第63話 あの人が暮らす街 6

 ヒサリは朝食を済ませた後、服を着替え、机の上に立て掛けた小さな鏡の前で長い髪をきつく後ろで束ねた。三日間、空振りに終わった仕事探しに今日も出かけなくてはならない。

 身支度を終えた所で、ヒサリはドアのベルが鳴らされたのを聞いた。

「さっそく家賃の督促かしら。困ったもんだわ」

 ヒサリが部屋の扉を開けると、そこには全く見た事の無いアジュ人の青年が立っていた。ヒサリからお金を取り立てに来た人間には見えなかった。街中の、少し品の良い店で売り子でもしているような、どこにでも見かけるような青年だった。

「初めまして。オモ・ヒサリさんで間違い無いですね」

 ヒサリの体が瞬時に警戒心で固くなった。

(私の名前を知ってる……! まだ表札も出してないのに、一体何者?)

「私がオモ・ヒサリであるかどうかを答える前に、まずはあなたの名前と身分を仰るべきでは?」

「訳があって名前を言う事は出来ません。身分については、あなたが我々の依頼を引き受けてくれたなら話します」

「名前や身分を明かせないような人からの依頼を私が引き受けるとでも?」

「あなたは仕事を探しておられるのでは?」

「だからといって、どんなにお金を積まれても汚い仕事に手を染めるつもりはありません」

「汚いどころか、世の中で最も崇高な仕事です。あなたが愛国者である事を知った上でのお願いです。少々込み入った話なので、中に入らせていただいてもよろしいですか? あなたには武術の心得がありますから、私一人が部屋に入ったところで怖い事はないでしょう?」

 ヒサリはゴクリの生唾を飲み込んだ。

(この男は私について相当の事を知ってる。仕事を探してる事、武術の心得がある事。一体何者……?)

分かりました。何も無い部屋です。ろくなおもてなしも出来ませんが、どうぞ」

 ヒサリは、少しばかりの好奇心も手伝い、青年を部屋の中に招き入れた。

「こちらで良ければ」

 ヒサリは椅子もテーブルも無い部屋の中央に敷かれた、アジェンナの貧しい庶民が使っているのと同じ茣蓙を指し示した。

「私は茣蓙が好きなの。この上で過ごすのはとても気持ちいいわ。これがあればもう椅子なんて要らない位」

「ええ、そうですね」

 青年はそう言って茣蓙に胡坐をかいた。ヒサリも腰を下ろした所で、青年は口を切った。

「オモ先生にとって、良い話だと思います。小学校の仕事を辞められてお困りでしょうから」

「まあ、私について何でも知ってるのね。まるで指名手配を受けてる凶悪犯罪者だわ」

「ええ、多少それに近いものがあるかもしれません。けれどもあなたに来ていただきたいのは監獄ではなく学校です」

「教員の口はさんざん探したけれども見つからなかったわ。市場で売り子でもしようかと考えていたところよ」

「私が紹介する学校は、公に教員の募集をしていません。学校側が適切とみなした人物を探して迎え入れるのです。……実は私はその学校の生徒です。タガタイ大学にも籍を置いていますが、一年前にスカウトされ、極秘にその学校で訓練を受けています。そこの生徒の年齢はばらばらで、人種も様々です。カサン人もアジェンナ人もいます。求められている仕事は、ここの生徒にアマン語と南部の文化を教える事です。これが出来るのは、オモ・ヒサリ先生の他にいません」

 ここまで聞いて、ヒサリの脳にある考えが閃いた。それは噂に聞いた事がある「秘密学校」の事だ。

「……それは、諜報員養成学校の事ですか?」

 青年はそっと指を自分の唇に当てた。図星だ。となると今目の前にいる青年はスパイの卵、という事になる。

「私はアマン語が出来るといっても日常会話程度ですよ」

「任務に適切かつその程度のアマン語が出来る人間がほとんどいないのです。その上教える技術を持ち、南部の文化についても造詣が深いとなると……」

 青年は首を振った。確かにそうかもしれない、とヒサリは相手の言葉を聞きつつ思った。

「そして最も重要なのは、カサン帝国へのゆるぎない忠誠心とアジェンナの民に対する限りない愛、この両方を持ち合わせている事です。これら全ての条件を満たす人となると、オモ先生以外に考えられません。今、アジェンナの各地に、とりわけ南部に、ピッポニアの支援を受けてカサン帝国の転覆を企るゲリラ組織が数多く存在している事は、ヒサリ先生もご存じでしょう? 我々の目的はカサンとアジェンナの共栄共存と、両者が真の友情で結ばれる事です。両者の間を引き裂き、対立を煽り、帝国の混乱と破壊をもくろむ輩は徹底的に探し出し、芽を摘まなくてはなりません。オモ先生、この任務のために、オモ先生の知恵と力を貸してはいただけませんか?」

