◆白樺令嬢と熊令息の、婚約事情とその顛末◆

ナユタ

第1話


 とある国のとある場所。社交界で白樺令嬢と呼ばれる、一般成人男性よりも少し身長の高い令嬢がいた。


 名をフレデリカ・アスラン子爵令嬢。妻を早くに亡くしたアスラン子爵の一人娘で、才女と名高い十七歳のうら若きご令嬢である――が。


 彼女は高すぎる身長もさることながら、あることで社交界デビュー前からとても有名な令嬢だった。そのあることとは、極度のあがり症と人見知り。普通ならそんな令嬢につけられる渾名は、ウサギやリスといった可愛らしい小動物が連想されるが、如何せん身長が高すぎるのである。


 それに癖のないプラチナブロンドと、人目につかないよう陽の高い時間は極力室内にいるせいで、肌は不健康なまでに白い。常に下を向いている視線を前に向ければ、その知的な緑色の瞳に気が付く者もいるはずなのだが……。


 精神が細やかすぎて(または臆病すぎて)二十歳までは生きられないのではないかと、最早持病の域に達する気絶の頻度で医者に心配されてきた彼女に、そんなことが出来るはずもなく。


 故にフレデリカ・アスラン子爵令嬢はその見た目に一番近しそうな物として、白樺令嬢との渾名を冠された。そう。あの森で見かければ一発で場所と名前を当てられる、ノッポで白い樹である。目立ちたくないのにこの上なく目立つ。一周回って笑えば良いような性質の持ち主だった。


 そうして彼女はその性質を家族に対しても発揮した。そんなものだから、父親の執務室に呼ばれるのは年に一度あるかないかといった具合。というか、それですら何か不興を買ったのかとグルグル考え込み、過呼吸を起こして気絶したこともあるので、親子で話をするのは専らバラの見事な庭園の一角である。


「お、お父様、今のお言葉は……わたくしの、聞き間違いでしょうか?」


 フレデリカは、久しぶりに父親であるノーマンに呼ばれた時から何となく嫌な予感はしていた。していたが――……事態は予想以上に最悪だった。


「いいや、フレデリカ。残念ながら聞き間違いではない。この話はレオナールも、バルバストル子爵もすでに納得されている」


「レオナール様も……」


 レオナールとは極度の人見知りであがり症の彼女が、十二歳になる頃にようやく見つけた婚約者の名前だ。ノーマンの学生時代の友人の次男坊で、彼女と同じく婚約者を見つけることに友人が悲観的になっていた訳あり物件だ。当時の顔合わせは、両者の利害と友情が奇跡の合致を見せた瞬間だった。


 そうしてそれは両者の子供である二人がお互いを気に入るという完璧な形で、これまた奇跡の合致を見せた。いわく、身長を馬鹿にしなかったからという臆病な理由の娘と、こいつとの婚約だけは嫌だと泣いたり喚いたりしなかったという、あまりに野生な子息の答え。普通に考えれば何も良くない。だが――。


 もうこれで手を打とう。

 どちらの親も口には出さなかったものの、そういう心境だった。


 そういうわけでこの名を口にする時だけは、彼女も一応その辺りの普通の令嬢達のように頬をうっすら赤く染める。しかしそれも常ならばだ。今はその名を呼ぶ緑色の双眸に涙の膜が張っている。


「レオナール様もこの婚約を白紙にすることに納得を……?」


「彼が納得しないところで、決めるのはわたしとドミニクだ」


 人見知りと病的なあがり症からくる気絶癖のせいで、学園に通うことのなかったフレデリカではあるものの、屋敷で扉一枚隔てて家庭教師と行った授業のおかげで、純粋な学力だけなら学園に在学中の誰より成績が良かった。


 学園の非常勤講師であった家庭教師の言葉であるだけにそれは間違いない。何度かきちんと学園に通ってみてはどうかと勧められたが、フレデリカは頑としてその提案に頷かなかったのである。


 因みに同じ試験問題を学園で解いたレオナールの結果は惨憺たるもので、彼はフレデリカの採点結果を見て大袈裟なくらい誉めてくれた。


「良いかいフレデリカ、わたしはお前達に〝互いの不得手を補い合えるような婚約者になりなさい〟と言った。確かに言ったが……お前達は限度を知らなさすぎる」


「あの、ですけれどお父様……夫婦になるのに、支え合うことに限度など、なくてもよろしいのでは?」


「ああ、そうだな。わたしとてそう思っていた」


「で、でしたら――、」


「お前が学業全般を受け持つ代わりに、レオナールがお前が苦手なダンスを完璧にこなし、夜会や舞踏会ではお前の爪先すら床につけないまま終えてしまう。そしてそのレオナールは元来他人に興味がないせいで、夜会の席で主賓の顔の見分けもつかず、貴族名鑑の名前をほとんど憶えていない」


