第74話 見世物小屋の惨劇 2 

 シャールーンは舞台の袖から、客席でひどく騒ぎ立てている数人のカサン兵がいる事を確認した。

(嫌な客だ……)

 カサン兵の客には時折ひどく下品な者がいる。この事にシャールーンはたびたび戸惑いを感じてきた。 

 オモ先生の学校に通っていた頃は、カサン人というのはみな立派で道徳的で自分達アマン人のように野蛮な所など無いものと信じていた。しかし成長するに従って、その考えは誤りである事を思い知らされた。そして見世物小屋にやって来るカサン兵に対してもにこやかな笑顔を見せ、カサン語を話しながらもてなし、体を重ねるミヌーに対し、今では尊敬の念すら抱いていた。自分には絶対にそんな事は出来ない。幸い、ジャイばあさんにもロロおじさんにも男と寝る事を強要される事は無かった。もっともロロおじさんからは時折嫌味を言われたが、

「私の体に触れる男の首はかき切ってやる」

 と凄めば、首をすくめて立ち去った。口の重い自分がたまに口を開けばそういう事しか言えない。そんな自分に、シャールーンは自分でも呆れていた。

 楽の音と共に、シャールーンは鈴を付けた足首でシャンシャンと地面を叩きながら、舞台の中央に出た。大概、この時点で客席は水を打ったように静まり返る。しかし今日は一向に静かにならなかった。酒が入っているのだろうか? 時折

「ウイーッ」

 と奇怪な声を上げている者もいる。今日の客はとりわけ質が悪い。目の前の客が悪ければ遠くの人にこの踊りを捧げよう、とシャールーンは意識を集中させた。

(ヤーシーン王子様……)

 シャールーンは、数年前に出会った色黒の青年の事を思った。それは運命の導きであるかのようだった。あのお方は、いずれ必ずアジェンナ国王となるであろう。しかしその前途は決して平穏ではない。どのような陰謀が彼を陥れようと待ち受けている事か。

(ああ、あなたをお傍でお守り出来ない事が悔しい。その代わりに私はこの踊りをあなたに捧げます。これがあなたにとってのお守りになりますように……)

 シャールーンは手にした竪琴をかき鳴らし、さらに足を踏み鳴らして回転の速度を速めた。

 今日の「竪琴と弓の踊り」は、アジェンナに伝わる昔話が元になっている。かつてマルが、その物語を手紙にとても上手に書いて教えてくれた。主人公の女武将は踊り子に扮して敵陣に入り、竪琴をかきならしつつ華麗に舞い、敵の将軍を魅了する。最後に髪に挿していたかんざしを目にも止まらぬ速さで竪琴の弦につがえて夢心地の境地の敵の大将を射殺すのである。シャールーンはやがて、目の前の騒々しい客の事は忘れ、まるで自分が物語の主人公になったかのように恍惚となりながら舞い続けた。

(そうだ、私には士族の血が流れている! 私は戦士のように舞う! 馬で駆け、剣で風を切り裂き、弓で敵の首を刺し貫くように!)

 踊りを終えると、シャールーンはまさに、敵陣より脱兎の如く逃げ去るかのように舞台の袖に走り込んだ。

 「竪琴と弓の踊り」はとりわけ体力を消耗するが、終わった時の充実感も大きい。シャールーンは茣蓙の上に座り、柱に背中をもたれて竹筒の中の水をがぶがぶと飲んだ。そして、遠くにいる人にゆっくりと思いを馳せた。

 やがて、外の方から、数人の男達が騒ぐ声が聞こえてきた。何と言っているのかはっきりと聞き取れないが、カサン語である事は分かった。シャールーンはゆっくりと立ち上がった。自分が一番体が大きく腕っぷしが強いのだから、いざとなれば自分が下品な輩を追い払わなけばならない。

