第56話 お金を稼ぐ 9
それからのひと月は、マルにとって、忙しくとも充実した日々だった。いささか下品な出し物とはいえ、台本を書いたモン・トクや芸人仲間と仕事をするのは楽しかった。そして一日が終わり給料袋を手にする度に、ヒサリ先生にまた一歩近づいたという気がするのだった。
しかししばらくたった後のある日、突然、客席から注がれる笑いが雷雨のようにマルの心をざわつかせた。
(ここにいる観客達は、決して『鼻持ちならない金持ち連中』を笑って楽しんでるんじゃない。変なカサン語を話す野蛮な土人を笑ってるんだ……)
その考えが胸を過ったとたん、マルは自分がアジェンナの仲間に対し重大な背信行為をしている気がした。モン・トクの言う「カサンの病」があるとするなら、恐らく「アジェンナの病」もある。それは強い者に対しこびへつらうか、大人しく恭順の姿勢を示す事だ。そう考えると、マルはいてもたってもいられなくなった。
確かにここで働くのは楽しい。でも続ける事は出来ない。ヒサリ先生に会いに行くだけの船賃もたまった。
マルはおずおずと、座長に申し出た。
「すみません。今日でこのアルバイト、終わりにしたいんです」
「何だって! 随分急に言い出すじゃないか!」
「十分お金がたまりましたので」
「自分の目的さえ達成できれば、後は知らんぷりかい? こっちの迷惑も考えてみな。こういう事は何日も前に言うもんだよ」
「はあ、そうなんですか……」
「あんたが世間知らずで常識をわきまえない子なのは知ってるし、しょうがないさ。ただどうして急にやめる気になったんだい?」
「あのコメディーショーをやるのがつらくなってきて……」
マルは言葉に詰まりながらも、「滑稽で愚かなアジェンナ人」を演じる自分の複雑な思いを正直に話した。モン・トクも一緒になって話を聞いていた。聞き終えた座長は、吸いかけの煙草を手にしたまま、苛々と体を揺さぶりながら言った。
「何をそんなに、偉い先生みたいに堅苦しく考えてんだい? これはコメディなんだよ。仕事に疲れた人たちがここで笑って憂さ晴らしする、そういう場所だよ。あんたがいちいち傷付くような事じゃないよ。アジェンナがどこにあるかも知らないような人達がこれを見てアジェンナに親しみを感じる。それで十分じゃないか!」
「ええ、それは分かってます。私も昔、こういう出し物が大好きでしたし……」
マルは思った。こういう出し物に傷付く人がいる事など思いもよらなかった、と。かつてロロおじさんの見世物小屋では、男が男に言い寄られて逃げ回る様を面白おかしく描いた漫才もやっていて、マル自身お腹を抱えて笑って見ていたものだ。あれだってエルメライが見たらどれだけ傷つくことか。だからマルは、決して座長やモン・トクを責める気にはなれなかった。
「でもなあ、君みたいな優秀なアジェンナ人を出したらそれはコメディにはならないしね」
モン・トクは言った。
「だからといって、アジェンナ人の代わりに滑稽なカサン人を出すと、ここの客は決して受け入れないだろう。まあ、俺の力量不足だ。君を傷付けたとしたら申し訳無い。俺は君に会うまで実際にアジェンナ人に会った事は無かったんだ」
マルは微笑みながら言った。
「ここの雰囲気はとても好きなんです。楽しく仕事させて頂きました。ただ、私は今、一刻も早く会いに行きたい人がいるんです、少しだけお暇をいただければ。これからの事はまた、じっくり考えたいです」
「分かったよ。あんたにはとても大事な事情がある。その事はよく分った。だけどね、明日から急に、なんて言われても困るよ。明日もう一日出てくれないかい。代役を探して稽古しなくちゃいけないから。……ああ、それにしても残念だ。あんたみたいな面白い子にはなかなかお目にかかれないからね」
マルは安堵し、改めて座長に礼を言った。
「ああ、これで、あさってにはタガタイ行きの船に乗ってヒサリ先生の所に向かう事が出来るんだ……」
そう思うと、マルの胸は青空をいっぱい詰め込んだように膨らむのだった。
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