのは何故だと思う?」


「わ、分かりません。でも、レオナール様はお優しいから、踵の高い靴を履いたら私が傷付くと思われたのでは……?」


「ハハ、何だそれは。全然違うぞ」


 笑いながら何でもないように、ほんの僅かに爪先が浮くくらい抱き上げたレオナールが、音楽に合わせてダンスのステップ踏み始める。そのことに慌てたフレデリカが恐々爪先を床につけようとすると、レオナールによって妨害された。


「正解はな、こうやって身長差を利用して踊ると、フレデリカが他の何もかもを気にしなくなるからだ。俺だけを瞳に映してくれるから、それが心地好くて昔からこの時間を独り占めしてしまう」


 口にしてから気持ち悪かっただろうかと気付いたレオナールだったが、そんな心配は杞憂だったと、抱き上げたフレデリカの顔を見上げてすぐに安堵する。


「レオナール様……私はこの五ヶ月間、貴男のことばかり考えておりました。貴男の隣に立つのに相応しくあれるようにと、ずっと、思っておりました」


 そう言って泣き笑いを浮かべたフレデリカが、自身の意思で爪先を床に下ろすことを、今度はレオナールも止めなかった。初めて二人で踏んだステップは、不思議と息がぴったり合って。


「いつものも良いが、これもこれでありだな」


「はい。私も……楽しい、です」


「フレデリカ、今まで辛い仕事を押し付けていたのだとやっと気付いた。本当にすまない。相変わらず他人に興味は持てないが、これからは俺も頭を使うように善処するから、呆れず支えてくれるだろうか?」


 そんな今更すぎるレオナールの確認の前に、俯き加減に優しく微笑むフレデリカの唇が「勿論、喜んでお受け致します」と。曲調が変わる瞬間その手を引いて爪先立ったレオナールが、深紅を奪うように口付けたけれど。


 遠巻きに見ていた二人の父親も、周囲の年嵩の人々も、そこは貴族らしく見なかったことにして。まだそう振る舞うには若い噂好きなスズメ達の中で。


 お互いしか瞳に映らない二人が無事に結婚し、新しく好意的な渾名を得て社交界で呼ばれるのは、もうあとほんの少しだけ先の話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

◆白樺令嬢と熊令息の、婚約事情とその顛末◆ ナユタ @44332011

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