第76話 別れ 2

「それから……」

 男は一度口を閉じが。その視線が少しばかり柔らかくなったようにヒサリには感じられた。

「君の教え子のハン・マレン君について、優秀な捜査員がついて相当な情報が届いている。なかなか才能溢れる、魅力的な若者のようだね」

 ヒサリはハッとして、相手の顔を見返した。

「彼はかなり自由奔放で変わった考え方をする男のようだ。ただ反カサン思想の持主、とは言えないだろう。彼はしょっちゅう色々な人に手紙を書いている。しかし彼の交友関係についても、特に危険思想との関わりというものは見当たらない」

「ちょっと待って下さい。彼の部屋の中に入る程親しい友人の中に諜報員がいるという事ですか」

「そうだ。トアン大学に入る程の優秀な植民地の若者には当然、危険思想を持っていないかどうかの調査員が付く事になる。それは常識だ」

「そうですか……」

 ヒサリは頭では納得しつつも、マルの事を気の毒だと思った。この事を彼が知ったらどれ程ショックを受けるだろうか。

「君は彼を幼い事から知っているね。彼の家族、あるいは子どもの頃交友関係に、危険思想を持ちそうな人物はいなかったかね。少しでも思い当たる者がいるなら挙げてみてくれたまえ」

「承知しておりません。彼は天涯孤独の身で、彼に悪影響を及ぼすような家族や親戚はおりません」

「彼の家族で、あの地の巨大ダム関連で死んだ者がいないかね?」

「それが一体、何の関係が有るのでしょうか」

「ダムの建設における現地人の動員、およびダム決壊により大勢の死者が出た事は、アジェンナ統治機構における最大の汚点の一つだ。かの地において反カサンゲリラが跋扈している原因の一つでもある」

「けれども彼は……」

「ハン・マレン君は周りの人間を魅了する人間のようだね。しかも極貧の状況から身を起こしてトアン大学にまで言った優秀な男だ。君が擁護したい気持ちも分かる。しかし彼が反カサン的な思想を持つ条件は揃っている。彼の出自、そして教育を受けた人間である事などを鑑みると、引き続き彼への厳重な監視は続けざるを得ない」

 男は一度言葉を切った後、おもむろにこう告げた。

「今、彼の傍について我々に詳細な情報を送ってきているのは若い女性だ。君とは正反対のおっとりとした雰囲気の女性だが、なかなかの切れ者だ。名前を出せば君も驚く程有名な将軍のお嬢さんだ。ただ困った事に、彼女はどうやら彼に情が移ってきているようだ。そろそろ彼女をハン・マレンから離す必要がある。この仕事にはこのような事は付き物だ。冷静に見えるなあなたとて例外ではないと我々は考えている」

 ヒサリは頭を垂れたまま男の言葉を聞いていた。ああマル! 愛しいマル! あなたが今、一人の女性と深い仲になっているのは知っていた。けれども真実を知ったらどれ程傷付き悲しむだろう! 出来れば彼をそっと抱きしめてあげたい。しかし今、彼は遠い場所にいる。

 そして、今の自分には、彼を抱きしめる資格すら無い。

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