第2話


 とある国のとある場所。社交界に現存する最後の野生(誇張なし)と呼ばれる、一般成人男性よりも少し身長の低い令息がいた。名をレオナール・バルバストル。文武に優れ驕ることのない人柄を評価されるバルバストル子爵の次男で、あらゆる意味で有名な子息であった。


 彼は一般の成人男性より身長がニ十リヨンほど低いこともさることながら、あることで社交界デビュー前からとても有名な令息だった。


 そのあることとは極端に高い戦闘意欲と、協調性のなさだ。自身の家格より高い相手に対しての忖度も一切しない。だからといって別に無礼な振る舞いをするわけでもなく、単に他者への興味を全くといって良いほど持たないだけなのだ。どう贔屓目に見ても狂戦士バーサーカーでしかない。


 レオナールにとって人間は面白いもつまらないもない存在で、例外は家族とふわふわした婚約者とその父親くらいである。


 話は戻って社交界に現存する最後の野生(誇張なし)と呼ばれる、レオナール・バルバストルには、婚約者がいる。その名をフレデリカ・アスラン。家格は彼と同じ子爵令嬢だ。酷く気弱で他人と話そうとするたびに気絶しかけるほどだが、努力家で博識で、何より優しい面立ちと口調が好ましいと彼は思っていた。


 スラリと高くて美しい白百合のような華奢な身体を、ダンスの度に壊してしまわないか心配になる以外には。


 顔を上げると真っ青になって死にそうになる彼女を、周囲の口さがない人間達から庇うことは、獰猛な野性動物を相手にするより遥かに簡単なことだ。一部の人間などは動物よりも愚かで彼と彼女が一緒の時にからかって、彼に握手という名の人体破壊をされそうになるが、それも最近ではかなり減ってきた。


 結婚まではもう八ヶ月を切っている。家は長兄が継ぐし、婿入り先であるアスラン子爵の領地経営の方も、婚約者のフレデリカの手解きのおかげで……まぁ、多少マシにはなった。レオナールがかの地に持っていけそうなのは鍛えに鍛えた武術だけだが、すべてにおいて概ね順調だと。


 ――そう思っていた。

 鍛練中に父親の執務室に呼び出される今日この時までは。


「聞き間違いでなければ……あと五ヶ月で貴族名鑑をすべて憶えないと、フレデリカとの婚約を白紙に戻す。そう言ったのか、父上」


「そんな今にも射殺しそうな目で親を睨むな馬鹿者。話は最後まで聞け」


「何度聞き直したところで、父上が一度決めたことを翻すとは思えない」


「それはそうだ。しかし親の小言は聞け」


 そう言いながら書類の山を執務机の端に追いやった父親を見て、これは長くなりそうだとレオナールは露骨に眉を顰めた。本当は今すぐにでも部屋を飛び出してフレデリカを拐いに行きたいが、理由と小言は一応聞いておきたい。


 息子が部屋を飛び出す愚行に出ないことにひとまず安心しつつ、再度「小言を始めるぞ」と駄目押しをして本題に入った。 


「今日までお前とあの子のことを見守っていたが、レオナール。お前流石にあの子に頼りすぎだろう? 男だから女だからと言いたくはないがな、うちに娘がいて、相手がお前みたいな男だったら絶対に嫁にやらんぞ」


 青く切れ長な瞳に焦茶の髪。整えた口髭以外はほぼ同じ顔のパーツの父の口から出た言葉に、ふとやや筋肉質になりやすい家系から、フレデリカと同じ性別の兄妹が出てこなくて良かったと思うレオナール。


 癖のないプラチナブロンドと優しく知的な緑の双眸が脳裏に過った。その表情からそれとなく考えていることを察したらしいドミニクが溜息をつく。


「俺もフレデリカも苦手な部分は補い合っている」


「どこがだ。いや……まぁ確かに補ってはいるのか。比重が偏りすぎなだけで」


「彼女に仇なす輩は排除している。結婚したらフレデリカは領地に引きこもりたいと言っていたから、社交には出さない」


「それだ。それだよ、この愚息。貴族たるものそう言うわけにはいかんのだ。お前のことだからあの子と領地に引きこもれば、貴族の付き合いも貴族名鑑を憶える必要も関係なくなるとか思っとるのだろう? ノーマンは奥方の忘れ形見であるフレデリカを、自信のないままにしておきたくはないそうだ」


