第75話 別れ 1 

 ヒサリが赴任する事になった新たな学校は、表向き諜報員養成学校である事は伏せられ、単に「アジェンナ文化研究所」という名前で呼ばれていた。

 その建物は田舎の中学校程度の、ごく質素な外観であった。教室とは言えない程のごく狭い部屋で、一回に十五人程度の生徒を入れ替わりで教えた。生徒は十代後半から、中には自分より年上と思われる者、少数だが女性もいる。民族はカサン人もいればアジェンナ北部のアジュ人もいる。ヒサリは彼らにアマン語と自分の知る限りの南部の風習や文化について教えた。生徒達の出自や本名は伏せられ、全員仮の名で呼ばれていた。

ヒサリは生徒達に対し強く訴えた。

「我々の任務は、誰一人虐げられる事の無い平和な社会を築く事です。憎しみで任務に当たってはなりません。南部アマンの民を敵だと思ってはなりません。我々の任務は、アジェンナ国とカサン帝国の平和と生活の向上を妨げる輩との闘いなのです。アマン人の気持ちを理解するよう務めて下さい。愛を持って接して下さい。ゲリラは彼らのうちごくわずかです。南部の人達は、本当に賢く豊な心を持っています」

 生徒達は皆ヒサリに熱のこもった視線を注ぎながら頷くのだった。

 ヒサリの愛してやまぬアジェンナの南部。北部に比べ百年は遅れた未開の地と言われてはいるものの、様々な物語や踊りなどの伝統が育まれてきた豊穣の大地。その地が近年、急速に治安が悪化し、数々のゲリラの活動が影を落としている。

(カサン帝国の恩恵が十分行き渡っていないからだわ……)

 ヒサリは思った。富は北部に偏在し南部は置き去りだ。貧しい生活を送る者がまだまだ多い。この事が現在のこの国の混乱を招いているのだ。

(本当はゲリラに関する情報を集めるより、彼らを教育したい……)

 ヒサリは思った。教育こそが人々の暮らしを豊かにする。スンバ村の自分の教え子達は身をもってその事を証明したではないか。しかし平和が訪れない限り、教育活動が出来ない事もまた事実であった。

 ヒサリはある日、授業を終えて教室を出ようとした時、一人の男に呼び止められた。私服姿ではあるが、押し出しの良い体つきから、軍人であろうと察せられた。

「オモ・ヒサリ君かね」

「はい」

「何でしょうか、私ごときに。大尉殿。……いえ、もしかしたら大佐殿かもしれませんね」

「これはこれは。噂に聞くオモ・ヒサリ先生はさすがに慧眼でありますな」

 男はいかつい顔をニヤリと捻るように笑った。

「こちらで少し話を聞かせて欲しい」

 ヒサリが案内されたのは、まるで独房を思わせるような小さな部屋だった。そこには机とそれを挟む二脚の椅子以外何も無かった。鉄の扉がガチャンと閉じられると同時に背中がゾクッと震えるのが分かった。もし仮にここで乱暴されて大声で叫んだとしても、決して気付かれないだろう。男はヒサリと向き合う形で机の前に腰掛けた。男の四角い顔のくぼんだ目から放たれるほの暗い光が、じっとヒサリに注がれている。

「あなたには、ここの生徒を教えるとともに、直接諜報活動にも関わっていただく。まず身近な所から始めてもらいたい。あなたはかつて南部の小学校で教えた事があるという事だが、その中にゲリラに身を投じる可能性のある者はいなかったかね?」

「まさか! そんな者は私の教え子にはおりません!」

 ヒサリはきっぱりと言い切った。

「つまり、自分の教え子はみな立派な帝国臣民になったと自信を持っているという事かね? アマン人とは君が思うよりもやっかいな輩だ」

 男のざらついた視線がヒサリの顔面に注がれている。

「君の教え子の中で素行の悪い者はいなかったか? あるいはシャク人はいなかったかね?」

 ヒサリはハッとした。とっさにニジャイの顔が浮かんだ。

「シャク人の生徒はいました。しかし反カサン思想を持つような子では……」

「いいかね。シャク人というのは金のある所に群がる輩だ。シャク人のゲリラ団にはピッポニアから多額の資金が流れ込んでいる。そこに不良の若者達が引き寄せられている」

 ヒサリは息が詰まったように黙り込んだ。ニジャイがそういったゲリラの仲間に加わる事は十分に考えられる、と思った。

「だが、私の見解では……」

 男の視線が、ヒサリの顔面を焦がすかのように注がれている。

「シャク人は金のある所に飛びつき、金が尽きればすぐに寝返る。ある意味わかりやすい連中だ。もっとやっかいなのは実態も分からない有象無象の輩だ。零細農民の集まりであるとか、それとは違う無法者の集まりだとか、いろいろな噂がある。学問を受けたリーダーを中心に集まっているという報告もある。この狂暴な猿どもの実態を把握する事が求められている」

「猿ども、などという言い方は止めてください」

「成程、アジェンナ人への蔑視を決して許さぬ人だと報告を受けているがまさにその通りの人だね君は」

「この機関はアジェンナ人への差別を基に成り立っているのでしょうか。それならば協力はいたしかねます」

「猿というのは、この国に対して破壊的な行動をする者に対してだ。アジェンナ人全般に対して言っているのではない」

「そうですか。分かりました」

「では質問を改めよう。君の教え子の中に、調査に協力してくれそうな者はいないかね?」

 ヒサリがその言葉を聞き、真っ先に頭に思い浮かべたのはダビだった。ダビが時折ヒサリに送ってくる手紙によれば、彼は自分の家族や靴屋仲間が作った靴をカサン軍の他あちこちの商店に手広く卸す仕事をしているらしい。情報収集には適した位置にいると言える。さらに、ヒサリには確信があった。

(彼は恐らく、喜んでこの任務に当たってくれるだろう)

 ダビは靴屋、という自分の境遇に満足していなかった。ヒサリが、それがどれだけ大切な仕事であるかという事やカサン軍が彼らの靴のお陰でどれ程強くなったかという事を説いても無駄だった。ダビは手紙にこう書いてきた。

「オモ先生、我々の仕事は、お金は儲かります。それは間違いありません。けれども妖獣の皮を扱う仕事をする限り、私はずっと蔑まれ続けるのです。この国では」

 ヒサリは、生徒の中で一番向上心の強かった彼が、受けた学問の見返りを受けられていない事がただただ心苦しかった。彼は恐らく役人やカサン軍の士官といった地位に就きたかったのだろう。しかしこの国の古くからの慣習がそれを阻んでいる。妖人である彼が高い地位につこうとしても、現実的には難しい。さらにダビは、名誉という物を最もよく理解している男だった。彼は国の繁栄という大きな目的のためなら、自己を犠牲にする事も厭わないだろう。

「協力してくれそうな生徒はいます。ただ、彼の身に危険はありませんか?」

「ひとまず、その者には現地の情報を送ってもらう事になる。勿論差出人の名は仮名を使い、手紙の内容は暗号を用いる。この学校で教えられている通りだ。それでも絶対に危険が無い、とは言い切れない。それでもやってくれる勇気のある者を求めているのだ」

(やっぱり、いけない)

 ヒサリは思った。

(教師として、それだけはやってはいけない。教え子の身を危険に晒すなどと言う事は)

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