第62話 あの人が暮らす街 5

 門の前で別れたマルと分かれたエルメライとコイ・タイは、再び寮の建物の方に戻って行った。建物の入り口でコイ・タイは一度振り返ったが。エルメライは振り返らなかった。強い決意でそうしているという事が、はっきりと感じられた。

 二人の姿が見えなくなった瞬間、突如、こんな恐ろしい考えがマルを襲った。

(おらは、ヒサリ先生に恐ろしい事をしたのかもしれない……)

 エルメライは言った。決して叶わぬ愛の相手に執着する事は相手を呪うのと同じだと。そうだ。もしかしたら自分は、ヒサリ先生の子どもの事を想い、あれこれ名前を考えていたけれども、実はその子の事を憎み、呪っていたのではないか。

(ヒサリ先生の赤ちゃんを殺したのはおらかもしれない……)

 マルはゾッとし、その場に崩れるようにしゃがみ込んだままじっと膝を抱えた。

(何て恐ろしい! おらは自分の気持ちを抑える事が出来ず、おらの心の底の『執着』がヒサリ先生の子どもを殺してしまった!)

 マルはうずくまったまま拳で胸を叩き続けた。

「マル、あんたはヒサリ先生を奪ったあの男とあの男との間に出来た子どもを憎んでたのよ。それくらい、あんたはあのヒサリの事を……」

「スヴァリ! もう言うな! もう、耐えられない!」

 マルはしゃがみこんだまま、タガタイの夜の空気がひたひたと自分にのしかかるのを感じていた。もし顔を上げたら、タガタイの闇がただちにマルを罰し、攻め立てるであろう。   

 どれ程長い時間そうしていただろうか。マルはようやく立ち上がった。自分はヒサリ先生を慰めるどころか、会う資格すら無い。今、自分に出来る事は残る力を振り絞ってトアンに戻る事。そしてこの罪を贖うための責め苦を負う事なのか。マルはまるで深い沼であるかのような闇をかき分け、重い足を進めた。

 大学周辺の道はガス灯に照らされていたが、その光はマルの心の中には差し込まない。マルはのろのろと、囚人労役に加わっているかの如く歩みを進めた。一体自分がどこに向かっているのかも分からないまま、永遠に夜明けが訪れないかのような道をひたすら歩き続けた。

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