 シャールーンが小屋の外に出ようとしたその時だった。ロロおじさんが、まるで自分にぶつかりそうな勢いで駆けてきた。……が、次の瞬間、勢いはどこへやら、彼はまるで全身が縮んでしまいそうな卑屈な様子で、揉み手をしながら

「シャールーンや……」

 と言った。シャールーンは初老の男の猫なで声を聞きつつ、嫌な予感がした。

「あんたがこういう事が嫌いなのは分かってる。だけどな、いっぺん、いっぺんだけでいい、お客さんの相手をしてくれんかね」

 シャールーンは、ギュッと唇を引き絞った。そんな事ではないかと思った! この痩せた男が断れないなら、自分が直接そんな事はお断りだと言ってやる! シャールーンが何も言わないまま決然とした足取りで出て行くのに気付いたロロおじさんは、

「おいおいおい!」

 とシャールーンを引き留めた。

「シャールーンや、頼むよ! カサンの兵隊さん達の気分を悪くするような事だけはやめとくれ、なあ、なあ!」

 しかしシャールーンは追いすがるロロおじさんを振り切って歩いた。

 ジャイばあさんが激しい罵り声が聞こえた。

「バカ言うんじゃないよ! あの子は踊り子なんだ! 娼婦じゃないんだよ!」

 シャールーンは慌てて駆け出した。ジャイばあさんは、相手が誰であろうがかまわずずけずけと物を言う。見世物小屋の裏では、三人のカサン兵に向き合い、ジャイばあさんとミヌーが立っていた。恐らくミヌーが、カサン兵がカサン語でまくし立てる事をジャイばあさんに説明しているのだろう。ジャイばあさんは、自分より幅も背丈もあるカサン兵に対し、歯を剥きだしにして怒りをぶつけていた。

「あの子はあたしが育てた大事な宝石だ! あんたのその汚い指一本触らせない!」

「ジャイばあさん、落ち着いて!」

 ミヌーがジャイばあさんの前に回ってカサン兵から引き離そうとしたが、ジャイばあさんはミヌーを押しのけた。

「どきな!」

 ミヌーがよろけて地面に倒れた。シャールーンが駆け出したその時だった。

「バーン!」

 すさまじい音が空気を貫いた。一瞬の静寂。直後、ミヌーの鋭い悲鳴。三人のカサン兵は向きを変え、悠々とその場を立ち去って行く。ミヌーが崩れるように地面に倒れ込んだ。ミヌーの目の前に、ジャイばあさんが倒れていた。その周りのおびただしい血は、みるみる土の上に広がっていく。ジャイばあさんが既に息をしていない事は、シャールーンの目にもはっきり分かった。先程、老人とは思えない程繊細な手の動きでシャールーンの髪を結いあげた手にどす黒い血がみるみるしみ込んで行く。シャールーンは、自分の持てる力の全てを尽くしてジャイばあさんの遺体に歩み寄った。

「ジャイばあさん!」

 シャールーンは、老婆の体に覆いかぶさるように倒れた。小さなジャイばあさんの体は、シャールーンの大きな体の下でますます小さくなっていくようだった。

「ジャイばあさん! ジャイばあさん! ああああ!」

 シャールーンは、これまでどんなつらい事があろうとも、泣いた事は無かった。士族の娘は泣くものではない。幼少期に受けたそんな躾が、ずっと身体を貫いていた。しかし、この瞬間。シャールーンが心にまとっていた鎧はガラガラと崩れ落ちた。シャールーンの全身から、獣の咆哮のような叫びが溢れた。ジャイばあさんとは、いつかは別れの日が来る事を予感していた。でも、まさか今日だなんて、こんな形で来るだなんて!! これまでの人生でためてきた涙は一体どのくらいあるのだろう? 涙はとめどなく溢れた。シャールーンがジャイばあさんを泥の中から抱え起こし、自分の膝の上に乗せた時、自分の涙がジャイばあさんの血と混ざりあい、大河のように流れて行くのを見た。細く小さな川の先端が、日の光を受けて光って見える。その先は一体どこに流れ着くのだろう?

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