第66話 あの人が暮らす街 9
明け方、ようやく体を起こし、ボーッと胡坐をかいて座っているマルに対し、既に先に起きていたおばあさんが言った。
「眠れなかったみたいだね。ごめんね、こんな狭っ苦しい所で」
「いいえ。とても気持ち良かったです」
マルは微笑んだ。
「さあ、約束通り着物を着せてあげるよ。これを着れば心に羽が生えたように、沈んだ心も軽くなるよ」
小屋の隙間から差し込む朝日でますます美しく光り輝く着物が肩に掛けられたとたん、マルはブルッと体を震わせた。
「ごめんなさい。やっぱりおらにこの着物はふさわしくありません。おらの心は汚れています。おらは人を呪い、恨む醜い人間です」
「そういう者にこそこの着物はふさわしいのだよ。その心に悩みや穢れの一つも無い人間が身に付けたら、この着物の軽さに負けてしまう。心が天に持ってかれちまう。さあ、着てごらん。ああ、そのシャツは脱がなくてもいいよ。その上から着たらいい。全然暑くないからね」
シュシキンからもらったシャツを脱ぎかけたマルを制止しておばあさんは純白の衣装をマルの肩にかけた。
おばあさんに布を体に巻き付けてもらいながら、マルは思った。
(ああ、これがかつてヒサリ先生からもらった本に描いてあった『アジェンナ南部の吟遊詩人達の伝統的な服装』なんだな)
皮肉なことに、カサン人の民族学者だったヒサリ先生のおじいさんがわざわざアジェンナ南部の片田舎にやってきてそれを記録した。その一方、貧しく服を買うお金も無かった自分はその「アジェンナの伝統的な服装」を知らないのだ。
「どうだい? 着心地は」
「驚きました。本当に軽いですね。それに、一枚着たというのになんだか逆に涼しくなったように感じます」
「それにこの服はとてもあんたに似合ってるよ。やっぱり服があんたを選んだんだ」
小さな坊やも目覚めるなり
「わあー、すごい!」
と言ってマルの周りを両膝を付いたままぐるぐる回り、色んな方向からマルを見上げた。そしてマルの手を取った。
「ねえ、ねえ、お外に出てみようよ!」
「まあまあ、そう焦らずに。これからこの人は長旅なんだからね。しっかり食べてもらわなきゃ。さ、これを食べれば精が出るよ」
おばあさんは動物の皮と野菜を煮込んだ料理をマルに勧めてくれた。
食べ終えたマルは、一家の人に礼を言って家を出た。一番小さな坊やとおばあさんも一緒だった。坊やは嬉しそうに先に走って行ったかと思うとマルの方を振り返っては引き返し、マルの手を取ってぐんぐん引っ張った。新しい着物は朝の光を受けてますます光り輝いた。おばあさんの言った通り、その着物は実に軽かった。重く沈み込んだ心も少しばかり軽くなったように感じられた。同時に出会う人々がみんな自分を振り返って見るので、少々恥ずかしかった。
(きっと離れた場所からも相当光って見えるんだろうな、この服……)
やがて、貧困地区を抜け、橋を渡り、レールを這う電車、オート三輪、自動車、馬車人々が縦横無尽に進む大通りを進んだ。新しい着物とダビの弟の作ってくれたサンダルを身に着けているせいだろうか。いくらか軽くなったマルの心に、この大きな街で生き生きと暮らしているヒサリ先生の姿が映し出された。
(先生! 先生はこの街で元気に過ごされているんですね。私は今、それをはっきりと感じる事が出来ます…… )
マルはやがて、レンガを敷き詰めた広場にたどり着いた。
(ああ、懐かしいな……)
そこはかつて、タガタイ第一高校の在学中にシンと共に訪れた場所だった。マルは、坊や、おばあさんと一緒に広場のベンチに腰をかけた。広場の中央に設置された噴水から噴き出す水が、街の熱気を少しばかり癒している。そのしずくが、マルの身体にも降りかかる。マルはゆっくりと、周囲に立ち並ぶ建物を見渡した。カサン風の建物もあるが、旧宗主国であるピッポニアの残した建物もいまだ健在だ。ピッポニア人の作る建造物は美しい。ピッポニア人は憎むべき敵だと教えられてきた。しかしピッポニア人の心にも美しいものはあるのだろう。悪いのはピッポニア人一人一人ではなく、人が人の上に立つ仕組みなのではないだろうか。なぜそんな仕組みが出来てしまうのだろう? 人が誰かの上に立ちたい、と思う事は本能なのだろうか……? マルはそんな事をとりとめもなく考えた。
やがて、
「号外! 号外!」
と言う、少年の鋭い声が聞こえてきた。少年は、肩から下げた籠にいっぱいの新聞を取り出しては、道行く人々に配っている。
「凄いニュースだよ! 新しい王様が即位したよ! 新しいアジェンナ王の誕生だよ!」
「え!」
マルは機織りのおばあさん、その孫の少年と一瞬顔を見合わせた。そして立ち上がり、売り子の少年から新聞を一部を受け取った。
「あ! ヤーシーン王子!」
マルの横から新聞を覗き込んだ坊やは興奮して叫んだ。マルは茫然と新聞に載った写真に視線を落とした。そこに写っているのは、紛れもなく友人のシン……今や国王のヤーシーンであった。マルはしばらくの間、あっけにとられて写真に見入っていた。そのうちに笑いが込み上げてきた。
(シンったら、随分もったいぶった顔で写ってるな!)
しばらく写真を見詰めた後、マルはカサン語で書かれた記事に目を通した。「タガタイ第一高等学校を優秀な成績で卒業」なんて書いてある! 文武両道に優れた若きき希望の星、なんて事も! そこに描かれている美辞麗句は、マルが知っている友人に対するものとはとても思えなかった。
マルは素直に心の中で友に「おめでとう」と言う気にはなれなかった。ピッポニアとのつながりの強い前王と弟が退けられ、シンが王位に就いた背景には恐らくカサン帝国の思惑がある。しかしあのシンが大人しくカサン帝国のいいなりになるとは思えなかった。彼は今後アジェンナの民を豊かにするためにカサンに対し要求を突きつけるだろうし、時には激しく対立するだろう。友がこのまま平穏に権力の座についていられるとは思えなかった。
坊やは早くも
「ヤーシーンが王様なんだ! すごい! すごい!」
と興奮したように飛び跳ねならがら、おばあさんの腕を引っ張ったりマルの膝にぶつかったりしている。マルはそんな坊やの様子を見ながらそっと手を合わせた。いつの日か、シンと再び一緒に食事をしたり、彼の口から留まる事無く繰り出される女の話を聞ける日が来る事を願いながら。
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