第58話 あの人が暮らす街 1

 マルは小さな船のデッキにつかまり、船の後に注ぎから次へと沸いては消える白い波しぶきをじりじりと見詰めていた。

(ああ、飛行機に乗れたらな……)

 人はなぜ飛行機だの汽車だのという怪物を生み出したのか。その秘密が今、ようやく分った気がした。きっと一日も早く愛する人に会いたいからだ。人の思いというのは、あのような途方もない妖怪を生み出す程に強いのだ。

 船から降り、船酔いで少しフラフラする足を運びながら、客待ちをしているオート三輪に向かって歩いて行く。

「ねええ、せっかくアジェンナに戻ったんだから、ついでにスンバ村まで行っちゃいましょうよ!」

 背中の楽器スヴァリの喋り声が聞こえる。

「そんなわけにはいかないよ。ヒサリ先生に会ったらすぐに帰らなきゃ。ハミが待ってる」

「あら、スンバ村ではどれだけたくさんの人があんたを待ってると思ってんの? 本当に薄情な人ね!」

「そんな事言われても!」

 確かにスンバ村には大勢の懐かしい人達がいる。自分が今履いている靴を作ってくれたダビの弟のサルトにもお礼を言いたい。でも今は時間が許さない。スンバ村に行くにはまる一日かかってしまう。

この時、マルはふと思いついた。

(そうだ、タガタイ大学に通っているエルメライだけでも会っておこうか)

 ヒサリ先生のアパートとエルメライのいるタガタイ大学の寮はそう遠くないはずだった。

 オート三輪で駅にたどり着くと、そこから列車に乗った。座席に座って列車に揺れている間、マルの気持ちは次第に興奮に高まった。と同時に恥ずかしくなった。先生は、今、この瞬間も流産の悲しみが癒えずつらい思いをしているに違い無いというのに。興奮はいつしか恐れに変わっていた。ヒサリ先生はやつれ果てて、すっかり変わってしまっているかもしれない。もしそうだとすると、一体自分はどんな言葉をかけたらいいのだろう?

 人に尋ねつつたどり着いたヒサリ先生のアパートは、白い建物が整然と立ち並ぶ通りの一角だった。すれ違う人の多くは立派な身なりをしたカサン人である。そこがカサン人の居住地区である事は明らかだった。まるでタガタイではなくトアンにいると錯覚する程だ。タガタイは高所にあり、アジェンナ国の中では比較的涼しいためそのように感じさせるのかもしれない。

マルはヒサリ先生が住んでいるはずのアパートの下に立ち、ひんやりとした城壁のような建物を見上げながら、腹の底から緊張感がせり上がって来るのを感じた。先生の家には、あの意地悪そうな夫がいるはずだった。

(……なに怖気づいてるんだ!生徒が病気の先生を見舞うのはカサンの習慣からいってもでも普通の事じゃないか)

 マルは思い切って、一階の「管理人室」と書かれた扉を押した。そしてそこに座っている頭の禿げ上がったカサン人の男に尋ねた。

「あのう、オモ・ヒサリさんの部屋はどちらでしょうか」

「オモ・ヒサリさんというのは学校の先生だね。あの人は最近姿を見てないから、恐らくここには住んでいないだろうよ」

「え!」

 全身の血液が滝のように落下して行く。

「なんなら、自分で行って確かめてみたらどうだね? 部屋は四階まで上がった正面の部屋だよ」

 マルの中の遠慮と緊張は一気に押し流された。マルは一気に四階まで駆け上がった。そして扉のベルを激しく鳴らした。

程なく、中から物音がして扉が開いた。現れたのはヒサリ先生ではなく、全く別の女性だった。マルはその陰鬱な表情を見るなり、ゾッと身震いした。明らかに彼女はダヤンティのように料理を作ったり掃除をしたりするために雇われた女性ではない。かといってヒサリ先生の親族にも見えない。まさに「得体の知れない」という言い方がピッタリくる人だった。顔色は驚く程白く、死人が立ち上がってマルを凝視しているかのようだった。

