第44話 軍艦ヤシャク 1
トアンでの日々は、季節の移り変わりと共に、またたく間にマルの体を駆け抜けて行った。
タガタイでの牢獄のような日々に比べ、トアンでの生活はまるで背中に羽が生えたように自由だった。ハミは心の安定した女性で、マルは彼女と共にいる事で穏やかな気分になった。ハミがマルの部屋にやって来た時は一緒にお喋りして時間を過ごしたし、天気の良い日は公園に出かけた。トアンでの恋人との散歩は、かつてスンバ村でナティとしていたように酷暑の中を木陰を探して歩かなければならなかったのと違って日差しも風も実に柔らかく心地良かった。そして時にはハミと共にレストランや映画に行く事もあった。一方、マルがハミの下宿に行く事は決して無かった。ハミは女子専用の下宿で生活している。そこでは規則が厳しく、「男を連れ込むなどもっての他」との事であった。
「尼寺みたいな所なの」
ハミはそう言って笑った。
「父が私に、悪い虫が付かないようにってそこに入れたの。父はとても厳しい人なの」
「そしたらこんな大きな虫が付いてしまったってわけだ!」
「あら、でもとってもかわいい虫よ」
マルはハミのそんな言葉を聞きながら、いつしか自分がハミの父親に「娘さんを私にください」と言う日を夢想した。結婚するために父親の承諾を得なければならないと思うとなかなか緊張するけれども、これがカサンの習慣なのだ。ただ、マルはいまだに自分の過去について多くをハミに語れないでいた。「自分は孤児で、幼い時にカサン人の先生に引き取られ、そこで寝泊まりしながら勉強した」という事だけを告げた。ハミもほとんどマルの過去について聞いてこなかった。顔立ちからいかにもピッポニア人の血を引いている事が明らかな自分への配慮だろう、とマルは想像した。いっそ何もかも打ち明けたい、自分の病気やかつて故郷で「卑しい妖人」などと言われていた事も何も。そうすればどれだけ気持ちが楽になるか、という思うこともあった。しかしすぐにこう思い返した。
(アジェンナには『賢い人は秘密の箱を持ち歩く』という諺があるじゃないか。わざわざハミさんを不快にさせる事なんか言う必要無いんだ)
トアンでは、見るもの聞くもの全てが美しかった。故郷スンバ村とは違って四季の移ろいがあり、マルの頭にはそれぞれの季節の詩が生まれた。
ヒサリ先生の故郷のナサも訪れた。ナサはトアンからほど近い場所に位置する軍港の町であった。軍港、とはいうものの、海と山とに囲まれた町は美しく、清新な空気に満ち溢れていた。古い建物と新しい建物が混在した街並みマルはすっかり心惹かれ、一日じゅう歩き周り、少女の頃のヒサリがきびきびした足取りで町を歩き回る様を想像しては、一人港の風に向かって微笑みを浮かべるのだった。
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