第64話 あの人が暮らす街 7

 虚ろな心を抱えたマルの足は、いつしか吸い寄せられるように、タガタイの街の中央を流れる川に向かっていた。おそらくピッポニア統治時代に建てられたと思われる凝った意匠の古い石橋が目前に見えて来た。同時にその足の下にずらりと並ぶ家々が、月明かりとガス灯に微かに照らし出されていた。

そこは、どこか故郷スンバ村を思わせる雰囲気を醸し出してた。ありあわせの木材やトタンの屋根の建物が立ち並ぶその一帯は、タガタイのいわば「貧困地区」であろう。

(そういえば、あの機織りのおばさんがこの辺りに住んでいるはず……)

 マルは、かつてタガタイから故郷スンバ村に向かう列車の中で出会った、機織りのおばあさんの事を思い出した。おばあさんは川のほとりに住んでいて、鳥娘の羽を集めて布を織っていると言っていた。その事を思い出したマルの足は、橋の下で半分へしゃげたように蹲る家々に向かっていた。きっとおばあさんとその家族は、夜が明けるまでマルを家に泊めてくれるはずだ。

 マルが川べりのその区画にたどり着くと、懐かしい匂いが体を包んだ。タガタイとスンバ村……遠く離れていても、妖人達の暮らしは同じ匂いを醸し出している。この匂いの中に漂っていると、苦しみに疼く胸も柔らかく解けて行く。夜更けにもかかわらず天秤を抱えて通りを歩いている人々がいる。機織りのおばあさんが言っていたように、夜の間に川で水浴する鳥娘の羽を集めに行く人達かもしれない。道をたずねると、すぐにおばあさんの家を教えてくれた。教えられた小さな家の前まで来ると、ちょうど中から、二人の若者が出て来る所だった。マルはすかさず彼らに近付いて声をかけた。

「すみません。私はマルーチャイと申す者です。以前こちらのバットソバンさんに列車で会った事がある者です。もしいらっしゃったらお会いしたいのですが」

ランプに照らされた二人の顔はパッと明るくなった。

「ばあちゃんから話を聞いてるよ! 歌う物乞いさんだ!」

 二人は家の中に戻ると、

「ばあちゃん! 以前言ってた物乞いさんが泊まりに来たよ!」

 と言って中に入った。狭い家の中にはあのおばあさんの他に恐らくその子や孫と思われる男女と小さな子ども達が囲炉裏を取り囲んで座っていた。

「おや、いらっしゃい」

 おばあさんは、マルが来るのを既に分かっていたかのように落ち着いてマルに向かって細い腕を上げて手招きした。

「おや、お前はトアンに勉強しに行ったんじゃないかい?」

「ええ、そうですが用事があってアジェンナに戻って来たんです。ところでアロンガにいるお孫さんは元気ですか?」

「ああ、おかげ様で。あんたが紹介状を書いてくれたお友達がくれた薬は本当によく効いたよ。なんでも、カサン人の先生について勉強している医者の卵だっていうじゃないか!」

「ああ、それは良かった! 彼は本当に頭が良くて、彼に相談すれば大概の病気は治るんです!」

マルはかつて一緒に学んだトンニの落ち着き払った表情を思い浮かべながら言った。

 いましがた出かけようとしていた青年達は、家の中に入って茣蓙の上にあぐらをかいた。既にマルの歌を聞く気でいるようだった。十五、六歳位の若者が、囲炉裏の鍋にある残った食べ物をマルのためによそってくれた。既にお腹いっぱいだったが、好意を無駄するまいと思って口にし、さっそく歌物語を披露した。

 マルがこの日歌ったのは、かつての学友ヤーシーン王子の物語だった。おばあさんを見ているうちに、彼女を軽々と電車の窓から抱え入れた友人シンことヤーシーン王子の事がありありと思い出されて、つい彼の事を話してみたくなったのだ。

「さあ、これから始まる物語 そう遠くない昔のこと 草木も黙る暑い午後 突如王妃は産気付き 生まれた来たは黒檀の如く輝く肌の王子様……」

 小さな一室に集う人々は、マルの歌に聞き入った。待望の第一王子として生まれたヤーシーン王子は、未来の国王として、母である王妃と幸せに暮らしていたが、やがて第二王妃が異母弟を産むと事態は一変する。第二王妃の讒言により、ヤーシーン王子は国王に命を狙われる事になる。忠実な臣下にして剣の達人エフティーヌカの手によって宮廷を脱出し、森の中に逃げ込む。しばらく森の中をさまよっていたヤーシーン王子は突然猿の王と出くわす。いきなり歯を剥きだしにして飛び掛かってきた猿の王。ヤーシーン王子は、周囲の草をなぎ倒して上に下にの大喧嘩。果たして勝つのはどっちか……。

「おら、その続き、知ってるよ!」

マルの話をじっと聞き入っていた一番小さ坊やが突然叫んだ。

「王子はすごく強くて、猿の王をやっつけるんだ! すると猿の王の百人の恋人は、みんな猿の王より強い王子の事が好きになって王子の恋人になる! それから王子はいろんな冒険をして魔物に襲われたり牢獄に閉じ込められたりするけど、そのたびに美女に助けられるんだ! そして最後には王宮に戻って王になる!」

 マルはあっけにとられて坊やの顔を見詰め返した。

「……あの、その話、誰に聞いたの?」

「実はね、いつ話そうかと思ってたんだけど」

 おばあさんが笑いをこらえながら言った。

「あんたがしてるのは、列車で一緒だったあのお友達の事だろう? あの人、十日程前にここに来たんだよ。そしていろんな事を話して行ったよ。まあほとんど女の話だったけどね」

「そうなんですか! 彼、今、どこにいるんですか!?」

「おや、あんた知らないのかい?」

「ええ、分からないんです」

「まあ、じきに姿が見られるだろうよ、なんでもこれから王様になろうってお方らしいからね!」

 おばあさんはついにクククッと笑いを弾き出した。マルは一緒に笑ったが、笑い声は自然に小さくなり、最後の一息はため息となって、暗闇に滲んで行く。

(シン、無茶な事してなきゃいいんだけど……)

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