第57話 お金を稼ぐ 10
最後の日、マルは自分が珍妙なアジェンナ人を演じているという罪悪感やわだかまりから離れて、はつらつと舞台を飛び回った。ただ目の前にいる客を、そしてここの座長やモン・トク、そして芸人仲間を楽しませるために。
演技を終えて舞台の袖に引っ込む時だった。マルは客席の片隅にクワラ・ハミの姿があるのをはっきりと認めた。マルは愕然とした。マルはハミに、自分が奨学金をもらえなくなったためにアルバイトをしている事は告げていた。しかし夜な夜なこんな「いかがわしい場所」に来ている事は秘密にしていた。その事実が、ここの人々やハミに対して実に失礼だという事に、マルは今更ながら気付いた。
マルはそのまま楽屋の椅子にへたり込むように座ったまま、後悔でうなだれ、自分の膝を叩いていた。座長が近付いて来た。
「はい。これが今日の分のお給料だよ。恋人に恥ずかしい所を見られたって、そんなに落ち込むんじゃないよ。
「え! 分かりますか?」
「そりゃ分かるよ! 今まで見た事のないあんたと同じ年頃の真面目そうなお嬢さんが心配そうな顔で客席座ってたら、ああ、そういう事だなって想像がつくってもんさ! なあに恥ずかしがる事無いさ。あんたは立派に仕事したんだ」
「恥ずかしいなんて思ってません」
「そうは言っても恥ずかしいに決まってるよ。あんたみたいなエリートが。でもね、誇りに思うがいいさ。目的のために人から笑われるような事も出来る男。これこそが真の男ってもんさ。あんたは立派にやりとげた。……それにしても不思議な子だねえ。世間知らずのお坊ちゃんみたいなのに、妙にこんな所に馴染んでいる雰囲気がある。機会があったらまた働きにおいで。ショーに出るのがイヤなら呼び込みだけでもいいさ。あんた、本当にいい声してるよ」
「はい、ありがとうございます」
マルは小屋を出て下宿に急いだ。
ハミが自分の部屋で待っているだろうか。「どうして私に黙っていたの?」と自分を責めるかもしれない。言い訳のしようもない。ただ平謝りに謝るしかない。オート三輪を下り、ゴクリと苦い自分の唾液を飲み下し、下宿の細い階段を駆け上がると、案の定、ハミがランプを一つ灯した部屋で待っていた。
「ハミ!」
ハミはゆっくりと、マルの方に顔を向けた。
「ハミ、ごめん」
「ごめんって、何について謝ってるの?」
「…………」
マルは言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「ああいう所でアルバイトしていた事や、それを私に隠してた事を謝ってるの? でも、あなたは突拍子もない所があるから、そういう事をするかもしれないって思ってたわ。ただ……」
ハミは言い淀んだ。
「ただ、何? 他に怒っている事があるなら言って!」
「あなたはここのところ、私の事なんかほとんど考えていないみたいだった」
「そんな! いつだって君の事を考えているよ! ただ今は事情が事情だから君との時間を作れないだけで!」
「ええ、それは分かってる。あなたがいつも私の事を考えてくれてるのは。でもね、女って欲張りなの。それだけじゃ足りないわ」
「じゃあどうすればいいの? もしおらがここで勉強が続けられなくなったら、故郷に帰らなきゃいけない。そしたら君ともお別れになっちゃうんだよ!」
マルはハミの前に膝まづいた。彼女程賢い人が、なぜ、そんな事も分からないのか。ハミは伏せた目をそっと上げ、マルの方を見返しながら言った。
「ねえ、あなたは本当の名前はマルーチャイっていうんでしょ」
「それはアマン語の名前だよ・カサン語の名前はマレン。どっちも本当の名前だよ」
「私はあなたがマルだった時の事を知らない。あなたにマレンっていう名前をつけた人とどんな時間を過ごしてきたのかも知らない!」
ハミはいきなり体をガタガタと震わせたかと思うと、両手でパッと顔を覆った。
「ハミさん、でもそれはお互い様だよ! おらだって昔のハミさんの事は知らない。だからこれからたくさん一緒に過ごして、話をしてお互いの事をもっともっと知っていこうよ」
ハミは涙を拭ったかと思うと、いきなりマルの体に抱きついた。ハミのふくよかな体に包まれ、マルは茫然となった。ハミはマルの体の形を確かめるかのように、マルの背中の上でゆっくりと手を動かした。
「今のあなたの事を一番知っているのは私!」
マルはハミの抱擁に応えるように、その手に力を込めてハミの体に沈めた。
「あなたはどこにでも飛んで行く鳥。でも遠くにあなたを待っている鳥籠があるわ。そこに捕らえられたら、あなたは逃げ出せないの……あなたはアジェンナに行ってしまうのね」
「すぐに戻って来る、戻って来るから……」
マルはさらにきつくハミの体を抱きしめた。柔らかい皮膚と肉の奥にある彼女の体の固い芯を感じるまで。
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