第61話 あの人が暮らす街 4

 エルメライに注がれた酒は、大雨の後の泥水を思わせる濁った酒だった。一口飲んでみる。日頃飲むカサンの酒に比べて甘く、どこか故郷スンバ村を思わせる味だった。

「さほど強い酒ではないが、俺にはこれが一番酔えるんだ」

 酔いが回ってくるにつれて、それまでずっとカサン語で話していたエルメライの言葉に次第にアマン語が混ざってきた。そしていつしかリラックスしたように壁にもたれかかってマルに尋ねた。

「そういえば、君はオモ先生に会えなかったんだって? どうしてだい?」

「先生の家に行ってみたけど、先生はそこにはいなくて……ああ、そうだ! スンバ村の学校で君を教えていたシム先生がいたんだ! それからオモ先生の旦那さんと……」

「何だって!」

「エルメライは声を上げた後。少しの間、考え込むように黙り込んだ。やがて、その薄い唇に笑いが浮かんだ」

「そうか……そういう事か……」

 次にエルメライは声に出して笑った。

「何? 何がおかしいの?」

「マレン、俺はね、シム先生の事を心から尊敬しているんだ。確かに君のオモ先生のように慈愛に満ちた先生ではない。冷酷で機械のような先生だと言う生徒もいた。けれども俺が今この場所にいるのは、間違い無くシム先生のおかげだ。そしてね、今君の話を聞いて分ったよ。シム先生は機械なんかじゃない。一人の人間であり女だって事がね」

 マルはエルメライの言葉を聞くうちに、雷に打たれたような衝撃を受けた。それこそ、周りが稲妻に照らされたようにはっきりと明確になった。……そうか、そういう事だったのか! 何て自分はバカなんだろう! そんな事にも気付かないなんて! 

「ひどい! あんまりだ! ヒサリ先生はどんなに苦しんだろう! おらはあの男とシム先生を軽蔑する! たとえ君の尊敬する先生であっても!」

「確かに二人のしている事は鬼畜の所業さ。許される事じゃない。でもな、人の感情というものはそう簡単に制御出来るもんじゃない」

「そんな……」

「少なくとも俺はシム先生を断罪出来ないよ。それにな、聞いてくれ、こんな事を言ったら君は怒るかもしれない。けれども俺はちょっと、今の話を聞いて嬉しいんだよ。つまりな、偉大なカサン帝国も、愚かな一人一人の人間の営みによって出来ているということだ。それが今でははっきりと分かる」

 マルはじっと相手の言葉に聞き入っていた。相手がとても大事な思いを吐露しているという事は分かった。エルメライが小さいが重いため息を吐いた時、マルは言った。

「……おらだって愚かだし弱い人間だよ。でも人を裏切って傷付けるだなんて……」

「そうか? 人は知らず知らずのうちに誰かを傷付けてるもんじゃないのか? 例えばだ。自分が誰か愛してはいけない人を愛してしまったとしたら、愛された人は傷付くんじゃないかい?」

「…………」

「だから俺は、出来る限り人を愛し過ぎないようにしてるんだ。ほら、昔からよく言うじゃないか。報われない愛に執着するのは相手を呪う事と同じだと」

 マルはこの時、エルメライはこうして自分への苦しい思いを打ち明けているのだとはっきり感じた。マルはそっとエルメライから目を逸らし、薄暗い部屋の隅を見詰めた。

「先輩、深刻な顔をして、一体何の話をされているんですか?」

 コイ・タイのカサン語を聞いて、マルはほんの少しの間後輩の存在を忘れていた事に気が付いた。それ程物静かな後輩だった。北部出身のコイ・タイは南部で使われているアマン語が分からない。

「ああ、ごめんな。君の分からない言葉でずっと話をしてしまって」

「いいえ、私の事はお気遣い無く。言葉が分からなくても、珍しい酒を飲んで、雰囲気を楽しんでますから。この店、本当に落ち着けますね」

「そうか。悪いなあ」

 マルはそれからエルメライと二時間程話した。タガタイで流行っている玉突きや話題の映画の事などを話した。先程ふと見せた深刻な表情が嘘のように、エルメライはずっと上機嫌で気軽な事ばかりを話した。二時間程経った後、

「さあ、寮の門限があるからもう帰らないと」

 と言って立ち上がった。石畳の道を歩きながら、エルメライは言った

「ところでダビッドサムは元気かな」

 ダビはヒサリ先生の学校に来る前は、エルメライ達の通う学校に通っていた。

「ダビには二年前にスンバ村に戻った時会ったよ。少し太ってたかな。彼の弟が作った靴をくれたよ」

「あいつ、相当俺の悪口言ってたろう?」

「い、いやあ、そんな事……」

「知ってるさ。あいつは俺を嫌ってたし俺もあいつが嫌いだった。それなのにあいつの事をやたらと思い出す。あいつにとってはいい迷惑だろうな」

「そんな事ないよ。君はダビの一番の理解者だよ」

「よせよ。俺はあいつの事が大嫌いだと言ってるだろう」

 門の前で立ち止まったエルメライは、マルの顔をまっすぐに見た。それはほんの一瞬だったけれど、マルはそのまなざしを生涯忘れないだろうと思った。

「元気でな。トアンの冬は恐ろしく寒いんだろ? とはいえトアンでもうふた冬は越したことになるな? お前は案外強いのかもしれないな」

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