 将来義理の父親になる人物の名前を出されては、レオナールも若干考えを修正しなくてはならない。義父になるノーマンは穏やかでフレデリカに似ているところもあるが、芯の部分は目の前にいる父と友人関係でいられる人物なのだ。


 以前酔った父に『昔からノーマンを怒らせるとな、怒らせた奴のゴシップがどこからか社交界に流れるんだ。どんな聖人みたいな奴のでもな』と。確かそんなことを言っていた。幸いレオナール自身は野生の勘でこれまで怒らせたことはないが。


「ということで、だ。お前はこれから五ヶ月間フレデリカへの接触を禁じる。五ヶ月後にあるコルベット伯爵主催の夜会に出席することになっているから、お前はそれまでに貴族名鑑を暗記して、貴族らしい立ち居振舞いを憶えるんだ。あそこは夫人も伯爵も礼儀作法に厳しい方だからな」


「貴族名鑑とフレデリカに会えなくなる理由については……分かった。だが貴族らしい立ち居振舞いは嫌だ。それでは彼女を守れない」


「レオナール。貴族の喧嘩は目で威嚇することでも力に訴えることでもない。貴族らしく・・・・・、相手の顔面に手袋を叩きつける口実と、口上を考えられるようになれ。そのあとは得意の力で黙らせろ。この試練を乗り越えることが出来なければお前達の婚約は白紙に戻す。反論も反抗も許さん。逃げるなよ?」


 どこか愉快そうにそう告げる父を睨み付けつつ、婚約をちらつかされては了承する他ないレオナールは、苦々しい思いで頷き、執務室をあとにした。


 そしてそれからの二ヶ月間、レオナールは彼なりに頑張ったが、昨日今日始めたところで貴族名鑑の暗記と顔の照合など出来るはずもなく、結果は案の定惨憺さんたんたるもので……。


 名鑑とつくからには当然綴りも響きも似た順から始まる。この時点でもすでに心が挫けかけるのに、称号が名前につくのか、名字なのか、結婚後はどうなのかなどかや、その人物が貴族のどの爵位なのか、長男なのか、次男以下なのか――などなど。とにかく憶える項目が多い。


 上級貴族になればなるほど肩書きが増え、ファーストネーム、ミドルネーム、ラストネームと名前まで長ったらしくなる。ここに領地の名前まで入ると絶望感しかなかった。しかも一昔前ならいざ知らず、近年の貴族名鑑には准男爵も名を連ねている。難易度は天元突破していた。


 おまけに名前だけでなく顔も憶える必要があるため、少しでも名鑑に載っている名前との照合率を上げようと思えば、自然と大嫌いな社交にも顔を出す羽目になる。毎日昼間は楽しくもなければ興味もない場所に出向いて顔を憶え、夜は貴族名鑑を一頁目からめくっては昼間に憶えた顔との照合をする日々。


 一時は嫌いな貴族を闇討ちすれば、憶える人数が僅かなりとも減るのではないかといった危険な思想も出かけた。


 だがそういった弟の癇癪を見越した長兄が、三ヶ月目に父に恩情を与えるように申し出てくれたおかげで、会えない間のフレデリカの動向をノーマンに手紙で教えてもらえるようになると、事態は急に好転する。


「茶会でフレデリカにわざと紅茶をかけたエリス嬢の婚約者は……ブライトン伯爵家のアーサーか……成程」


 このように負の感情で紐付けされた情報なら、レオナールのあまり容量の大きくない脳にも刻み込めた。次々に出てくるフレデリカを虐めた令嬢とその婚約者や伴侶に狙いを定め、レオナールは邁進する。


 その傍らに【決闘の手引き】なる本と、内側に鉄の板らしきものが縫い付けられている絹の白手袋があることには、家人ですら触れない。

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