第73話 見世物小屋の惨劇 1
鏡に向かって髪を梳いているシャールーンの背後から、ジャイばあさんのしわがれた声が聞こえた。楽屋の中の、布で仕切られた自分だけのスペースにジャイばあさんが入って来たのだ。
「シャールーン、今日はあたしが髪を結ってあげよう。お前は髪を結うのが上手じゃないから、あたしがやるのをよく覚えておきな」
シャールーンは、鏡の中のジャイばあさんに向かって
「はい」
と返事した。
「相変わらず愛想の無い子だね。返事をする時はちゃんと相手の顔を見ながらするもんだよ。そういう事にかけちゃ、ミヌーはぬかり無かったがね」
そう言うジャイばあさんの言葉にかつてのような厳しさは無かった。むしろ、どこかおかしがっている風でもあった。
ジャイばあさんはシャールーンの豊かな黒髪を梳きながら続けた。
「口下手な所も変わらないね。あんたはミヌーと一緒にあの女の先生の所で言葉を勉強したんだろう? おかげでミヌーは余計お喋りになっちまったが、あんたは相変わらずだ。学校に行って、あんた何かいい事があったかい?」
いい事なら数限りなくある、とシャールーンは思った。本が読めるようになった。カサン語が理解出来るようになった。外の世界を知る事が出来た。たくさんの出会いがあった。でもそれをうまく表現する事が、シャールーンには出来ない。
「言わなくたっていいさ。あんたには士族の血が流れてる。武人があんまりペラペラ喋るってのも変だからね。
ジャイばあさんはシャールーンの髪を引っ張り上げながら言った。
「今日は、昔の士族の女がしていたような髪の形に結うからね。髪の結い方だってしっかり覚えてとくんだよ。あたしがあんたに教えられる時間はもうそんなに無いからね」
「そんな」
このところ、ジャイばあさんはめっきり年老いた。以前の恐ろしかったばあさんの面影はどこにも無い。こんな気弱な言葉が度々深い皺に包まれた口から出て来る。
(ジャイばあさん、どうかこれまでもずっと元気でいてください。私にいろんな事を教えてください)
そんな思いが喉までせり上がったものの、口から外には出て来なかった。
幼い頃は、自分の境遇を嘆いてばかりだった。アロンガの士族の名家に生まれた母は男顔負けの力自慢で、数々の武術大会で名を轟かせていた。その名はアジェンナ国首都のタガタイの王宮にまで届き、王妃に招かれて出仕する事になった。そこで同じく王妃の護衛をしていた父と結ばれ、やがて自分が生まれた。しかし第二王妃とその親族や一味による政変が起こり、両親のお仕えする第一王妃様は罪人として処刑され、父と母はヤーシーン王子様を守るために宮廷の外に脱出させたかどで処刑された。自分は宮廷の暮らしから一転、片田舎に奴隷として売り飛ばされ、見世物小屋でこき使われる事になった。こんな自分の境遇をずっと恨んでいた。世界で自分程不幸な人間はいないと思っていた。もとから奴隷や妖人である人達は、自分のみじめな生活を当然と受け止め、それなりに楽しく生きていけるのだろう。実際、見世物小屋で最初に親しくなった同い年のミヌーという子もそうだった。しかしシャールーンは違う。ここはまさにこの世の地獄だ、と思った。特に、踊り子の少女は十四、五になると男と体を交えて稼がなければならないと知った時には、絶望の余り舌を嚙み切って死のうと思った。
ミヌーと共にオモ先生の学校に連れて行かされたのはそんな時だった。全く自分の意志ではなく、ただ教室の片隅にぼんやり座っていただけだった。しかし、授業を聞いているうちに、このまま勉強を続けていれば、いつの日か自分は再び光の中に出られるのではないか……そんな思いが芽生えてきた。オモ先生の言葉には、光と熱があった。
シャールーンは、男と寝る事は免除された。その代わり、踊りの稽古は過酷を極めた、正直、自分が踊りに向いているとはみじんも思えなかった。ただシャールーンには、人の何倍もの時間の稽古に耐えるだけの体力に恵まれていた。
ある日、自分の机に自分宛の手紙を発見した。汚い紙に汚い字で書かれたその手紙は、危うく捨ててしまう所だった。しかし何気なく読んでみると、その言葉はかつて王宮で見た絹織物のように繊細で美しかった。これをくれたのはマルという小さな男の子。醜いイボだらけで見た目は汚らしいのに声のきれいな不思議な子。
マルからはそれから何度も何度も手紙が来た。自分の事を美しいと称える言葉に満ちていた。シャールーンはいつしかその手紙を読むのが楽しみになっていた。ぶざまで踊りの下手な自分のどこが美しいというのか? しかしその手紙は自分のつらい日々を支えてくれた。今では小屋の花形ダンサーである自分には客からたくさんのおみやげや花束が届く。しかし最初のファンはマルだった。マルは今カサン帝国の首都トアンにいるという。彼は元気にしているだろうか……。
「ほら、またぼんやりとして! ちゃんと髪の結い方は覚えたかい!?」
ジャイばあさんの言葉に、シャールーンはハッとした。
「どうだい。よく似合うじゃないか。ああ、何て美しいんだろうね」
シャールーンは鏡に映る自分とジャイばあさんを見詰めた。体が大きく、艶のある体から生命がはち切れんばかりの自分の横で、小さく皺だらけのジャイばあさんがギョロリと鏡を見詰めている。しかしこの皺くちゃの師匠の体には、踊りの真髄が詰まっている。
かつてのシャールーンは、踊りの仕事も、そのような仕事をさせられる自分のことも蔑んでいた。そんなシャールーンに向かって、ジャイばあさんはこんな事をよく口にした。
「あんたは士族の子だろう? だったら踊りだって極められるはずさ。あんたの両親が生きてりゃ今時あんたはこんな風にして剣術や弓術の稽古に励んでいたはずだ。踊りが嫌いなら武術の技でも磨くつもりでやればいいんだ」
その言葉は、シャールーンの土のような心に水のように沁み込んだ。
(……そうだ、踊る事は私にとって、新たな使命なのかもしれない……)
暗闇の中にも時折光が差す。シャールーンはやがて、ジャイばあさんに言われなくても自分から踊りの稽古に励むようになった。今ではまだまだ習い足りない、と思っている。近頃ジャイばあさんはあまり自分を叱らなくなった。それどころか、時折奇妙な程優しい声をかけてくれる。その度にシャールーンは不安に駆られた。ジャイばあさんが不意に死んでしまうのではないか、そんな思いがよぎるのだった。シャールーンはとっさにきつく目を閉じ、頭を振った。
「さあ、そろそろ出番だよ」
「はい」
シャールーンは、竪琴を手にし、立ち上がった。
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