第60話 あの人が暮らす街 3

 十分程歩いて三人がたどり着いたのは、実にこじんまりした、壁に埋め込まれたような目立たぬ看板のレストランだった。入口は路面より階段で少し下った地下にあった。

 中は思いの他広かった。ランプによって、人の姿は見えるけれども顔はよく見えない程に照らされており、秘め事を語り合うのにうってつけ、という居心地の良さだった。三人で席につくなり、さっそくエルメライが言った。

「しばらく見ないうちに随分垢抜けたな。さては付き合ってる女性でもいるんだろう」

「い、い、いやあ……」

 マルは一瞬、彼に咎められているような気がした。

「君こそ、その帽子といいシャツといい、すごく格好いいね」

「そうかい? だが俺はこういう格好をして気軽に女性と付き合える程器用な人間じゃない」

 エルメライはそう言った後、チラリとコイ・タイの方を見、そのまま口を閉じた。しばしの沈黙の後に、再び彼は口を開いた。

「俺は五人兄弟の長男で、母親が弟や妹を身ごもる度に、小さな納屋のような離れの建物に移って寝起きするのを見て育った。女はお産の際に悪い妖怪が憑りつくから穢れている、という訳さ」

「良い家ではそういう習慣があるみたいだね。北部でも同じ?」

「ええ。同じです」

 コイ・タイは答えた。

「そのうち母は、父や俺のいる広い母屋から離れてその小屋で過ごす事が居心地良くなったみたいなんだ。それでずーっと離れの方で生活するようになった。だから俺は母親とほとんど顔を合わせる事も無く子どもの頃を過ごした」

「それは寂しかっただろうね」

「ああ、だがね、それと同時に思ったもんだよ。『穢れた生活』ってのは随分楽しそうだなって」

 そう言ってエルメライは片目を瞑って見せた。マルはそんなエルメライを見返しながら思いを巡らせた。彼は自分達『穢れた妖人』の生活を楽しそうだ、と言っているのか。もしかしたら男を愛する自分自身の事を「穢れている」と自虐的に言っているのか。

「そうかもしれないなあ」

 マルは答えた。

「でも、おらの友達はみんな君の広い家がうらやましくて、あんな家で暮らしてみたいって言ってたんだ。カサンの諺にもあるよね。『他人の庭は光ってみえる』って。みんなそうなのかもしれないな」

 エルメライは「フフフ」と笑い声を漏らした。

「他の人を見ると、いつでも羨ましく思うよ。君のように弓を上手に引く事が出来たらどんなに楽しいだろうなって思う。それからおらには、妖怪の鳥娘と愛し合う事が出来る友達がいる。これを知った時すごく戸惑ったし驚いたけれども、彼はとても楽しそうだったな」

「シン先輩の事ですね」

 コイ・タイが言った。給仕が高そうな酒と料理を運んで来たのを見て、マルはハッとした。

「どうしよう! おら、あまりお金を持ってないんだ」

「これは俺のおごりだ。……ああ、とは言っても村長の息子の俺がこういう事を言うと君は嫌味に感じるかもしれないな。俺はこうやって人のプライドを知らず知らずのうちに傷つけて来た。それじゃ、こうしよう。君の持ち物を一つ俺に売ってくれないか。その金で今日は飲み食いするとしよう」

「ちょっと待ってよ! あたしを売ったりしないでしょうね!」

 マルの背中でスヴァリが騒いだ。

「大丈夫。君を売ったりはしないよ」

 マルはスヴァリを撫でつつ、果たして自分が彼に売れる物は何だろう、と思った。ダビの弟が作ってくれた靴。シュシキンが作ってくれたシャツ。しかしこれらは決して手放せない大切な物だ。

「例えば君が今読んでる本でもいいんだ」

「本……新進作家が書いた短編集を今読んでいるところだけれど……」

 エルメライはマルの鞄を覗き込んだ。

「本が三冊も入ってるね。しかも随分古い……おや、これは?」

 と言って一冊の本を手にした。それは小学校の恩師でアマン語の読み書きを教えてくれたバダルカタイ先生が編んだ辞書であった。

「どうしてこんな物を持っている? どこで手に入れた?」 

「これは村の学校でおらの先生だった人が編んだ、世界で初めてのアマン語の辞書なんだ。カサン語の辞書程たくさん言葉が載ってはいないけど、読んでいてとてもワクワクするよ」

「おい! こんな物持っていてはいけない! よし、これは俺が買おう。君はアマン語の本の出版は禁止になった事は知らないのか?」

「どうして!」

「アマン語の文書はカサン帝国に対して反逆を企てる組織の間で使われる暗号とみなされているからだ。実際、南部では反カサンゲリラが跋扈しているから当局もピリピリしてるんだろう」

「そんな! アマン語の詩や物語を本で楽しみたい人はたくさんいるのに!」

「それは少数派だよ、マレン。南部の人達の生活は厳しい。俺達地主階級だって生活は楽じゃない。読み書きが出来る教育を受けた連中も、本を読むゆとりなんて無い。だいたいアマン語の詩や小説の本なんてこれまで存在しなかった」

「それは君の言う通りだよ。これまで、詩や物語というのは話して人に聞かせてたんだ。でも今は時代が変わった。アマン語の詩や物語も読んで楽しむ時代になったんだよ!」

「時代は変わっても、アマン語の本を読みたい人間はそういない。今はまだね。そういうのは君のような変わった人間か過激な民族主義者だ。今はつべこべ言わずこれを売ってくれ。いずれは持っているだけで危険な状況になるだろう」

「でもそうすると、君に危険が及ぶでしょ。おらは大丈夫。こういう事は初めてじゃないよ。以前、ピッポニアの本を持ってたせいでえらい目にあった事があるから!」

「何だよ、お前だけがそんな、「危険な男」になんかなるなよ。自慢かい? 俺だってその禁じられた辞書を読んでみたいんだよ。大丈夫。今はそれを持ってるだけで逮捕されるような事は無い。今がそれを読める最後のチャンスだ。もし所持する事も禁止されるようになったらすぐに処分する」

「そうか……分った」

 マルは、手にして以来何度も読み込み既に表紙がヨレヨレになっている小さな辞書を手渡した。

「さあ、これで君も気兼ねなく飲んでくれ。これは南部から取り寄せた酒だ。これが飲めるのは俺の知る限りタガタイじゃここだけだ。これを飲んで故郷を思い出そうじゃないか」

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