第51話 お金を稼ぐ 4
扉の向こうは煙草の煙が充満し、中がよく見えなかった。マルは激しくせき込む間も、またたく間にテンポの早い音楽がマルの全身を包んでいた。
ジャン、ジャン、ジャン、という絶え間無い金属的なリズムと共に、広い部屋全体が揺れているようだった。客が入り口近くまでひしめき合っている。一番奥の光っている辺りはステージだろう。ぎっしりの人だかりのため、何が行われているのかは分からなかった。マルが必死につま先立ちをしていると、横から声がした。
「ちょいと、お客さん、途中入場でもちゃんと金は払ってもらうよ。三百グォン」
マルがひょいと横を見ると、暗がりの中に、男のような短髪を紫に染めた厚化粧の女が座り、紙煙草を太い指に挟んだままマルの顔を見上げていた。
「あ……あの……私はアルバイトを探しに来ました」
再び沸き上がってきた緊張に、掌が汗でぐっしょりになったのを服に擦り付けながらマルは言った。
「バイト希望かい? あんたが?」
女はマルの顔を重たげなまつ毛の下からじっと見つめた挙句、真っ赤な唇をキューッと横に引いてクックッと笑った。
「ちょっと、こっちへおいで」
女は吸いかけの紙煙草を指に挟んだまま立上がり、扉を開けて外に出ると、マルについてくるように振り返った。そして店の裏に回り、そこに取りつけられた粗末な小さな扉を開き、腰をかがめて入った。
「トク、トク、ちょっと店番代ってくれ」
中は小さな部屋だった。ごたごたと箱が乱雑に積み上げられているため、余計に狭く感じるのかもしれない。マルは女に示された、果物の空き箱らしいものに腰をかけた。
「あんた、学生だろう?」
「ええ、分りますか?」
「外国人といえば学生か肉体労働者に決まってるが、あんたはどう見ても肉体労働者にゃ見えないからねえ。どこの大学だい?」
「トアン大学です」
「名門じゃないか! なんでトアン大学の坊ちゃんがこんな所で働く気を起こしたんだい?」
「どうしても、お金が必要なんです」
「あんた、そもそもここが何をする場所が知ってんのかい?」
「よくは分かりませんが、舞台で何かショーをするんですよね? 私は歌が歌えます」
「あいにくうちじゃ歌手は募集してないよ。欲しいのはダンサーさ」
「ダンサーですか……」
マルは落胆した。ダンスはからっきしだ。自分がダンスを習う、と想像するだけで、シャールーンが師匠のジャイばあさんから受けていた過酷な稽古を思い出してゾッとする。
「それは出来ません。よそを当たってみます。他にアルバイトを募集している店を知りませんか?」
「ちょっと待ちな。ダンスったって別に難しくはないよ。誰にでも出来る簡単なものさ。必要なのは技術じゃなく覚悟だよ」
「覚悟ならあります」
「いいかい、何をするか教えてやろう。舞台の上をぐるぐる歩いて回る。一周するごとに服を一枚ずつ脱ぐんだよ。そして最後には素っ裸になる。あんた、それをやる覚悟はあるかい?」
マルは驚愕の余り言葉を失った。女はそんなマルの顔を面白そうに見返しながら、紙煙草を皿にこすりつけた。
「どうだい。やるならここはどこより稼げるよ。出来ないっていうんなら用は無いからとっとと他所へ行きな」
マルは心の中で一度
(ヒサリ先生)
と呟いた後、
「やってみます」
と言った。
「ほほ。それなら今ここで服を脱いでごらんよ」
「分かりました」
マルはそう言って自分の服に手を掛けた。
(なに、恥ずかしがる事なんか無い。村じゃみんな裸に腰巻だけで過ごしてたんだから)
とはいえ若干の抵抗を感じずにはいられなかった。なにせ、物心ついた頃から自分の全身はイボで覆われていた。イボがマルにとって服の代わりをしていたようなものだ。しかし今、マルはヒサリ先生のために恥ずかしい事をしようとしている自分にいくらか酔いしれていた。マルは思い切ってシャツを脱いで上半身裸になった。
「下も脱いだ方がいいんでしょうか!?」
「まあ、そう焦りなさんな。あんた、貧相な体つきだねえ。でもあんたみたいなタイプを好む客もいない事はないよ。こっちへおいで」
女は立ち上がって部屋の奥の扉を開けた。その奥から、今までかいだ事の無いような強烈な匂いと淀んだ空気とが溢れ出し、マルを圧迫した。マルは一瞬、その奥に蠢いているのは妖怪ではないかと思った。よくよく目をこらすと、三人の人間だった。彼らが身に着けているのは、カサンではまず見た事が無い、キラキラした布を幾重にも体に巻き付けるようなタイプの服装だった。彼らの喋り合うガラガラした太い声から、全員男である事は明白だった。
「ここで働きたいって言ってきた子だよ。うぶに見えるけど、相当覚悟を決めて来たみたいだから、可愛がってやっておくれ」
三人が一斉にマルの方を見た。全員の顔にべったりと厚い化粧が施されている。男の化粧姿を見るのはスンバ村では初めてだった。
「おや、随分小さくてかわいい子じゃないか」
「この体つきだと、アソコの大きさは小指位にちっこいんじゃないかい?」
マルは恥ずかしさの余り全身の穴という穴から火を噴きそうになった。
「さあ、もうすぐ始まるよ。ここはちょうど舞台裏さ。そこのカーテンの隙間から、どんな具合にやってるか見る事が出来るよ」
その時、女に示されたカーテンが揺れる程の大音量の音楽が鳴り響いた。と同時に、ダンサーたちが次々とカーテンの向こうに消えて行く。マルは女に促されてカーテンに寄ると、カーテンの端から舞台をそっと覗いてみた。
舞台には三人の楽師がいて、それぞれ弦楽器、打楽器、笛を手にしていた。三人のダンサーたちは、上半身を揺らしながら大股に舞台上に進み出て、回転し、ポーズをとって静止した。その度に客席からはやんややんやの喝采が沸き起こる。三人のうち一人がいきなり着ている物をはだける。股間が一瞬露になるが、特殊な油でも付けているのか、ピカッと光る。
「ウワーーー!!」
凄まじい拍手とどよめき。客席の興奮は最高潮に達した。
(なるほど、これが『蛍男か』……!)
マルは思った。
(ああ、懐かしい……)
マルはこれまで一度も男が着ているを脱いで裸になる見世物など見た事が無かった。しかしそこに漂う猥雑な空気は、幼い頃スンバ村のロロおじさんの見世物小屋のものと実によく似ていた。
(おらはきっと出来る。昔ロロおじさんに、あそこで働かないかって誘われた事もあるもん。踊りだってそう難しくなさそうだ)
裸になる事は恥ずかしい。しかしヒサリ先生の事を思うなら、何をためらう事があろうか!
ショーを終えたダンサー達が、次々と舞台裏の部屋に戻って来た。そのうちの一人がマルに顔を向けた。唇は真っ赤。まるで男吸血鬼のような顔だ。
「どーお? 悪夢のような光景でしょ? あんたの丸い目が驚きの余りクルクルしてるよ!」
「大丈夫です! やります!」
三人のダンサーも紫の髪の座長の女も声を立てて笑った。
「うぶなお坊ちゃんに見えるのに、大した覚悟だねえ。よっぽど金に困ってるんだね。女に騙されでもしたのかい? まあ、詮索するのもかわいそうだ。明日からおいで」
「はい。学校の授業が終わったらすぐ来ます」
「飲み込みの早い子なら一時間も稽古をすりゃその日のうちに舞台に立てるよ」
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