第77話 別れ 3

 再びカサン帝国の首都トアンに向かう船の上にあって、マルは真っ暗な夜の海を見詰めていた。

(この海のどこまでアジェンナの海でどこからカサンの海なんだろう……)

 そう思ったものの、次の瞬間、そんな事を思うのはばかばかしい、と思った。海の水というのは常に混ざり合っているものではないか。海の水だけではない。夜闇の中では空と海との区別もつかない。夜闇は癒しだ。何かと何かを隔てるものは消え去り、全てが一つにするかのような優しさがある。

 ヒサリ先生は今何をしているのだろう? 子どもの流産や夫の不貞に心を痛めて家を出たのは間違い無い。マルの脳裏に浮かぶのはかつての厳しい先生ではない。一人の傷付いた女性だった。彼女を背中からそっと抱きしめる自分。今のヒサリ先生なら自分のものに出来るのではないか、そんな思いが頭を過ったとたん、大きく頭を振った。

(そんな事思っちゃダメだ、ダメだ、ダメだ、絶対に……!)

 マルは海の上にいる間、甲板にずっとヒサリ先生の幻影を見ていた。その幻影に触れる事は決して出来ない。そしてヒサリ先生が幻影のヒサリ先生が振り返る事も無い。

 船が港に着いた時はまだ夜明け前だった。道の両脇に立っているガス灯の明かりを頼りにトアンの街中に続く煉瓦の敷かれた道をを歩いた。

 下宿にたどり着くと、扉を開け、二階の自分の部屋の前に立った。そして扉を開けた。部屋の奥で人影が動いたのが分かった。マルはギョッとして一瞬身を竦めたが、すぐにそれがハミだという事に気が付いた。

「ハミ! どうして? こんな真っ暗な所に。明かりを点けよう」

「イヤよ。イヤ。お願い。このままにしていて。私の顔を見ないで!」

 マルは、普段は落ち着いているハミがひどく取り乱している事に驚いた。

「ハミ、一体何が……」

 暗がりの中で、ハミがマルの腕を取った。

「あまたとはもうお別れしないと」

「え! 何だって!」

「もうこれ以上、あなたとの交際を続けるわけにはいかない」

「どうして! なんでそんな事急に!」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

「そんな事言われて『はい、分かりました』なんて言えるはずないじゃないか! 訳を聞かせて!」

 マルはそう言いかけて言葉を飲み込んだ。彼女はもしや自分の出自やかつて醜い病気を持っていた事を知ったのではないか。

「もし理由を知ったら、あなたは私を恨むでしょうね」

「きっとそうだな!」

 思わず荒々しい声を発していた。

「植民地の男なんかとはやっぱり結婚出来ない、そういう事?」

「そうじゃない。違うのよ。ある人と結婚が決まったの。親が決めた結婚よ。逆らう事は出来ないわ。資産家なの。せめての罪滅ぼしに、あなたの大学卒業までに必要な学費は全て支払っておいたわ。どうか安心して学業に励んで、学校を卒業していい人を見つけてちょうだい」

「なんてひどい人なんだ君は! そんな手切れ金なんかで別れようだなんて! 君の婚約者を殴ってでも君を取り返す!

「嘘よ! そんな事思ってもないくせに!」

 ハミは突然、叫ぶように言った。

「あなたの心の中心に私はいない。あなたの心の中心にいるのはいつもあの先生。そうでしょ!」

「そんな! それとこれとは全く別だ! その人は恩師なんだ。だから生徒として当然の……」

 しかしマルは言いかけて絶句した。自分のヒサリ先生に対する思いは明らかに生徒が師に対して持つべき親愛の情を逸脱している。

「そのせいで、私がどんなに苦しんできたか分かる?」

「…………」

 マルは言葉を発する事も出来ず、闇の中で彼女の息を聞いていた。

「私はあなたを裏切ったのは事実よ。でも私はあなたに出会ってから、私の情熱の全てをあなたに捧げてきた。あなたはそうじゃなかった」

 マルはハミの絞り出すような一言一言を聞きながら、まるで魔法にかけられたように動けなかった。

「さようなら。愛しい人! 時々私の事を思い出してくれたら嬉しいわ……憎んでくれたっていいから」

 熱を帯びたその体はマルの前から移り、マルの背中の後ろでカタンと音を立てて消えた。 

 それからしばらくの間、マルにかけられた魔法は消えなかった。しかし、やがてハッと気が付いたマルは慌てて部屋の扉を開け、下宿の階段を駆け下りた。

「ハミ! ハミ!」

 しかしその姿は既にどこにも無かった。まるで朝日に溶けてしまったかのように。少しずつ明るさの増してゆく街を、マルは走った。朝の光がトアン大寺院の屋根瓦を輝かせるのを見た時、マルは足を止めた。

(自分はこれまで一体何を求めていたのだろう。ハミと共に、カサンの立派な市民として生きる未来? すべてが幻影だったのだ。自分はずっとハミを裏切り続けていた今、その手痛いしっぺ返しを受けたんだ……)

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