「あ、あの……」

 マルは戸惑いつつ、ようやく口にした。

「オモ・ヒサリ先生はこちらにいらっしゃいますでしょうか……」

「オモ・ヒサリ先生はここにはいません」

 女はにべもなく言った。

「あの、私はここがヒサリ先生のお住まいだと伺いましたが……」

 女は黙ったままじっとマルを見返していた。その細い目がマルの体のどこを見ているのかは分からなかった。その目の奥の表情も、全く見当がつかなかった。魔女の呪いにかかったかのように、マルは動く事も出来ないままドアのノブを握りしめていた。

 やがて、女が口を開いた。

「あなたがハン・マレン? タガタイ第一高等学校に行った」

 マルはハッとした。

(この人はおらの事を知ってる……!)

「はい、そうですが……」

 いささか薄気味悪く感じながら、マルは言葉を振り絞った。

「オモ・ヒサリ先生はしばらく前にここを出て行きました。今どこにいるのか私も知りません」

「そうですか、あの……」

 聞きたい事は山ほどある。マルがさらに言葉を繋ごうと口を開いたその時だった。部屋の奥から足音がして、一人の背の高い男が姿を現した。驚いた事に、今にも解けそうな程だらしなくふんどしを巻き付けただけで、上半身は裸だった。女はサッと男の方を振り返り、

「彼女の教え子よ」

 と短く言った。マルは、その冷ややかな言い方にゾッとした。自分は全く歓迎されていないばかりか、敵意を抱かれている。

「失礼しました」

 マルは軽く頭を下げ、クルリと向きを変え、逃げるように階段を駆け下りた。

 建物が整然と立ち並ぶカサン人街を、目的も分からないまま矢のように歩いた。そしてレンガで舗装された小さな広場にたどりついた。既にその時、あの部屋で会った二人に対する恐怖にも似た感情は去っていた。

 マルはその時になってようやく、男の方がヒサリ先生の夫で女の方が川向こうの学校でエルメライ達を教えていたシム先生である事を思い出した。なぜあそこにヒサリ先生ではなくシム先生がいるのか。二人から注がれる冷たい視線の理由は何なのか……。

 混乱の渦は、やがてヒサリ先生に会えず行方も分からない、という絶望と悲しみに代わっていた。

(ヒサリ先生、ヒサリ先生、ヒサリ先生……)

 自分は悲しみの海に彷徨う魚だ。吐く息の全てが「ヒサリ先生」を叫んでいる……。こんな風に彷徨っているうちに、ひょっこりヒサリ先生に会えるのではないか……そんな足掻きのような妄想は、いつしか顔と全身を覆う汗と涙に代わっていた。まるで町中がぐらぐら揺れているようだった。マルはそそのまま崩れるように広場に置かれたベンチに腰を沈めていた。

「ねえ、マル、いつまでそうしているつもりよ! いない女の事をクヨクヨ思ってもしょうがないでしょ!」

 背中のスヴァリの声がする。

「おらも君のように、たった今死ねたらと思う。死んだらもう悲しみを感じる事は無いんだろう?」

「なんでそんなひどい事言うのよ! あたしだってあんたの悲しみを背中ごしに感じるわ! ねえ、悲しい時は誰かにその悲しみを話す事よ。やっぱりあんたは故郷の友達に会いに行くべきだわ!」

「そうだ、スヴァリ、君の言う通りだ」

 スヴァリの言葉に、マルはエルメライの存在を思い出した。彼が暮らしているタガタイ大学の寮はここから近いはずだ。マルは立ち上がり、歩き出した。虚ろな心の片隅に微かに灯った明かりを頼りに、微かによろめきながら歩みを進めた。

(ああ……あそこで散歩する人の中に、あそこで買い物をする人の中にヒサリ先生は……いるはずない、いるはずないんだ……)

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