「えぇと、それは……貴族名鑑を憶えるのは、わたくしの役目ですから……」


「確かにレオナールはお前の楯であろうとすることには熱心だが、領地経営の分野もほとんどお前に頼りきりだろう。わたし達はお前達がこの歪さに途中で気付くと思っていた」


 溜息と勢いに乗せてノーマンの口から吐き出された言葉に、だってそんなのは今更じゃないですかとは言えないフレデリカである。加えて緊張はピークに達し、もう気絶寸前だった。


 けれど何とか踏み留まり、前回小さな夜会で行われた余興のダンスの際に、レオナールが高身長な自分を爪先が床から少し浮くくらい抱き上げて、高速で一曲躍りきってくれたことを思い出す。


 一応フレデリカとて子爵令嬢。ダンスのステップを憶えていないわけではない。けれど周囲からの視線でどうしても脚が思うように動かなくなるのだ。つまらないところで躓いて、ぎこちない動きをしようものならその身長で会場のどこから見ていても居場所がバレる。


 ダンスは彼女にとって鬼門だった。それがレオナールの存在で一変したのだ。逞しい腕に支えられ、厚い胸板に守られて。フレデリカを見てクスクスと笑う周囲の視線を一睨みで黙らせながら、いつだって最短で切り上げてくれた。


 青い瞳に短い焦茶の髪。筋肉質でがっしりとした彼の身長は、フレデリカよりも十五リヨンほど低いけれど。世間的には女性の方が背が高いことを気にする風潮が強いのに、レオナールはそんなことは一切気にしない。


 いつだって『身長? そんなものフレデリカを守る腕力があれば問題ないだろ』と。そんな風に言ってくれるのだ。その時のやりとりを思い出すだけでうっとりと頬を染めてしまう娘を前に、それでもノーマンは心を鬼にして言った。

 

「今日から五ヶ月、レオナールとの接触を禁じる。そしてその間に一人でお茶会に出て、他家の人達と社交をするんだ。フレデリカ、依存と支え合いは似ているようで違う。五ヶ月後にあるコルベット伯爵主催の夜会に出席することになっている。それまでにレオナールがいなくとも自らを強く保てるようになりなさい。この試練を乗り越えることが出来なければお前達の婚約は白紙に戻す」


 ――……スゥッ。

 フレデリカは今度こそ気絶した。


 実質の死刑宣告を娘に向けて口にしたものの、彼もまた内心では祈る気持ちでいた。出来れば頑張って乗り越えてくれと。気絶している娘の精神に念で語りかけた。当然のことながら返事はなかった。


 彼も男手一つで育て上げた可愛い娘を千尋の谷に突き落とすのは嫌だ。正直嫌われたくない。それでもここで何とかしないとあとで困るのは当人達である。貴族社会は弱肉強食。陰では足の引っ張り合いだ。


 そんなところにあの世間を無視した親友の息子と、歩いているだけで儚くなりそうな娘をそのまま放り出せない。気絶中の娘に「許せよ、フレデリカ」と呟く父の声は、やっぱり彼女には届かなかった。


 父に死刑宣告にも等しい宣言をされた日からの二ヶ月間、フレデリカは彼女なりに頑張った。しかし結果は惨憺さんたんたるもので……。


 一人でお茶会に出向いては開始十五分で貧血を起こして倒れたり、遠巻きに影口を叩かれて残り時間を植え込みの間にしゃがんでやり過ごしたり、わざとドレスに紅茶をぶちまけられて失神したり。


 とにかく毎日が悲惨な状況で好転する気配はまるでない。そんな状況でも毎日お茶会の招待状が絶えないのは、ご令嬢達がレオナール狂犬を連れていないフレデリカオモチャを共有したいがためだった。


 日に日に顔色が化粧で誤魔化せなくなるくらい悪化していくことを、父が心配しているのは分かっている。レオナールにも会えない。何も得られないまま鬱々とした日が過ぎたものの、部屋の壁にかけられたバツ印でいっぱいになった暦の三枚目をめくった時に、フレデリカは悟った。


 あと二枚この紙切れをめくればレオナールと別れる羽目になる、と。それもあのつまらない虐めをして優越感に浸る令嬢達のせいで。人生に必要のない人間達のせいで人生に最も必要な人を手離さなければならなくなる。


 そのことを急に現実的な日数として突きつけられた時、フレデリカは覚醒しキレた。


「私は……結婚するなら、レオナール様が良いのよ」


 フラフラと鏡台の前に座って鏡に映る自身にそう言うと、いつもは目立ちたくないからと手にしない深紅の口紅を手にして、その常なら淡い色に彩られる唇に初めてのせた。あの強く抱き寄せてくれる腕の中に戻りたいなら。


「――……戦わないと、フレデリカ」 


 言い聞かせるようにぎこちない微笑みを浮かべる唇に、深紅の艶めく花が咲く。

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