第78話 別れ 4
ハミを失ったと同時に、夜が明けきる事には自分自身もすっかり消えてしまっているのではないか、と思った。
「ハン・マレン」
聞き覚えのある声を、マルは自分の背後に聞いた。マルは立ち止まって振り返り、黒づくめの格好の女を目にした。それはヒサリ先生の立ち姿に非常によく似ているが、全くの別人である事をマルは知っていた。
「ラン……どうしてここへ?」
「別に理由なんか無いわよ。あんたを見てると面白いから、こうして観察してるだけ。あのハミって子と喧嘩別れでもしたの? ご愁傷様」
「それを言うためにおらを呼び止めたのか? もう行かせてくれよ」
「待ちなさいよ。あれだけあんたと親密にしておいて、あんたと結婚しようかって勢いだったのに突然さよならなんて変だと思わない? あたしはずっと思ってたわ。あのクワラ・ハミって女にはきっと何かあるって。トアン大学に入るようなエリートのお嬢さんが土人の男と結婚なんかするかしら。あたしの見たところ間違いない。あの女は諜報員よ。あんたの行動を逐一調査していたのよ」
その言葉を聞いてももはや深い沼のような心にさざ波さえ立つ事は無かった。自分のハミへの愛情もハミの自分への愛情も偽りだったのか……。マルは再びフラフラと歩き始めた。
「ねえ、これから一体どこへ行く気よ」
「分からない」
不意にランがマルの方に歩み寄ったかと思うと、マルの腕に自分の腕を絡ませた。
「何!?」
「そんなに嫌がらないでよ。この体、空いてるんでしょ。だったらちょっと付き合ってよ」
「付き合うって、どこへ?」
「寂しい男や女の行く所よ」
腕をがっちり絡ませられたマルは、引きずられるようにランについて行った。ランの力は強かった。抗おうとしても無理だったが、そんな気持ちもマルから失われていた。夜明け前から働く人々の声がマルの耳に届く。
(ああ……自分達の愛が偽りであっても、この人達の営みだけは確かだ……)
ランに連れられてたどり着いたのは薄暗い壁のホテルだった。部屋に入ると、その真ん中には毒々しい赤い敷布を載せた巨大なベッドがあった。その様子はどこか妖怪じみていた。マルはこの瞬間。目の前の人が自分のずっと思い続けてきた人の妹だ、という事を思い出した。
「今朝、タガタイから帰って来た。君の姉さんをタガタイで探した。でも見つける事が出来なかった。君は何か消息を知らない?」
「知らないわよ。姉さんは変わり者だもの。本当に懲りない男よね。女にふられたばっかりだっていうのに、あんたの気持ちは姉さんの事ばっかり。そのせいであんたは全てを失ったのに」
ランは巨大な寝台にドスンと腰を下ろした。そしてサッと自分の腰ひもを外したかと思うと自分の上衣をずらした。薄暗い部屋の中で、彼女の裸の輪郭が露わになるのをマルはじっと見ていた。
「寂しい男は寂しい男のする事をしたらどうなの? 臆病な詩人さん。あなたの思う人の幻がここにあるわよ」
それは空虚な心に響く悪魔の囁きのようであった。それは一度闇に落ちた人間をどん底に突き落とす勢いでマルにのしかかった。マルは何かにとりつかれたように女の体をベッドに押し込んだ。
マルはこれまでただの一度も女性と体を重ねた事が無かった。そして今、その相手は自分が愛した人でも真剣に結婚を考えた人でもない。幻影なのだ。マルは、その幻影を荒々しく攻め立てるように相手を抱きしめた。
どれ程の時間が過ぎたろうか。マルは幻影から体を引き離した。そして寝台の、彼女の座っている横に腰かけた。チラリと横目に見たランの目には涙が光っている。それを目にした瞬間、マルは茫然とした。今横に座っているのはランという女性であり人間だ。亡霊や化身などではない。なぜ? 一体なぜ彼女は泣いているのだろう? 自分がたった今した事は彼女を傷付けたのか? 彼女もまた自分と同じような哀れな人間なのか……?
ランは自分の頬を流れ落ちる涙をぬぐったかと思うと、寝台の上に脱ぎ捨てられた服を手に取り、サッと身にまとった。そしてマルの目の前を通り過ぎ、扉を開けて出て行った。マルは、カーテンの隙間より滲み入る朝日によってすっかり明るくなった部屋にただ一人いた。わずかな時間に二人の女性に去られた身体は、白々としていた。自分の内にあったはずの黒々とした豊穣の土はどこへ? 真っ白な身体は、詩の言葉を生み出そうとしなかった。やがてマルは窓辺に立ち、少し開いたカーテンから外を見た。カサンの朝日までが巨大な白の空白で、真っ白な街に降り注いでいるように見えた。
完
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