第70話 油の木 1
ラドゥの高床式の家の下には、二十人もの村の若者が集まっていた。
既に夜は更けている。月明かりと一本のろうそくの火が、集まった若者達の顔をあかあかと照らし出していた。絶え間なく続く蛙の合唱と蚊の唸りに負けぬよう、ラドゥは声を上げた。
「いいか、みんな。村長が言ってた、田んぼをつぶしてそこに油の木を植えるって話、あれだけは絶対にのんじゃいけねえ」
「どうしてだ? いい話じゃねえか。今までの三倍の儲けになるんだろ?」
頬骨の張った顔のオコがラドゥに反発する。
「お前は騙されてる」
「何!? 騙されてるだと!? 俺がバカだっていうのか!?」
オコはいきり立ち、拳を握りしめて半立ちになった。
「喧嘩はしないで!」
ラドゥの妹のスンニが鋭くオコを制した。
「まあ、ラドゥの話を聞こうじゃねえか。彼が俺らの中では一番学があって物知りだ。その事はみんな知ってるだろう?」
ウドンという長身の青年がざわめく村の若者達に言うと。皆は黙った。ラドゥは周りをサッと見渡して、皆の視線が自分に集まった所でゆっくりと話し始めた。
「みんな、聞いてくれ。俺はこれまでいろんな場所で油の木の畑や、そこで働く農民たちの様子を見てきた。どんな様子だったか、今から話をする。まず田んぼを埋めて油の木を植えるってのどういう事か。それは途方もねえ手間と時間がかかる。その間、一切の収穫は見込めねえ。一年間の税の猶予があるという話だが、一年じゃとうてい足りねえ」
「でも頑張り次第でどんどん金がたまるっていう話じゃねえか。俺達いくら米を作ったって金持ちにはなれねえ。金持ちになれるチャンスがあるならいちかばちかやってみてえよ」
「頑張るったって体は一つきりしかねえ。頑張り次第で米を作るより三倍も儲けがあるって触れ込みだが、そのためには三倍頑張らなくちゃなんねえ。そんな事出来ねえだろ? それなのに税は米の三倍の収穫がある計算で取られるんだ。俺達は地主や村長や役人からうまい話ばかり聞かされてるが、儲けてるのはそういう連中だ。俺達みてえに汗水たらして働く仲間の声は入って来ねえ」
「小作人でも油の木で儲けてレンガ造りの家を建てたって人の話が新聞に載ってたじゃねえか」
「でっち上げかもしれねえぜ!」
「そうだ。その小作人てえのは地主から金をもらって噓っぱちを喋ったんだ!」
村人達がざわつく。次第に皆は熱を帯びてきて、油の木栽培の賛成派と反対派が互いにつかみかからんばかりの様相を呈してきた。
「みんな聞いてくれ」
しばらくの後、ラドゥのずしりと重みのある声が響くと、皆は黙り込んだ。
「新聞に載ってた小作人が嘘を喋ったかどうかは分からん。一つ言えるのは、あの農民のいるブントゥアン州はこことはだいぶ気候が違うって事だ。油の木がたまたま土に合ってかもしれねえ。だが代々米を植えて来たこの土地に油の木は合わねえ。土地に合わねえ物を植えるとだんだん土地がやせ細る。そしてやせ細った土地には妖怪がうろつくようになる」
「妖怪」の言葉を聞くなり、そこに集う者はしん、と黙り込んだ。妖怪は、彼らが最も恐れるものだった。若者達は、沈黙したまま、百姓仕事で日焼けした顔を互いに見合わせた。
「いいか、田んぼってのは田んぼの神様のいる所だ。そこに油の木なんぞ植えたら田んぼの神様が怒るに決まってる。そうは思わねえか?」
ラドゥはそう言って、一人一人の顔を見回した。誰一人反論する者はいなかった。
「これで決まりだ。いいか? 俺達は田んぼをつぶして油の木の畑にするような事はしねえ。地主様にこの事を言いに行く」
「地主様に言ったって俺らの話なんか聞いてくれねえだろう」
「地主様は道理の分からねえ人じゃねえ。この土地で油の木を植えても十分な収穫は見込めねえって事を、俺がきちんと話す。そうすりゃ分かってくれるはずだ」
「兄さん、あたしも行く!」
ラドゥの妹のスンニが言った。
「お前はダメだ。すぐに頭に血が上って喧嘩腰になる。地主様とは穏やかに話をしてえんだ」
「そうね。行かない方がいいわね。だってあたし、地主様を見たらなんだかイライラしてくるの。息子もよ。キザで気取ってて……」
「スンニ、あの人は学がある。話の分からねえ人じゃねえ」
「話が分かるって何よ。兄さんの押しが弱くてたいがいいいくるめられてるじゃない」
「そんな事ねえぞ!」
「だってこの間農具の買い替えの件だって……」
「スンニ、もう遅いから帰って寝ろ。家でチビが待ってるだろ」
「もう兄さん! 面倒になったらすぐそうやって追い払おうとする!」
スンニはそう言って大きな口をギュッとへの字に曲げた。
ラドゥの妻のクーメイが、集まった者達に酒をふるまい始めた。クーメイはスンニと違って控えめでおとなしい。しかしラドゥは、クーメイが芯の強い女だという事は分かっていた。集会では隅に目立たないように座って発言する事もない。そして集会の終わりには黙って集まった物に酒をふるまう。クーメイの作った酒は特別うまい。そしてこの酒が村の衆の結束力を高める事をクーメイ自身が分かっていた。
村人達がみな帰った所を見計らって、ラドゥとクーメイは立ち上がった。ラドゥはクーメイの肩に腕を回し、月の光を踏みしめながら、高床式の家の梯子段をゆっくりと昇って行った。部屋の中に入り、茣蓙の上で既に寝息を立てている幼い娘の横にクーメイが腰を下ろすと、ラドゥは言った。
「明日、村長のとこに話しに行く」
「あたし達の言う事なんて聞きゃしないと思うけど……」
「やってみねえ事には分からん。我々には言葉がある。言葉ってえのは、えらい人とわしら小作人をつなぐ橋みてえなもんだ。おらはマルみてえに美しい言葉は綴れねえしナティみたいに次々矢みてえな言葉で相手を言い負かす事も出来ねえ。でもおらはおらでしっかりやるつもりだ」
「橋ですか……」
クーメイは俯いたまま呟いた。
「そうだ。おめえの考えをちゃんと聞いてなかったな! おめえはおらの言う事に反対か? 油の木を植えて金持ちになりてえか?」
「いいえ、そんな事。あなたを信じてますから。あなたの言う事なら間違い無いって。私は学が無いんでよくは分からないけれど。でも、分かるようになりたい」
「学があるとかねえとか、そんな事は関係ねえ。お前もいつか列車の中から油の木を見て言ったじゃねえか。『おっかねえ』って。おめえの勘は当たってる。おめえも農民だ。土に交じって生きてきたんだからな」
ラドゥはクーメイの座っている横に身を横たえた。
「この土地は地主様のもんだ。だが、耕してるのはおら達だ。おら達がこの土地の事は一番よく分かってる。だからおら達がこの土地の事を決めなきゃならねえんだ」
ラドゥは自分の身体の下の茣蓙のちくちくした感触を感じつつ、妻の小さな手をもみしだくように握りしめた。
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