 一見凡庸に見えた青年だったが、温厚に見えるまなざしの奥に据わる鋭い光をヒサリは覗き見る。

「我々の任務は極めて重要であり、我々のうち一人の役割は百人、いやそれ以上の数の兵士の仕事に匹敵すると言われています。しかし報酬も決して高くなく称賛を浴びる事もありません。およそ報われない仕事です……いいえ、報いはあります。それは歴史を変え、輝かしい未来と平和のための礎になれる事です。以上の事をふまえていただいたうえで、改めて問います。このお願いを引き受けてくれますか?」

 青年の言葉は、ここ最近ヒサリが耳にした言葉のうちで最も胸を打つ物だった。ヒサリは相手の鋭い視線に打ち負かされぬよう、じっくりと相手を見返しながら言った。

「確かに、その任務には私以上にふさわしい人間はいないでしょうね。ただ一つ……確認しておきたい事があります。諜報員はこの任務に就くに当たって、過去の全てを捨てるという話を聞いた事があります。名前も、家族も、経歴も全て。それは本当ですか」

「ええ、そうです。実際に私は過去の名前も経歴も捨てました。過去の知人や友人に接触することも、情報を収集する時以外は極力控えています」

「あなたは若いのに、大変な覚悟を持っているのね」

「私はこの任務に適した能力を持っていますから。それは私が目立たず、人の印象に残らず、余計な事を話さない事です。それから私は何にでもなれます、高貴な身分の人の間にいても貧しい者の間にいても、溶けるように周りに馴染む事が出来ます。私のこの才能を偉大な国家のに捧げる事が出来るのは大変な喜びです。我々の仲間はみんなとても優秀です。けれども南部の言葉アマン語が出来る者はほとんどいません。学習しようにも教科書もありません。ですから、ぜひオモ先生のお力添えを頂きたいのです」

 ヒサリは、青年の話にじっと耳を傾けながら考えていたのはマルの事だった。この仕事を引き受けたら、もうマルとの手紙のやり取りは出来ない。

(でも、これはいい機会かもしれない。私は彼と文通をする資格など無い人間だ……)

 そうだ。自分が彼と手紙のやり取りをしたばっかりに、アムトを怒らせ、自分の流産、という結果を招いてしまった。それに彼が自分に頻繁に長文の手紙を送ってくる情熱は外に向かって注がれるべきなのだ。

(そうよ。彼の才能を私が独り占めをする事は許されない。……そうだ、いずれ、彼の才能は世に出るだろう。いつの日か、彼の書いたものを雑誌や本で読める日が来る。それを読んで、私は楽しむことが出来るんだわ……さようなら、ハン・マレン! 甘えん坊で恥ずかしがりやのあなただけど、もう大丈夫。あなたにはたくさんの友達も恋人もいる)

 ヒサリは相手の顔をまっすぐに見て言った。

「私はその任務を引き受けます」

 相手は深々と頭を下げた。

「ところで、あなたの事は何と呼んだらいいのでしょう」

「私の事はバナナと呼んで下さい」

「まあ、バナナが好きなの?」

「いいえ。特に好きでも嫌いでもありません。この国のありふれた食べ物を選びました」

「それなら私も今日がらオモ・ヒサリとは違う名前を名乗った方が良さそうね」

「ええ、そうです。実は我々の間であなたはあるあだ名で呼ばれています」

「ええ!」

「『猛女』です。たった一人アジェンナの僻地に乗り込んで子供達を教えたあなたの事を、我々はみな少々恐れています」

 ヒサリは声を立てて笑った。ヒサリが笑い声を立てたのは、実に久しぶりの事であった。

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